新たなる旅路へ
扉の気配は二つに別れた。ラフーリオンとリシュリオルは聖堂の方から、ゼールベル達は街の方から、それぞれ扉の気配を感じ取っていた。
一行は、宿舎で休息の時間を過ごしていた。
「今度は別々の扉か」宿舎のエントランスで、ラフーリオンがおもむろに呟いた。
ラフーリオンの言葉を聞いたゼールベルが、その場にいた全員に向けて尋ねた。
「みんなはこれからどうするんだ?」
ゼールベルの問いに最初に答えたのは、ノバトゥナだった。
「私はこの街を守り続けるわ。アリゼルが帰ってくる場所を残しておかないと」
「ありがとう、ノバトゥナ」リシュリオルが頭を下げる。
「あなた達はずっとこの街にはいられないでしょう? だからいいのよ。……リシュ、あなたはこれからどうするの?」
「少し休んだら、直ぐに次の異界に行く。アリゼルと約束したからな」
そう話しながら、リシュリオルはラフーリオンの顔を見た。ラフーリオンは軽く頷いて、彼女の意見に賛成の意を示す。
「そう、寂しくなるわね」
「いつか、また会えるよ」
ノバトゥナは涙目で、リシュリオルの身体を抱きしめた。
ノバトゥナの身体から離れたリシュリオルが、小さく丸めて肌見放さず持っていた黒いコートを広げた。
「これ、ノバトゥナが持っていて欲しいんだ」
「これは……」
「先生のコートだ。私が今まで、ずっと持っていたんだ。ノバトゥナに渡したほうが良いと思って……」
「分かったわ。あなたがまたこの街に来た時に見せられるように綺麗にしておくわね」
「ありがとう、ノバトゥナ」
リシュリオルは広げたコートをノバトゥナに手渡した。
「ゼル達はどうするんだ?」リシュリオル達のやり取りを見ていたラフーリオンが振り返り、ゼールベル達に尋ねる。
「ラトーがかなりの重傷だからな。あいつの傷が癒えるまでは、動けないだろう。それまでこの街に厄介になるつもりだ」
ゼールベルはラトーディシャとリアノイエを見る。ラトーディシャは相当に消耗しているようで、リアノイエの肩を借りながら、ゆっくりと歩いていた。リアノイエはラトーディシャを休ませると言って、そのまま部屋まで彼を連れて行った。
「あなた達は、この街を救ってくれた英雄よ。歓迎するわ」ノバトゥナが笑顔で言った。
「感謝します」ゼールベルが礼儀正しく頭を下げる。
ノバトゥナの影から、バクルアが現れる。
「ノバトゥナ。先程も言ったが、私は一度、狼達の元へ戻ることにするよ」
「バクルア、今までありがとう。あなたには感謝してもしきれないことをしてもらった」
「最後の別れのように言わないでくれ。たまに、この街にも遊びに来るよ」バクルアは寂しそうに笑い声を上げた。
「ええ、分かったわ。いつでも来てね」
バクルアはノバトゥナの元から離れ、雪の向こうに消えていく。ノバトゥナはバクルアの白い姿が雪に溶け込んでいく様子を最後まで窓から見つめていた。
皆、竜の脅威が消え去ったことを実感し、静かな平穏に浸った。そして……。
空になったコーヒーカップがテーブルの上に置かれた。
「そろそろ行こう、ラフーリオン」リシュリオルがエントランスの椅子から立ち上がる。
「もう、身体の具合はいいのか?」ラフーリオンが心配そうに尋ねる。
「ああ、大丈夫だ。……ラトーとリアに挨拶をしに行こう」
「そうだな」ラフーリオンも椅子から立ち上がる。
「行くのか」立ち上がった二人を見て、ゼールベルが聞く。
「ああ。元気でな」
「そっちもな。……二人共、喧嘩するなよ」ゼールベルがラフーリオンとリシュリオルの顔を交互に見据えた。
「お前が言うな」
三人は互いに顔を見合わせ、口元を緩めた。
ラフーリオンとリシュリオルは、ゼールベルと握手を交わした後、ラトーディシャが休んでいる部屋へと向かった。
部屋の扉の前に着いた時、誰かが泣いている声が聞こえた。その声を不審に思ったのか、リシュリオルがすぐさまドアノブに手を掛けた。
ラフーリオンは、リシュリオルが扉を開こうとするのを止めようとしたが、既に彼女は扉を開けてしまっていた。
扉の先には、ベットに座っているラトーディシャに、わんわんと声を上げながら、泣きつくリアノイエの姿があった。
緊張が解け、胸の内に溜まっていた不安や恐怖が一気に吹き出したのだろう。
リシュリオルは間の抜けた顔で、大声で泣きじゃくるリアノイエを見つめ、呆然と立ち尽くしていた。
何だその顔? さっきまで、お前もそんな風に泣き喚いていたんだぞ。ラフーリオンは心の中でそう呟いた。
ラトーディシャは苦笑しながら、こちらを指を差し、『お客さんだよ』とリアノイエに声を掛けた。
ラフーリオン達に気付いたリアノイエは恥ずかしそうに顔を赤めながら、顔中に付いた涙を拭き取り始めた。
「もう行くのかい?」ラトーディシャが尋ねる。
「ああ。あんまり無理するなよ、ラトー」
