上映開始

 リシュリオルは廊下の椅子に座りながら、ラフーリオンへの処置が終わるのを待っていた。ラフーリオンを運び込んだ時は、焦りと吐き気により気が付かなかったが、家の中にはアルコールの匂いがそこかしこに漂っていた。


 廊下の壁には、木製の額縁にはめ込まれた水彩画が掛けられていた。金色の小麦畑と青い海が描かれている。きっとこの世界の情景の一つなのだろう。その絵を見続けていると心が落ち着き、思わずため息が出てしまった。


 扉の開く音で、水彩画に向いていた視線が逸れる。扉の奥から医者の夫婦が額の汗を拭き取りながら、リシュリオルの前に現れた。


「終わったよ」

「彼は……大丈夫ですか?」


「ああ、このままぐっすり眠らせてあげれば問題無いよ」

「よかった……」緊張で少し強張っていた身体が解れた。


「彼が目を覚ますまで、この家にいるといい」

「いいんですか?」


「お客様は大歓迎だよ。この街にはほとんど来ることが無いからね」

「ありがとうございます」深く頭を下げるリシュリオル。


 ラフーリオンが目覚めるまで、リシュリオルはこの夫婦の家に滞在することになった。




 ラフーリオンは夢の世界を彷徨っていた。夢の中だというのにはっきりとした意識があり、自由に手足を動かせた。明晰夢という物だろうか。

 空を見上げると、かすかな光を照らす三日月が見えた。足元を見ると、自分の立っている場所から真っ直ぐに道が伸びていた。道の先には街灯の明かりが点々と灯っている。


(取り敢えず、道なりに歩いてみるか)


 暗い夜道を街灯の明かりを頼りに歩くラフーリオン。道の果てにカラフルに輝く光が激しく点滅していた。今度はその七色の光を頼りに道を行く。歩き続けてきた道の終点には大きな建物が建っていた。


 先程から見えていた色とりどりの光は、建物の入り口に設けられた巨大なネオンサインの看板から放たれていた。でかでかと掲げられた看板に取り付けられたネオンサインの文字列から、この建物が映画館であることが分かる。


 他に行けそうな場所が無いので、ラフーリオンはそのままシアターの中に入っていった。


 シアターに入ると、落ち着いた色調の制服を着た従業員が待ち構えていた。従業員の顔は真っ黒い靄で塗り潰されており、酷く不気味だった。

 突然、従業員の黒い靄に隠れた顔から奇怪なノイズが鳴り始めた。言語とは呼べないただの雑音の筈なのだが、どういうわけか映画の情報が頭の中に浸透するようにスーッと入り込んできた。


(今、見られる映画は一つだけか)


 従業員はノイズを鳴らし終えると、ラフーリオンをチケット売り場まで案内してくれた。チケット売り場の窓口に座る従業員にラフーリオンは話し掛ける。彼の顔もまた黒い靄で隠れており、素顔を見ることはできなかった。


「チケットをくれ。値段は……」


 チケットの価格を聞こうとしたが、従業員は赤黒い紙を一枚、ラフーリオンに何も言わずに渡した。この小汚い紙がどうやらチケットらしい。あとから、夢の中なのに真面目に金を払おうとした自分を笑った。


 別の従業員がスクリーンのあるホールへと案内してくれた。ホールはこぢんまりとしていて、少し窮屈さを感じる観客席には誰も座っていなかった。

 自分以外に人がいないので、ラフーリオンはスクリーンが見やすい中央の席に座る。


 彼が席に座ると、間もなくスクリーンへの映像の投影が始まった。古いフィルムでよく見られる黒っぽい引っかき傷のようなノイズが白いスクリーンに浮かび上がる。


 スクリーンに最初に映し出された光景を見て、ラフーリオンは息を呑んだ。


(悪趣味な夢だ)


 一人の女性が街中を楽しそうに歩き回っている。


(やはり、この映像は……)


 女性は急に後ろへ振り返り、『早く』と背後にいる誰かを呼ぶ。しばらくして、スクリーンに映し出されたのはラフーリオン自身の姿だった。


(この映像は、俺の記憶だ)


