市場にて
『リシュ!』
何者かが叫ぶ声がする。リシュリオルはふわふわとした柔らかな雲の上で眠っていた。一面、青空と雲海、この世界にはそれしかない。澄みきった空気が全身を、細胞の隅々まで浄化していく。
『朝食抜きになっちゃうよ!』
また何者かの声。朝食抜きは困るが、この雲の上から身体を起こすことができない。この雲の心地の良さは、言うなれば快楽の牢獄であり、我が身体の解放を許してくれないのだ。
『起きろっ!』
何者かの三度目の声と共に、周囲の雲が黒く染まり、稲妻を吐き出し始めた。痛い、痛い。白く光る電撃が顔面にぶつかる。痺れる激痛が顔中に広がっていく。先程までの天上の楽園の様な世界は、暗黒に包まれ、そこかしこに轟く雷鳴がリシュリオルを恐怖させた。
『これで終わりだ!』
何者かが放つ終焉の宣告。リシュリオルの身体は、今まで横たわっていた雲をすり抜けて、頭から真っ逆さまに落ちていった。雲の下に存在した地上には溶岩の海が波打っていた。そして、巨大な怪獣が地響きを鳴らしながら歩き回り、火を吹いている。ああ、終わりだ。世界の終わりだ。このまま、この身体は大地を焼く溶岩の上に落ちていくのだろう――。
リシュリオルが落ちたのは溶岩の上では無く、朝の空気で冷えた木の床だった。そのひんやりとした冷たさが心地良いので、頬ずりしてみる。
人の気配を感じたので、床に張り付いたまま後方を見上げてみると、怪獣のように怒った顔で、リシュリオルのことを睨みつけているアトリラーシャがいた。
首を交互に振って、世界の安否を確認する。……どうやら、世界は終わっていないようだ。
開かれた窓から、小鳥の優しいさえずりが聞こえてくる。
「夢か……」ゆっくりと身体を起こして、冷たい床から離れる。
「朝食片付けられちゃうよ! さあ、早く!」
「はい……」
リシュリオルは寝ぼけた身体をなんとか動かして、アトリラーシャに手を引っ張られながら、食堂に向かった。
食堂には、もう殆ど客の姿は無く、席に座っているのは、グレスデインとカルウィルフしかいなかった。その二人も既に朝食は食べ終えているようだった。
慌てた様子で席に座るアトリラーシャと寝癖だらけのリシュリオルを見て、カルウィルフがおかしそうに笑った。
「遅かったね、姉さん達。もう料理も冷めちゃってるよ」
「リシュが全然起きなくて……」
「……ごめんなさい」
カルウィルフの言うとおりに冷め切ってしまった料理(スープとコーヒーはオーナーが温め直してくれた)を口に流し込むように素早く平らげる。その後は熱いコーヒーをゆっくりと味わって飲む。強い苦味のあるコーヒーは目覚めかけの脳みそを完全に覚醒させた。
「ごちそうさまでした」
朝食後、各自部屋に戻り、荷物を持って、ペンションの受付に集まった。オーナーに街へ出掛けることを伝えた後、昨日予定していた鍵探しを開始する。
リシュリオルはペンションから程近い市場へ。アトリラーシャは昨日とは別の農園、カルウィルフは駅の周辺、グレスデインはペンションから最も離れた山際の集落に向かった。
リシュリオルの向かった市場というのは、無数の露店の集まりだった。その露店達は街を大きく二分するように走る大通りに沿って並び、屋根代わりに使われる色とりどりのタープによって、街を鮮やかに彩っていた。
市場には食料品や衣類、日用雑貨などの様々な商品が売り出されていた。リシュリオルは人混みの中を縫うように進み、鍵の気配を探す。
しかし、彼女の目的を阻むものがその市場にはあった。
香ばしく焼かれた肉の匂い。焼きたてのパン、採れたてのぶどうの甘い香り。数々の食品から漂う匂いが、見えない壁となって立ち塞がる。朝食を食べたばかりのはずのリシュリオルの腹の虫が引っ切り無しに鳴り響いた。
我慢だ、我慢。今は鍵を探さなくては……。
数分後、いつの間にかリシュリオルの右手は、干しぶどうがぎっしりつまった(更に砂糖がたっぷりまぶしてある)パンを掴んでいた。
この世には抗うことのできないものがあるのだ。それがこのパンだ。
パンを片手に鍵の探索を続けていると、この市場のある大通りと同じ位の幅の道とが重なる交差点に辿り着いた。
リシュリオルはパンを口に咥えたまま、地図を広げ、現在地を確認する。どうやらこの交差点はこの市場の中心地らしい。
右に進めばカルウィルフの向かった駅の方に、左に進めばアトリラーシャの向かった農園の方に、真っ直ぐ行けばグレスデインの向かった山際の集落に行き着く。
他のメンバーが向かった場所はリシュリオルのいる市場からはそれなりに距離があった。きっとペンションに戻ってくるまでには、かなりの時間が掛かるだろう。
リシュリオルは交差点の中心に立つ時計塔を見つめる。まだまだ時間には余裕がある。もっとゆっくりと市場を見て回っても良さそうだ。……パンを消化している胃袋にも、まだまだ隙間はあり余っている。
(私の食欲が満たされる頃には、いい時間になるだろう)
この時、リシュリオルの『食』の冒険が始まろうとしていた……。
ぶどうには、一房の中でも糖度に違いがあり、上に付いている実ほど甘みが強くなる。その為、生でぶどうを食す場合は房の下から上に向かって食べることで、舌で感じる甘みを落とす事なく、最後まで食べ切ることができる。
……最初にぶどうを買った露店で、そんな豆知識を教えて貰った。そして、その知識を実践する為にリシュリオルが数十種類のぶどうを買い漁っている頃には、昼下がりの強い日差しが市場に降り注いでいた。
リシュリオルは流石に鍵の探索を本格的に始めなければならないと思い、片腕でぶどうの入った袋を抱えながら、まだ足を運んでいない通りの露店を覗いてみることにした。
最初に立ち寄ったのは調理器具を売っている店。その次は右隣の画材専門店へ。どちらも鍵の気配は無く、あまりそそられるものも無いので、直ぐに通り過ぎる。そのまま三軒目、四軒目と次々に右隣にある店を見て回っていったが、鍵の気配を感じることは無かった。
一通り市場を歩き回ったが、異界の鍵は見つからなかった。リシュリオルは既に鍵の探索を止めていた。他の仲間が向かった場所に鍵はあるのだと考えたからだ。
いつの間にか、青く澄んでいた空が茜色に染まり始めている。リシュリオルは市場での鍵の発見を完全に諦め、ペンションに戻ることにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます