廃ビル群のボードゲーマー
翌朝、目を覚ますとアトリラーシャの顔が目の前にあった。くすくすと小さく笑い声を上げている。
「やっと起きたね、リシュ。ベッドから落ちちゃうなんて、リシュは寝相悪いね〜」
何を言っているんだろう、彼女は。複雑な思いを胸の内に秘めながら、ゆっくり身体を起こすリシュリオル。アトリラーシャが手を引っ張って、立ち上がるのを手伝ってくれた。
「カルと伯父さんはもうエントランスにいると思うよ。私達も早く行こう!」アトリラーシャの元気な声が寝起きの重い頭にうるさく響いた。
「……分かった」リシュリオルはまだ目覚めきっていない頭でゆっくりと頷いた。
着替えを済ませ、髪を整える。硬い床の上で寝ていたせいか、身体中に痛みが走り、日常的な行為も億劫に感じた。顔を洗っている時に鏡に映った自分の顔は酷くやつれていた。
この日の朝だけは、昨日のグレスデインのうっかりを激しく恨んだ。恨み言をアトリラーシャに聞こえないようにぼそぼそとぼやきながら、彼女と共にホテルのエントランスへ。
エントランスで待っていた二人は、リシュリオルのやつれた顔を見た途端、苦笑した。リシュリオルは不機嫌さを全開にして『おはようございます』と挨拶する。カルウィルフは再び苦笑いを浮かべ、グレスデインは『すまなかった』と小さな声で謝った。
「何してるの? さっさと行こうよ」
アトリラーシャは元気にホテルの外へと走り出す。エントランスに取り残された三人は顔を見合わせた後、呆れた様子でアトリラーシャを追い掛けた。
一行はホテルの近くにあるカフェで買ったコーヒーとサンドイッチを口にしながら、今日の目的地である廃ビル群へ向かった。
廃ビル群へ向かうに連れ、人々の着る衣服は貧相になっていき、老朽化した建物が増えていく。この街の影の部分が顕になっていくのが分かった。
あらゆる世界には差がある。この街にあるのは貧富の差という最も世にありふれた差の一つだ。そして、そう簡単には無くならない差。リシュリオルはこの差を何度も見てきたが、ボロボロの服を着た浮浪者や、物欲しそうにこちらを見つめる子供達の姿を見る度に、気分が悪くなった。差を生んでいる世界の仕組みや、それをどうすることもできない自分に腹が立った。
リシュリオルは街の暗い部分から目を背け、犯人捕獲用のビル探しに意識を向けた。意識を向けると言っても、手頃なビルを見る度に唸り声を上げ、考え込むアトリラーシャの言葉を聞いて、『なるほど』と相槌を打つくらいしかやれることはないが。
数回『なるほど』と言った後に、捕獲用のビルは見つかった。アトリラーシャはグレスデインとカルウィルフに街の自治組織に連絡を頼み、リシュリオルには一緒に付いてきて欲しいと頼んだ。アトリラーシャの意図が読めず、怪訝そうな表情で彼女としばらく見つめ合ったが、純真な銀色の眼力に負けて、リシュリオルは渋々頷いた。
「伯父さん、もう一つやりたいことがあるから、それが終わったら連絡するね」
「分かった。ここは都市部と違って治安が悪い。気を付けろよ」
「大丈夫、大丈夫。リシュが付いてるから」
アトリラーシャの言葉に不穏な気配を感じるリシュリオル。彼女は何をする気なんだろう。物凄く不安になってきた。
「じゃあ、リシュ。行こっか」
「……え、ああ、うん」
アトリラーシャと歩き始めて数分後、リシュリオルは彼女に尋ねた。
「それで、何をする気なんだアトリ」
「司令室を探そうと思ってね」
「司令室?」
「そう、このビル街を見渡せる高い場所を確保しておきたいんだ。多分、今までで見てきた感じ、ここが一番高いビルだね」
いつの間にか、目の前には周りのどの建物よりも背の高いビルが立っていた。そして、その入り口には明らかに裏世界の仕事をしているであろう、人間達がたむろしていた。アトリラーシャはつかつかとその中を一人進んでいく。
リシュリオルは呆然とアトリラーシャの背中を見つめていたが、すぐに彼女の元へ走り寄る。周囲の人間の視線が突き刺さる。そして、このままでは彼等は視線なんて生易しい物ではなく、刃物でも突き刺しに来るだろう。急いで彼女を止めなくては。
「アトリ。ここはまずい」
「何が? リシュは弱気だねぇ」
「荒事を起こしたくないだけだ。それに、昨日目立つようなことはするな、と言ったのはお前だ!」
「まあまあ、落ち着いてリシュ。どうやら親玉っぽい人が出てきたみたいだよ」
アトリラーシャの指差した先には、眉間に深く皺を刻んだ、貫禄のある高齢の男性がいた。周りの下っ端共がへこへこと腰をかがめて媚びへつらっている。
「リシュ、あの人の掛けてるペンダント見てよ」
リシュリオルがアトリラーシャの言う通り、老人の胸元にあるペンダントを見ると、黒い文字のような物が刻まれた白いコインのような物がぶら下がり、振り子のように左右に揺れていた。
「なんだ? あれ」
「あれは、この世界のボードゲーム、『国守盤』の駒の一つだね。色が少し変わっているけど」
「それが何だって言うんだ」
「あの人、国守盤に関しては、相当に腕の立つ人だと思う。この街に来た時、仕事を請け負う前の暇な時間に、路上で国守盤をやってる人達と対戦してる時に聞いたんだ。……廃ビル群にいる黒文字の白駒をぶら下げてる男に勝てた奴はこの世にはいないだろうなって」
「だから、それが何なんだ?」
リシュリオルの質問の直後、アトリラーシャは大きく息を吸い込んだ。
「私が国守盤で、彼に初めての敗北の味を教えると共に、このビルの屋上を貰う!」
アトリラーシャの勝利宣言が辺りのビルに反射し、響き渡る。勿論、その声は老人の耳にも届いているだろう。老人は呆気にとられている様子だったが、彼の周りの男達は既に臨戦態勢に入っていた。銃を取り出す男達を見ながら、リシュリオルは声に出さずに嘆いた。
(ああ、もう終わりだ。アトリラーシャ、なんてことをするんだ。もう、駄目だ。……今日の夕飯は何にしよう? ……さっぱりした奴が良いなぁ)
絶望する彼女の思考の流れの中に現実逃避の言葉が混ざり込む。しかし、そんな緊張感の無い日常用の思考回路はすぐに戦闘用に切り替わり、リシュリオルも戦いの準備、構えを取る。
(どうする? アトリラーシャを守りながら、大勢の銃を持った人間と戦えるか? 一番近い奴から倒すか、それとも隣の奴か?)