 気分が悪くなってきた。しかし、身体がやけに重く、立ち上がることができなかった。不思議な圧力がラフーリオンを観客席から離そうとしなかった。


 映像の中の女性が、映像の中の自分の手を引いている。


 彼女の名は『メイレアーネ』。昔、ラフーリオンと共に異界渡りの旅をしていた。

 栗色の長髪、グレーの瞳。落ち着いた物腰で、いつも端正な顔立ちにやわらかな微笑みを浮かべていた。


 ラフーリオンはメイレアーネのことを愛していた。彼女との旅は、彼にとって最大の幸福だった。しかし、その幸せもある日を境に消え去ることになる。


 メイレアーネと他愛の無い会話を交わしている映像が流れている。


 メイレアーネの喜びに満ちた笑顔、笑い声、笑った時の仕草。その全てが懐かしく、輝かしかった。映像の中の彼女は、悪夢に現れる呪詛の言葉を吐き出す『彼女』の笑みとは、全く異なる優しい笑顔を振りまいていた。

 彼女と過ごした日々がスクリーンに映し出されていく。




 『ザザッ』というノイズと共に映像が切り替わり、二人がカフェテラスで食事をしている場面がスクリーンに映し出される。


(この場所は……)


 食事を終え、店員がテーブルに置いたコーヒーカップをメイレアーネが左手で持とうとする。しかし、カップに入ったコーヒーがメイレアーネの口に運ばれることは無かった。彼女がカップの持ち手に触れた時、カップをテーブルから落としてしまったからだ。


 これが最初に現れた『症状』だった。


 映像の中の自分が『大丈夫か? 怪我は無いか?』と彼女に心配そうに声を掛けている。

「大丈夫、少し疲れているみたい」そう答えた彼女の左手は小刻みに震えていた。


 ノイズと共に再び映像が切り替わる。




 異界の扉の鍵の気配を追っていた時の光景が映る。隣を歩いていたメイレアーネが障害物の無い平坦な道で、いきなり躓き転んでしまった。彼女は小さな悲鳴を上げながら、受け身も取らずに地面に倒れ込んでしまう。


 ラフーリオンは慌てて、彼女の側に寄り添う。


「どうしたんだ?」

「大丈夫、大丈夫だから……」


 メイレアーネは震える声で何度も『大丈夫』と呟きながら、倒れた身体を起こそうと地面の上でもがいていたが、結局自力で立ち上がることはできなかった。


 ラフーリオンの肩を借りて、必死に立ち上がろうとするメイレアーネ。彼女の足元を見ると、右足が激しく痙攣していた。ラフーリオンが震えるその右足に触れると、メイレアーネは痛ましい悲鳴を上げた。苦しそうに唸る彼女の額にはじっとりと汗が滲んでいた。


 ラフーリオンはメイレアーネのただならぬ様子を案じて提案する。

「病院へ行こう」

 そして、有無を言わさず、できるだけ痙攣する右足に触れないように、彼女の身体を背負いあげる。


「ごめんね、ラフーリオン」苦しそうな表情を浮かべ、メイレアーネはラフーリオンに謝った。

「気にするな。今は自分のことだけ、考えていればいい」

 ラフーリオンは足を動かす速度を上げて、病院へ急いだ。


 映像が切り替わる。




 病院の一室、ラフーリオンが白衣を身にまとった男と話している。


「彼女はある病に冒されています」


 男の低い声が病室に響く。


「この病は、手や足など、四肢の末端から症状が現れます」


 男が資料をラフーリオンに手渡しながら、病についての説明を続ける。


「最初は慢性的な痙攣が続いていきますが、次第に痙攣は痛みへと変わっていき、更に先の段階では、幹部を動かすことができなくなってしまいます」


 資料を瞬きもせずに凝視するラフーリオン。男の言葉がやけに冷たく感じた。


「この病は少しずつ、末端から全身へと進行していきます。……最終的には『意識』と『痛覚』だけを残した状態で全身が動かせなくなってしまいます」


 小さな耳鳴りがする。


「この病は異界渡りにしか発症しないと言われる非常に珍しい病で、症例が少ない為、治療法が確立されていません」


 耳鳴りがどんどん大きくなっていく。


「当院でも、できるだけ治療には尽力します。決して治療の望みが無いわけではありません――」


 もう何も聞こえなかった。

 ラフーリオンは虚ろな目で何かを喋り続ける男の口を眺めていた。


 映像が切り替わる。

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