ラフーリオンは、ラトーディシャと握手を交わした。ラフーリオン達の握手を見て、リアノイエが泣きながら、手を差し出してきた。
「お、お気をづげで……」リアノイエは嗚咽の混じった涙声で言った。
「あ、ああ、リアノイエ」ラフーリオンは今まで見せたことのないリアノイエの様子に、少し動揺しながらも、彼女とも握手を交わす。
彼女の手から離れたラフーリオンの手には涙と鼻水が少し付いていた。ラフーリオンは作り笑いをしながら、適当なボロ布を取り出し、リアノイエに気付かれないように拭き取った。
たまにこの子が『元王女様』だってこと忘れるよ。ラフーリオンは手を拭きながら思った。
リシュリオルもラトーディシャとリアノイエの両者と握手を交わす。
リアノイエとの握手を終えたリシュリオルは、暫くの間、無言で自分の手の平を見つめていた。
そして、ラフーリオンと同じように、リアノイエが自分のことを見ていない内に、愛想笑いをしながら、手に付いた物を拭き取っていた。
ラトーディシャは同じことをした二人を見て、ずっと苦笑いを保っていた。
「それじゃあ、俺達は行くよ」
ラフーリオンとリシュリオルが部屋から出ようとした時、ラトーディシャが二人の背中に向けて、声を掛けた。
「二人共、喧嘩しないでね」
その言葉を聞いて、ラフーリオンとリシュリオルは目を合わせると、吹き出した。
二人の様子を見て、ラトーディシャは首を傾げた。
「さっき同じことをゼルに言われたよ」
「で、なんて答えたんだい?」
「お前が言うな!」二人は声を揃えて言った。
ラトーディシャは一瞬だけ驚いた後、自分の容態も忘れて、高笑いした。
「君達の言う通りだ。大丈夫、僕達も仲良くやっていくさ。……そうだろ、リア」
「は、はい」リアノイエは泣き疲れたのか、もう声に力が無くなっていた。
ラトーディシャは最後に一言だけ告げて、ラフーリオン達を見送った。
「素晴らしき旅路を」
二人は次の異界の扉を目指し、聖堂へ向かった。
丘を登る二人。ふと振り返ってみると、巨大な氷塊が目に入る。
ラフーリオンの前を歩いていたリシュリオルが急に足を止めた。顔を上げるラフーリオン。視線の先に、氷塊の方を見つめるリシュリオルの横顔があった。
「アリゼルはきっと、今もあの氷の中で戦っているんだよな」
「ああ、そうだろうな」
「あいつが戻ってきた時、今よりもっと強くなって、驚かせてやる」
「なら俺もアリゼルと、お前の先生との約束を守らないとな。早くお前を一人前にしてやらないと」
氷塊に向いていたリシュリオルの視線が、ラフーリオンへと移る。互いに顔を見合わせる。僅かな沈黙の後、二人は微笑みを交わし合った。
リシュリオルは再び丘の上へと、視線を戻し、足を動かし始めた。彼女の背中を見ながら、ラフーリオンも歩みを進める。
ラフーリオンが一歩だけ足を進めた時、背筋に悪寒が走った。
『まだ私の所に来てくれないの?』
悪夢の中で聞いた『彼女』の声が背後から聞こえた気がした。ラフーリオンは反射的に声の方向へと振り返る。
リシュリオルがラフーリオンの様子を案じて、声を掛ける。
「何かあったのか?」
「……い、いや。なんでもない」
ラフーリオンは明らかに動揺していた。何かに怯えているようにも見えた。
「大丈夫か?」
「ああ、大丈夫だ。さっさと聖堂まで行こう」
二人は再び丘を登り始める。
聖堂の扉の前まで、丘を登りきった二人。異界の扉の気配を辿りながら、周囲を散策する。
「気配は地下からだ!」
リシュリオルの声が聖堂内に響き渡った。二階にいたラフーリオンは急いで、一階へと降りる。
一階で合流した二人は、地下へ向かう階段を慎重に降りていった。
リシュリオルにとって、忌々しい過去の記憶を思い起こす部屋。だが、自身が閉じ込められていた部屋を見た瞬間、彼女が抱いていた負の感情は全て何処かに吹き飛び、虚しさだけが残った。
必死にアリゼルから精霊の力の扱い方を教えてもらい、やっとのことでこじ開けた鉄格子の扉は、ボロボロの簡素な木の扉になっていた。
「なんだよ、これ」
今にも壊れてしまいそうな扉を見ていると、どうしてかは分からないが、急に笑いがこみ上げてきた。
ラフーリオンは笑うリシュリオルを不思議そうに見ていた。
皮肉だ。
あんなに苦労して、壊した鉄格子は今ではもうただのボロ板。しかも、ずっとこの部屋から抜け出そうとしていたのに、逆にこの扉を通ることで『次』へ進むなんて。
かつて、彼女を閉じ込めていた扉こそが次の異界へ向かう扉だった。リシュリオルは笑い声を抑え、扉を開ける。
この扉を通ることで、忌々しい過去の因縁は全て断ち切る。次の異界に持っていくのは『約束』だけだ。
もう誰かに囚われることなんて無い、これからは自由があるんだ。足を交互に踏み出して、次の異界へ進もう。
さあ、新しい世界へ。
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