第六章:そよ風の中で

悪夢の呪いと小麦畑

 ここはどこかの世界、どこかの街。地を覆い尽くす程に広がる小麦畑に囲まれた廃屋。小麦畑の果てには草原が、森が、海が穏やかに命を育む。人の乾ききってしまった心は、こういった場所で潤されるのかもしれない。


 ここはどこかの世界、どこかの街。長閑な風景にそよ風が吹いた。生ぬるい風が男の決意と少女の歩みを後押しする。




 ラフーリオンとリシュリオルは氷の竜と戦った雪の街から、多くの異界の扉を通り抜けてきた。そして今、二人が通った異界の扉の先に待っていたのは、小麦畑に囲まれた廃屋だった。


 雪の世界から、この小麦畑が広がる世界に辿り着くまでには、数年が経過していた。その年月は二人に大きな変化を生んでいた。


 リシュリオルは成長し、少女から大人になろうとしていた。それは見た目だけでは無い、内面にも作用する成長だった。以前の情動的な彼女の性格は落ち着きを見せ、変わりに冷静な判断力、明晰な思考力を身に付けた。


 また、アリゼルと別れた後から、彼女は短めだった髪を伸ばし始めた。精霊の力の使用後に起きる髪の収縮が無くなったからだろう。『力を使えなくなっても、良いことはあるな』と彼女は嬉しそうに言っていた。

 ラフーリオンは彼女の髪が本当は艶のある真っ直ぐな黒髪であったことに驚く。たまに、彼女の髪と自身のボサボサ頭を見比べてしまい、舌打ちすることもあった。


 リシュリオルは髪を伸ばせることを喜んではいたが、アリゼルとの約束を無下にすることはしなかった。彼女は異界渡りとして必要になる知識、技術をラフーリオンから熱心に学び続け、今ではもう異界渡りとして一人でやっていけるまでにはなっていた。


 リシュリオルの成長という光ある道行きに反し、ラフーリオンは深い暗闇へと片足を踏み入れていた。


 ラフーリオンはこれまで眠ることを避け続けていた。彼にとって眠りは決して安息ではなかった。一度眠りにつけば、過去の記憶が掘り起こされ、濃厚な現実感を持つ悪夢を見ることになるからだ。

 どんなに眠らないように努力しても、時折襲ってくる猛烈な睡魔には打ち勝つことができず、泥のように眠ってしまった。そして、深い眠りは彼を、精神を蝕む悪夢の世界に落とし込んだ。


 ラフーリオンは地獄のような悪夢と、そこに引きずり込もうとする眠りという魔の手との戦いにより追い詰められ、身も心も衰弱していた。


 リシュリオルに体調のことを心配されることがよくあったが、ラフーリオンは『眠れない時がある』とだけ告げて、悪夢のことは口にしなかった。

 一度、しっかりとした休養を取るべきだとも言われた。しかし、ラフーリオンはその提案をすぐに断り、異界の扉を通り抜けることを優先した。


 この異界に辿り着いた時も、ラフーリオンはふらふらで今にも倒れてしまいそうな状態だった。やつれた顔で小麦畑を見渡していた。

  

「おかしい」リシュリオルが異界の扉を閉めた直後に呟いた。

「何が?」ラフーリオンは風に揺れる小麦畑を眺めながら尋ねる。

 

「異界の扉がもう開いている」


 ラフーリオンは目を見開き、愕然とした様子でリシュリオルの顔を見つめた。リシュリオルが不思議そうにラフーリオンの顔を見つめ返してきたので、彼は慌てて小麦畑へと視線を戻す。


「どうした?」今度はリシュリオルが尋ねる声。

「なんでもない。……そうだな。扉の気配に向かう前に周辺を散策してみるか」

「分かった。……珍しいな、お前がそういうことを言うのは。いつもなら直ぐに次の扉に向かうのに」

「……そういう気分なんだ」そう呟いた後、ラフーリオンは何かをごまかすようにそそくさと廃屋の周辺を歩き始めた。


 廃屋の敷地から整地された道が伸びているのを見つけたので、二人はその道を進んでみることにする。

 随分と使われていない道だったようで、背の高い小麦が所々で道を塞いでいた。小麦畑を掻き分けながら、荒れた道を突き進んでいくと、視界の悪い細い道は広大な小麦畑を見晴らすことのできる広い道路へと繋がった。今までは気付かなかったが、小麦畑の向こうに深い青色の海が見えた。

 

