第七章:銀色の姉弟
彼女の名前は
これは私の心、私の記憶。彼との別れは私の心を酷く悲しませ、道に迷わせた。道が現れても、進むことはしなかった。道が消えるのを待った。最初の旅を思い出す懐かしい場所で。
これは私の心、私の記憶。懐かしい場所で、懐かしい人に会う。その人の言葉を信じて、行動してみるべきか。まだ待ってみるか。私はこれからどうすればいいのだろう。そんな迷いを吹き飛ばすように、彼女は現れた。
砂の街、とあるホテルにて。
「リシュ、お客さんが来ているわ」リシュリオルを呼ぶ女性の声がホテルの中から聞こえてきた。
「分かった、アルフェルネ。今行くよ」カフェテラスにいたリシュリオルは、空になったコーヒーカップを持ち上げながら、ホテルの中に向かって返事をする。
リシュリオルは受付のあるホテルのエントランスに急ぎ足で向かう。コーヒーカップは厨房内の適当なテーブルの上にサッと置いていく。
カップを持つ手が解放されたので、両腕を勢い良く振って受付に向かって全速力で走る。廊下を踏む靴の音がドタドタと響く。
「お待たせしました!」
慌てて部屋の鍵などが置かれている受付のスペースへ入り込む。受付のテーブルから目線を客の顔へと向ける。リシュリオルは二人の客の顔を見て、あんぐりと口を開けた。
「よっ! 久し振り、我が弟子」そう話すのは、イルシュエッタ。明るい茶髪の女性。変わらない軽い調子の声と態度。ニヤニヤとこちらの顔を伺っている。
「お久し振りです。リシュ」もう一人はリーリエルデ。長い金髪の女性。柔らかな微笑みを浮かべて、丁寧にお辞儀する。
「ど、どうも」
辿々しく話すリシュリオル。アルフェルネと再会した時もそうだったが、子供の頃に一度会ったきりの人間と会うのは、どうしてこんなにも気まずいものなのか。
イルシュエッタ達と出会った頃の無邪気さはもう何処かに消えている。面倒な思考が頭の中で巡り回ってしまい、気軽に話すことなどできなかった。
「……『どうも』って、あの頃の威勢の良さは何処に行ったのさ」イルシュエッタが腹を抱えて笑っている。
「初めて会った時と比べて、大きくなりましたね。見違えました」リーリエルデは微笑ましげに、リシュリオルの成長した姿に感心していた。
廊下の方から足音が近付いてくる。
「リシュ、大丈夫?」心配そうな表情をしたアルフェルネが現れる。
「大丈夫。お客さんが昔の知り合いだっただけ」
「そうなの? ……それなら受付が終わった後でも、お話してくればいいわ。後のことは私に任せて」
アルフェルネ、余計なことを。
リシュリオルは彼女の素敵な親切を断る為、あれやこれやと提案したが、結局、彼女の勢いに押し切られてしまい、カフェテラスで二人と話す羽目になった。
「リシュはこのホテルで何をしているんですか?」リーリエルデからの質問。
「この世界でお世話になったホテルだから、恩返しのつもりで働いてる……。なかなか『鍵』が見つからなくて」
嘘でも本当でも無い曖昧な答えを返す。リシュリオルはラフーリオンと別れた後、半年程、アルフェルネとベルフリスのホテルを手伝っていた。
リーリエルデは納得するように頷いたが、イルシュエッタはじっとリシュリオルの顔を睨んでいた。
「師匠はどうしたの? あと、あの精霊さんも」
いきなり答えにくい質問が来た。正直に話すべきか。特にイルシュエッタ、彼女にはラフーリオンのことは話しにくい。きっと傷つくだろう。
「……ラフーリオンは途中で別の扉を通ることになった。アリゼルはやらなきゃいけないことができたから、それで」また曖昧な答えで返す。納得してくれるだろうか。
「ふーん、そっか」イルシュエッタは視線を反らして、街の景色を見始めた。その横顔はどこか悲しげだった。リシュリオルは適当に考えた答えに何も突っ込まれなかったので、胸を撫で下ろす。
だが、次の瞬間、街の景色を見ていたはずのイルシュエッタの顔がぐっと近付いてきた。
「それで、これからはどうするつもりなの? リシュ」刺すような彼女の視線にリシュリオルは息を呑む。
