そよ風の中で
次の異界の扉へ向かう二人。街の景色を眺めながら、曲がりくねった坂道を下りていく。このまま進んでいけば海辺に着くだろう。海は小さな波を街に向かって送り出す。波の終点の砂浜には沈みかけた赤レンガの建物が並んでいた。きっとあの夫婦が話した、嵐によって打ち壊されてしまった家々だろう。
海と言えば。最初にこの街に来た時、海に行こうとした記憶がある。そこから先、どうなったのかは意識を失ってしまって覚えていないが。
「結局、望む望まないに関わらず、海に行くことになるんだな」
ラフーリオンは遠く海の果てを見ながら独り言のように呟いた。数歩前を歩いていたリシュリオルが急に振り返って立ち止まり、こちらを見ながら唖然としていた。
「ラフーリオン、……海に行く必要なんて無い。扉の気配がするのは、あの崖の上の灯台からだ」
リシュリオルが二人の立つ場所から左側にある崖の方を指差した。彼女の指先が示した場所には確かに白い壁の灯台が建っていた。そして、灯台からは道が伸びていた。その道は二人が立つ場所から直接、灯台に向かうことのできる道だった。彼女の言う通り、次の扉へ向かう為に、海辺へ行く必要は無かった。
「扉の気配を感じていないみたいだな。……何か隠していることでもあるのか?」
ラフーリオンは彼女の質問にはすぐに答えず、リシュリオルの顔を見つめ、しばらく口をつぐんでいた。
リシュリオルも何も言えずに、ラフーリオンの顔を見返すことしかできなかった。握りしめた拳の中が汗で湿っているのを感じた。嫌な予感がした。呼吸の間隔が早くなる。
見つめ合う二人の傍らを一陣の風が吹き上げた。潮の香り。力強い潮風だった。風は次第に勢いを弱め、そよ風に変わる。その瞬間、ラフーリオンは閉じていた口を開く。
「……リシュ、俺は次の異界へは行けない」
リシュリオルは握りしめていた拳を少しずつ開いていく。同時に、早まった呼吸を落ち着かせて、ゆっくりと話し始めた。
「……やっぱり、そうだったんだな。薄々気付いていた。この世界に来たときから、お前の様子がおかしかったから。そして、今朝の話を聞いて確信した。……ここが最終地点なのか?」
「そうだと思う」
「私はお前のことを救ってやれなかったんだな」
「そんなことはいい、俺が望んでいたことだ。……ただ、その誰かを思う優しさだけはずっとこの先も持ち続けてほしい。悪魔にならない為に」
「悪魔になんてなるわけないだろ。何言ってるんだよ」リシュリオルの辛そうな面持ちは少しだけ和らいだ。
「悪魔はいるんだ。奴等は必ず何処かにいる。アドラウシュナ……、あの氷の竜がそうだ。何かがきっかけで奴等は生まれる」
「なら、そんな奴等は私が全部葬ってやる。悪魔が悪魔を倒すことなんて無いだろ?」
リシュリオルは不敵な笑みを浮かべながら、胸を張って言った。彼女の瞳には強い意志を感じた。暗闇を払う炎の様な正義の意志を。
「安心したよ。……お前はきっと悪魔になんてならないな」ラフーリオンが安堵のため息を吐く。
「当たり前だ!」
リシュリオルがラフーリオンの胸に拳を突き付ける。彼女の何処までも自信満々、大胆不敵な態度を見てラフーリオンは吹き出した。リシュリオルも彼の笑い声につられて声を出して笑った。
「さあ、もう行くぞ!」
二人は笑顔を保ったまま、異界の扉に向けて歩き出した。突然、ラフーリオンが旅の思い出を語り始める。彼が思い出話を終えると二人は笑った。今度はリシュリオルが別の思い出を愉快そうに語り始める。そして、また二人は笑った。
互いに旅の記憶を語り合い、思い返す。二人が出会って、色々な世界を歩いた。手紙を探したり、機械と話したり、闘技場に参加したり、氷の竜と戦った。旅の中に、喜びがあった。希望があった。困難があった。不幸があった。多くの人と出会って、別れた。それでも何かを継いできた。そして、継ぐことでここまで来ることができた。
二人は語り合い、笑い合った。灯台の扉の前に辿り着くまで。
その灯台は、今はもう使われていないようだった。白い壁は全体的に薄っすらと汚れており、小さなヒビが所々に見受けられた。
「これでお別れだ、リシュ」悲しげな笑みを浮かべるラフーリオン。
「……やっぱり」小さく何かを呟き始めるリシュリオル。地面を見つめながら、わなわなと身体を震わせている。
「どうした?」
「やっぱり、私は泣き虫みたいだ。ここまでずっと我慢していたのに、もう駄目だ。涙が止まらないんだ」
一筋の涙がリシュリオルの頬を伝い、雫となってぽろぽろと地面に落ちていく。
「リシュリオル」ラフーリオンが彼女の名前を優しく呼び掛ける。
「これを持っていけ。お前には少し大きいかもしれないが」ラフーリオンは自分の来ていた白布の外套を脱いだ。
「白布の外套は魔を払う。きっとお前を守ってくれる」
ラフーリオンがリシュリオルに外套を手渡すと、彼女はすぐにそれを羽織った。直後、雲に覆われていた太陽が顔を出し、リシュリオルの濡羽色の長髪と白い外套を輝かせた。ラフーリオンは黒と白の対象的な光の美しさに一瞬、目を奪われた。
「ありがとう、ラフーリオン」
「どういたしまして。……元気でな」
扉が開かれ、次の異界の景色が見える。もうラフーリオンには通ることができない扉。数年の間、共に旅を続けてきた少女が一人で扉を通り抜けていく。たった一人で。リシュリオルは振り向かず、扉を閉める。
だが、扉が閉まりきる直前、最後の最後にリシュリオルの笑顔がラフーリオンに向けられた。その笑顔は彼にとってどんな宝石よりも価値あるものだった。彼女は笑顔と共にラフーリオンへ言葉を送った。
「いってきます」
扉は音を立てて閉まり、ラフーリオンとリシュリオルの繋がりを断ち切った。寂しさと悲しみで胸が張り裂けそうだった。だが、同時に充実感があった。心残りなどは無かった。
自然と涙が溢れ出す。大の大人が情けない。そう思いながらも、彼は涙を流し続け、その場から動けずにいた。
時折、吹き抜けるそよ風が彼の涙をさらっていった。
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