第九章:彼女が生まれた日

故郷

 これは私の心、私の記憶。私たちは巨大な二つの山脈に挟まれた小さな街に訪れていた。そこは、銀色の姉弟の故郷。ぶどう畑が広がる暖かな風が吹く街。


 これは私の心、私の記憶。私は銀色の姉弟と共に彼女たちの家に向かっていた。この街で姉弟が過ごしてきた日々のことを聞きながら。二人の語る思い出を頭の中に思い浮かべながら。




 とある異界、リシュリオルは銀色の姉弟やグレスデインと共に列車に揺られていた。車窓からは一面に広がるぶどう畑と、地平の先に壁のように立ちはだかる巨大な山々が見えた。


 この街はアトリラーシャとカルウィルフの故郷の街であり、異界渡りになる前は二人はこの街で過ごしていたという。グレスデインは、姉弟の父親である彼の弟と共に別の街から来たと聞いていたが、この街に住んでいたことはないらしい。それは、彼がこの街に訪れた時に異界渡りになったからだそうだ。


 しかし、彼の弟がこの街の女性と結婚し、街に身を置くことになった為、グレスデインは異界の旅でこの街に訪れる度に長期滞在をしていた。そのおかげで、多少は街に馴染みがあるという。


 車窓の景色を見つめるリシュリオル。ぶどう畑の中に点在する家々には立派な煙突が付いており、もうもうと煙が立ち上っていた。アトリラーシャにそのことを尋ねると、この街はぶどう以外にも鉱石の採掘と金属加工が有名な街らしく、煙が上がっている家は全て鍛冶屋を営んでいるのだそうだ。


 列車は、大きな川の上に架けられた長い橋に差し掛かる。


「遠くから見ても分かるけど、何も変わっていないね、この街は」 

「確かに変わっていない。……見ろ、あの取水塔。姉さんが調子に乗って屋根まで登って、降りられなくなったやつだ」カルウィルフは川の上に建てられた黄色い壁の塔を指差した。

「なんだか、容易に想像できるよ……」リシュリオルは塔の屋根の上で泣きじゃくるアトリラーシャの姿を思い浮かべ、苦笑した。


「そんなこと覚えてなくていいから!」

「あの時は大変だった。俺もとばっちりで父さんに怒られたんだよなぁ……。ん、あの塔が見えるってことは、もうすぐ……」

「ああ、もうすぐお前たちの家の最寄り駅に着くぞ」グレスデインは静かに呟いた。




 姉弟の家の最寄り駅に着くと、グレスデインは『私は寄っておきたい場所があるから、その間にお前たちは家に行ってきなさい』と言って、何処かに行ってしまった。


 三人は、左右に広がるぶどう畑と地平から突き出す巨大な山塊を望みながら、姉弟の家に向かった。しばらく、景色の変わらない道を歩いていると、アトリラーシャが『家が見えた』と言って、小さな丘の上に建てられた赤い屋根の家を指差した。家の向こうには森が見え、鮮やかな新緑の葉が風に揺れていた。


 リシュリオルは姉弟の家を見て、ふと彼女たちがこの街でどんな暮らしをしていたか気になり、尋ねてみた。

「二人はどんな風にこの街で過ごしていたんだ?」


 アトリラーシャが嬉しそうに答える。

「私は毎日、父さんの仕事を手伝ってた。父さんも鍛冶屋をやっていてね、結構有名な職人さんだったんだよ。私も将来は父さんと同じ鍛冶屋になるつもりだったんだ」


 カルウィルフもアトリラーシャに続いて答える。

「俺は絵描きだった母さんと一緒に、画題を探す為に、よく街中を歩き回った。家に帰る時、馴染みのぶどう農園で、売り物にならないぶどうを持って帰るんだ。母さんはそれを絞ってジュースを作ってくれた」


 二人は懐かしそうに家族と過ごした日々のことを語った。リシュリオルはその話を微笑ましく聞いていた。二人の思い出話の話題がちょうど尽きた頃に、姉弟が暮らしていた家に辿り着いた。


 リシュリオルは姉弟と共に敷地内を見て回る。一階建ての木造の家は、全く手入れもされていない様子で、周囲の草木に侵食されており、外壁にも無数の細かいひびが見受けられた。庭に置かれたウッドデッキは腐食し、大きな穴が空いていた。


「このウッドデッキ、父さんが作ったんだ。父さん、ものづくりが得意だったから、いろいろ作ってくれたんだよ」アトリラーシャが庭を見つめるリシュリオルの隣に並んで呟いた。