「まさか、命果てるまで、このホテルにいるわけじゃないよね?」イルシュエッタの顔が更に近付く。リシュリオルの背中には気持ちの悪い汗が流れていた。抵抗しても無駄だろう。彼女は勘が鋭いから、きっと嘘に気付いている。……多分、ラフーリオンのことも。
「……何も決めてない。さっき鍵が見つからないっていうのは嘘だ。何度か鍵の気配は感じていたけど。正直な所、これからどんな風に旅をすればいいか分からないんだ」大きくため息を吐くリシュリオル。
異界の鍵は一つではない。鍵が消えればまた新しい鍵が現れる。リシュリオルは鍵の気配が現れても、これからの旅に対する迷いがあり、それに近付くことができずにいた。
「だから、あの船で旅の目的を考えておけって言ったのに。忘れちゃってた?」せせら笑いを浮かべながら話すイルシュエッタ。
「うん、忘れてたよ」イルシュエッタの偉そうな態度に少し苛ついたので、できる限り素っ気なくどうでも良さそうに答えた。なんだか調子が出てきた気がする。
「酷い弟子だ! 師匠の言うことを少しは聞こうよ!」喚き散らすイルシュエッタがリーリエルデに泣きつく。だが、彼女の嵐のような騒がしさはすぐに消え去り、いつもの得意気な顔でリシュリオルに指差し、宣告する。
「まあいいや。……今から師匠命令を発するから、絶対に従うこと。……次に鍵の気配が現れたら、真っ先にその場所に行こう。自分で『自分の旅』を決められないなら『鍵』に決めてもらいましょう!」
「嫌だな……」露骨に嫌そうな顔をするリシュリオル。追加で舌打ちもしてやったが、イルシュエッタの自信満々の笑みは崩れなかった。
リーリエルデが席を立ち、リシュリオルの側へ近付く。
「リシュ、このままではいけないことはあなたにも分かっている筈ですよ。こういう機会を大事にして行動しましょう」
「リーリエルデがそういうなら……」
「先輩には愛想がいいよね、リシュは……」
リシュリオルはふてくされるイルシュエッタとそれをなだめるリーリエルデを部屋に案内した後、受付に戻った。玄関からの外の景色は夕焼けに染まっていた。
しばらくの間、リシュリオルは受付で暇な時間を過ごしていたが、急に鍵の気配を感じて、冷や汗をかく。
(鍵の気配。段々こっちに近付いてくる)
イルシュエッタの命令を実行に移す前に、鍵は向こうからこちらに向かってきていた。このホテルに。
来るぞ来るぞと、待ち構えるリシュリオル。そして、楽しげな声と共にホテルの中に入ってきたのは、銀色の髪と瞳を持つリシュリオルと同い年くらいの少女だった。自分がまだ少女なのかは分からないが、何処と無く少女らしい雰囲気が、彼女の表情や仕草から感じ取れた。
肩に掛かるくらいの長さの銀髪が夕日に照らされる。茜色の光が、彼女の銀色に反射されて、リシュリオルの瞳に差し込んだ。その光景がひどく美しく、リシュリオルはしばしの間、目を離せなくなっていた。
「伯父さん達、早く!」
ホテルの外に向かって、叫んでいる。連れがいるようだ。
彼女が受付に向かって来た為、少しだけ身構えてしまうリシュリオル。しばらく、受付のテーブル越しの彼女と目が合う。リシュリオルが目線を反らすと、銀色の少女は眉間にしわを寄せながら、じろじろとこちらの顔を見てくる。そして、人懐っこい笑顔に戻った後、こう言った。
「受付、お願いできますか?」
汗で湿った手で受付用紙とペンを持ち、彼女の手前に差し出す。
「……ここに御宿泊する方の御名前と宿泊日数を書いて下さい」
「はい!」少女は無駄に元気な声を上げた後、受付用紙にペンを走らせた。
楽しそうに鼻歌を歌いながら、受付用紙に文字を書く少女。リシュリオルは擦れてしまった自分と子供らしい仕草をする目の前の少女を比べて、口元を緩めた。
「書き終わりました」
リシュリオルは受付用紙に書かれた名前を確認する。彼女の名前は『アトリラーシャ』というらしい。
この時リシュリオルは、このアトリラーシャと共に長い旅路を歩むことになるとは、微塵も考えてはいなかった。
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