リシュリオルは周囲の様子を見回し、戦況を確認する。戦闘用に切り替わった脳が、いかに自分達がダメージを負うこと無く、敵を倒せるかを高速で計算し始める。だが、彼女の脳内演算処理はしわがれた老人の声によって停止する。
「待て! お前達、待て! 撃つんじゃないぞ」
老人の声は、リシュリオル以外の人間の動きも止めた。男達は互いに顔を見合わせて、ゆっくりと銃を下ろす。
「銀髪のお嬢ちゃん。国守盤で私に勝つと言ったのかな? もしかしたら、私の聞き間違いかもしれないが」
「うん、勝つよ。屋上を使わせてもらわないといけないからね」
「ふふ、面白い娘だ。……良いだろう。君が勝ったら、このビルの屋上を使わせてあげよう。だが、君が負けた時はどうするつもりなのかね?」
「煮るなり焼くなり、好きにしていいよ。まあ、負けないけどね」
老人はにやりと口角を上げ、隣に立っていた大男に耳打ちした。
「ゲームの準備は整えてある。私と君と二人だけで対戦する。さあ、ビルの中に入りたまえ」
「はーい」
アトリラーシャは気の抜けた返事をした後、老人の跡を付いていった。
リシュリオルは二人の跡を追いかけようとしたが、先程老人の隣に立っていた大男が彼女の前に立ち塞がる。
「君はゲームをしないんだろう?」
「アトリを一人で行かせる気は無い。お前達は信用ならない」
「駄目だ。通す事はできない」
リシュリオルと大男が睨み合っていると、ビルの中から老人のしわがれ声が聞こえてきた。
「彼女も通してやれ。来ていいのは、部屋の前までだがな」
「しかし……」
「いいから」
立ち塞がっていた大男は舌打ちしながら、身体を横に向け、リシュリオルをビルの中に入れることを許した。リシュリオルが得意顔で大男の横を通り過ぎていくと、彼の舌打ちがまた聞こえた。
リシュリオルがビルの中に入ろうとした瞬間、背後から大男の棘のある声が聞こえてくる。
「おい、俺も付いていく。訳の分からん小娘二人とあの人を一緒にしてはおけないからな。それに……」
「それに?」
「いや、何でも無い。さっさと入るぞ」
互いに睨み合いながら、ビルの中に入る二人。大男が先行して、対戦を行う部屋へ向かった。リシュリオルは部屋へ向かう途中にショーケースに無数の表彰やトロフィーが飾られているのを見かけた。多分、その全てが国守盤とやらで手に入れたものなのだろう。
昨日始めて、このゲームの事を知ったアトリラーシャが勝てる相手ではないと、リシュリオルは決めつけていた。また、もし彼女が負けてしまった場合の対処方法についても考えていた。部屋に向かう前に、建物の構造や人の配置を確認しておく。
前を歩いていた大男がドアノブまで黒い扉の前に立ち止まる。どうやらここが対戦を行う部屋らしい。リシュリオルが扉に触れようとした時、大男が彼女の動きを制止するように叫んだ。
「待て! あの人の対戦の邪魔をすると、殺されるぞ!」
「たかが、ゲームで何を……」
「本当に殺された奴がいるんだよ! だから、その扉から離れろ! 対戦が終わったら、普通にその扉を開けて二人共出てくるから!」
額に汗をにじませて騒ぐ大男のただならぬ様子を見て、リシュリオルは真っ黒い扉からすぐに距離を置いた。
さっきビルに入る前に言い渋っていたことは、このことなのだろうか。だが、対戦を邪魔されたくらいで人を殺すのか? その身を賭けているアトリラーシャならまだしも、相手が賭けているのはビルの屋上の使用権利だぞ?
ボードゲームの達人でありながら、この街の裏世界の住人。あの老人は一体何者なのだろうか? そんなことを考えながら、リシュリオルはアトリラーシャが部屋から出てくるのを待った。
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