「そろそろ家の中を見てみない? こっちだよ!」アトリラーシャは小さく手を振りながら、雑草まみれの庭から動き出した。


 リシュリオルは姉弟の後を追い、ひび割れた石のタイルの道を進む。二人は銀色の髪を並べて、玄関の前に立っていた。


『ただいま』姉弟は声を揃えて言った。


 アトリラーシャが扉のドアノブに触れる。玄関の扉は軋んだ音を立てて開かれ、扉の近くの床に積もっていた埃が宙に舞った。ホコリを吸い込まないように口元を抑えながら、三人は玄関の扉を通り過ぎる。


 玄関の扉を抜けた先はリビングルームに繋がっていた。ホコリを被ったソファとすすだらけの暖炉があり、壁際には沢山の本が収納された本棚が一列に並んでいる。


「……何も、変わってないね」アトリラーシャが部屋を見回して、呟く。

「ああ、変わっていない」カルウィルフも同じように呟いた。


 リシュリオルが部屋の壁に掛かっていた絵を見ていると、カルウィルフが彼女の背中に向けて声を掛けた。

「その絵、母さんの絵なんだ」


 木製の額縁にはめられた絵には、階段状に広がるぶどう畑とのどかな街並みが描かれている。それは、この家に来るまでに見てきた街の景色だった。


「凄く惹き込まれる絵だ。縁もゆかりもない場所の筈なのに、懐かしさを感じる」リシュリオルが絵をじっと見ながら、言う。


「そうだろ? 俺がすごく気に入っていたから、母さんはこの絵を売らずに、ここに飾り続けてくれたんだ」

「カルはいっつもこの絵を見ていたよね。私が邪魔すると物凄く怒ったんだよ」アトリラーシャがおかしそうに笑う。

「姉さんは昔から俺の邪魔ばかりしてきたよな」カルウィルフはムスッとした表情で姉のいたずらについて愚痴った。


 リシュリオルは、幼い二人がふざけ合っている様子を思い浮かべて笑った。そして、既に慣れてしまっているはずだったが、自身には肉親が誰一人としていないことを少しだけ寂しく思った。


 リシュリオルはその後も姉弟の後を追って、二人の両親の仕事場や彼女たちの部屋、押し入れ、トイレにいたるこの家の全ての部屋を見て回った。ある部屋を除いて。


 姉弟が最後に扉を開けた部屋は、彼らの両親の寝室だった。小さな窓の向こうには鬱蒼とした森が見える。

 先程まで、住んでいた家の景色を懐かしみ、思い出を語り合っていた姉弟の笑顔は、暗澹とした悲痛の表情に変わっていた。


 寝室を見たカルウィルフが不意に呟く。

「この部屋は……例の事件が起きた部屋だ。この寝室で父さんと母さんは……殺された」

「私達は伯父さんが来るまで、部屋の隅で真っ赤に染まった二人を見ていた。何もできずに震えていた。どうすればいいか分からなかったから」彼に続いてアトリラーシャが、部屋の隅の方を見つめながら言った。


 銀色の姉弟は未だ死の香りが抜けきらずにいるその部屋を、虚ろな表情で見つめていた。


 リシュリオルはなんと声をかけて良いか分からず、二人の背中を見ながら立ち尽くした。彼女たちが今まで話してきた幸せな家族の情景は、もう見ることは出来ないのだ。そう考えると、胸が酷く苦しくなった。


 重い沈黙の中、突然、アトリラーシャが口を開く。

「父さんと母さんのお墓、見に行こうか」

「そうしよう。この部屋にはあまり長くいない方がいい気がする」

 カルウィルフはそう言うと、立ち尽くすリシュリオルの横を通り過ぎて、部屋を出た。


 カルウィルフの足音が遠ざかると、アトリラーシャも動き出し、リシュリオルの元へ近付き、微笑みながら言った。

「ごめんね、重苦しくって。でも、もう少しだけ付き合って?」


 リシュリオルは無言で頷き、アトリラーシャの後ろを付いていく。二人が部屋を出ると、カルウィルフがリビングに置かれた棚をじっと見つめていた。


「何見てるの?」


 アトリラーシャはカルウィルフの隣に並び、彼の視線の先にあるものを覗き込む。そして、彼女は棚の上に置かれていた物を手にとって持ち上げた。それは卓上のカレンダーだった。この家の状態からして、それはきっと何年も前の物だろう。目を凝らしてみると、カレンダーに並んでいる日付の数字の一箇所だけ、赤いインクの丸で囲われていた。


「異界を渡り始めてからあまり日付を気にしていなかったから忘れていた。この世界の今日は、姉さんの誕生日だ」カルウィルフが呟く。

「そっか。私も忘れてた。……でも、誕生日だからって特別なことなんてしなくてもいいよ。私自身が忘れていることなんてどうだっていいから」


 アトリラーシャは冷たく笑いながら、カレンダーを棚の上に戻した。リシュリオルは彼女の寂しげな笑顔が酷く気に掛かった。


「さあ、お墓参りに行こう! お花も買っていかないとね」

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