 左右の小麦畑を見渡しながら、広い道路を歩いていると、荷台に農機具を乗せたトラックが一台、道の端に佇んでいた。

 そして、一人の男がトラックの荷台を椅子代わりにして、一服していた。この世界の住人だろう。


「こんにちは」リシュリオルの挨拶の声。

「こんにちは」男は煙草の火を消しながら、挨拶を返した。


「私達は『異界渡り』という者なのですが、……分かりますか?」

「異界渡り? 珍しいな。数年前に一度だけこの世界に来たことがあるのを知っている」


 ラフーリオンがリシュリオルと男との会話に割って入る。

「話が早い。この近くに街は無いか?」

「この道を真っ直ぐ歩いて行けばすぐに着くよ」東の方へ指を差しながら話す男。


「ありがとう」

 ラフーリオン達は男に礼を言い、男の言葉通りに道を東に向かって歩き始めた。




 道を行く二人。景色は変わることなく、左右には小麦畑。遠くに海。しばらく歩き続けていると、小麦畑の中に赤茶けた色の建物が見えた。

 更に道を進んでいくと、その建物が街の先端であることが分かった。似たような見た目の建物が海に向かって連なっている。


 土が剥き出しだった道が石畳に変わり始めた。街に近づいている証拠だ。道の変化と共に人影が増えていく。きっとあの街の住人だろう。

 街への訪問者が珍しいのか、じろじろと二人のことを見つめる視線を感じた。


 リシュリオルが街の住人達に小さく手を振ると、彼等も笑顔で手を振り返してくれた。住人達に悪意は無く、彼等がこちらに向かって視線を放つのは、ただの好奇心からくる行動のようだ。

 だが、いくら悪意の無い視線だとしても、住人に会う度に観察するようにじっと見られると、少し気恥ずかしかった。


 小麦畑に囲まれた農道は、次第にレンガ造りの建物が並ぶ路地へと変わっていき、街の中に入ったことを実感させた。

 街の中は、様々な道幅の道路が複雑に入り組み、迷路のようになっていた。


 二人は迷路のような道に迷わされながらも、なんとか視界の開けた広場らしき場所へと抜け出す。

 その広場は高台になっており、街全体を一望することができた。そして、広場から見える景色によって、この街が緩やかに傾斜していることが分かった。

 赤レンガの家並みが青い海に向かって段々と下りていく光景には、ラフーリオンも思わず見惚れてしまう。


 今度は街の先にある海を眺める。未だ遠くに見える海には数隻の漁船が浮かび、漁をしている様子が伺えた。海から目を逸らし、陸地を見渡すと、草原の丘で家畜が草を食む姿が見えた。

 

 長閑な光景。


 時折、吹き抜ける生ぬるいそよ風は、二人の旅人を牧歌的な雰囲気に浸らせる。




 ラフーリオンとリシュリオルはぼっーと街の景色を眺めながら広場をうろうろと彷徨っていた。

「海に行ってみないか?」ラフーリオンが不意に呟く。

「いいけど……。ラフーリオン、本当に大丈夫か?」吹き上げる潮風を浴びて微笑んでいるラフーリオンの顔を、リシュリオルは酷く心配そうな表情で見つめた。


「何が?」

「普段、言わないようなことを言うから……」

「そういう気分なんだ。さあ、海に行こう」ラフーリオンは下り坂をおぼつかない足取りで下っていく。

「……ああ」


 どういう気分なんだ? リシュリオルはラフーリオンの曖昧な返答が腑に落ちなかったが、しぶしぶ彼の背中を追いかけた。


 リシュリオルがラフーリオンの後に追い付いた瞬間、彼はいきなり道端に倒れ込んだ。リシュリオルは慌ててラフーリオンの側へと近寄り、彼の容態を確認する。


(脈はあるが、呼吸をしていない)


 背後からエンジン音が聞こえた。振り向くと、一台の車が広場からゆっくりと下ってきていた。リシュリオルは車の前に立ち塞がり、無理矢理に車を停止させた。

 彼女が止めた車には、運転席に若い男性が助手席には同じく若い女性が乗っていた。二人共驚いた顔で、急に現れたリシュリオルのことを見ていた。


「助けて下さい! 連れがいきなり倒れてしまったんです! 息をしてない!」

「何だって!」男性の叫び声は、車の外にいるリシュリオルにもはっきりと聞こえた。


 リシュリオルの助けの声を聞いた二人は真剣な顔つきに変わり、飛び出すように車から降りた。そして、手際よくリアシートにラフーリオンを運び込む。女性はそのまま応急処置を始めた。


「君も乗って!」男性はリシュリオルの手を取って、彼女を助手席へ無理矢理に押し込んだ。


「飛ばすよ!」全員が乗り込んだことを確認した直後、男性は思い切りアクセルを踏み込んだ。


 車は細長い迷路のような道路を、迷いなく突き進み、二階建ての一軒家の前でピタリと止まった。今まで見てきた家並みと同じようにレンガ造りの家だった。

 男性の運転はなかなかの乗り心地で、リシュリオルはこの家に着くまでに数回程、車内で吐きそうになった。

 

「さあ、彼を家に運んで! 僕は準備があるから」男性は扉の鍵を開けて、家の中に入っていった。


 リシュリオルは女性の手伝いを受けながら、ラフーリオンの身体を家の中に運び込んだ。


「ありがとう。あとは僕達に任せてくれ」

「あ、あなた達は?」リシュリオルは吐き気を抑えながら、青い顔で聞いた。


「僕達は夫婦で病院を営んでいるんだ」二人はにっこりと笑った後、本格的な処置を開始した。

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