魂との邂逅

 氷塊の内部は虚無だった。何も見えない。何も聞こえない。

 だが、相性の悪い宿主に取り憑いた反動と、留まることを知らないアドラウシュナの攻撃による痛みだけは鮮明に感じられた。


 この状態がどれほど、続くのだろうか。


 できるだけ精神の消耗を抑える為、思考を停止しようとした時、全てが闇の中の筈だったアリゼルの視界の片隅に明滅する光が見えた。

 アリゼルの視線は、自ずとその光に向いていた。光の明滅は徐々に勢いを弱めていき、光に隠されていた者の輪郭が少しずつかたどられていく。


 光の正体はアリゼルの前の宿主、ディイノーカの形をしていた。

 

 この痛みのせいで幻覚でも見ているのだろうか。頭がおかしくなるにはまだ早すぎる。アリゼルは首を右に左に素早く交互に動かし、ディイノーカの幻覚を視界から振り払おうとした。

 だが、彼はそこにいた。闇の中で笑っていた。


 アリゼルは自分の頭がおかしくなっているのでは、という考えを改め、一時的な暇つぶしにはなるだろうと思い、幻覚に話しかけてみることにした。

 

「あなたは誰ですか?」見た目はディイノーカだが、もしかしたら外見だけの別人かもしれない。

「忘れたのか、アリゼル。ディイノーカだ」幻覚は懐かしい笑顔で答えた。


「はあ、そうですか。その、ディイノーカさんはどうしてこんな所に?」

「俺は……地縛霊みたいな物なのだろうか? 魂だけが、この氷の中に囚われてしまったみたいなんだ」


 何故かは分からない。幻覚と思っていたディイノーカの声は胸の内へと染み込んでいき、アリゼルの疑念を消し去った。きっと彼の話すことは嘘ではないのだと、アリゼルを確信させた。

 

「私のせいでしょうね。この決断を『あの時』にしていれば、あなたは死なずに済んだ。……すみません」

「謝るなよ、皆の姿を見られたからいいんだ。……というかお前、なんか笑っているように見えるんだけど、本当に謝る気ある?」


 ディイノーカはアリゼルの兜の中身を除くように凝視した。


「どうでしょうね? ふっ、何せ精霊と人間では精神の構造が違うようなので」

「やっぱりな、笑い声が漏れてるぞ!」


「はははっ、すみませんね。久し振りにあなたと再会できて嬉しくなってしまいまして」

「はあ、お前が変わっていなくて安心したよ」


 アリゼルは急に申し訳無さそうに縮こまる。

「……すみませんね、ディイ。何と言われようとも、あなたが死んだのは、私のせいだ」

 本心だった。アリゼルはディイノーカと目を合わせないように、視線を落とした。


 ディイノーカは落ち込むアリゼルの様子を見て、大声で笑った。

「お前がそんな姿を見せるなんてな。……でも、俺のことなんか気にしなくていい。俺が守ろうとしたものを、大きな代償を払ってまで、お前は守ってくれた。それで十分なんだ」


 アリゼルは視線を落としたまま、何も無い暗闇を見つめ続けていた。


「お前、そんなんでこの竜を倒せると思ってるのか? ……しょうがないな。あっちを見てみろ!」ディイノーカは急に何もない筈の空間へと指を差した。


 アリゼルは顔を上げ、彼の指先へと視線を移す。どこまでも暗い闇の中に一筋の光が差し込んでいた。光の向こうには先程までアリゼルが仲間達と共にいた雪の街が見えた。


「もっとよく見てみろよ。そして、聞くんだ」

 ディイノーカが光の側に行け、と手の平で指図した。アリゼルはその指示に従い、光が差し込む闇の隙間を覗きに行った。その隙間から見えたのは、リシュリオルの姿だった。


『アリゼル! 絶対に戻ってこい! そんな奴に負けたら承知しないぞ!』


 吹雪の中、今にも枯れそうな声で叫び続ける少女の姿を、アリゼルは呆然と見つめていた。


「ふふ、本当にうるさい娘だ。……どうやら、この竜との戦い、絶対に負けられなくなってしまったようですね」

 アリゼルは泣きながら声を張り上げるリシュリオルを見て、思わず笑ってしまった。


「ありがとう、ディイノーカ」ディイノーカへ向かい合うアリゼル。

 

「俺からも言わせてもらう。アリゼル、ありがとう。リシュリオルに今まで付いていてくれて。約束を守ってくれて。……そして、お前が竜に苦痛を与えてくれているお陰で、この氷から抜け出す隙間ができたみたいだ」光の隙間に向かっていくディイノーカ。


「もし、皆さんに挨拶をしていくつもりなら、私のことは大丈夫だと伝えて下さい。……今度は私からの約束です」

「ああ、約束だ」そう答えると、ディイノーカは光の隙間の向こうへと消えた。


 アリゼルはディイノーカが消えた後、自分に言いきかせるように、心の中で呟いた。


(リシュ、私は必ず戻りますよ)




 ラフーリオン達は街の片隅から、アリゼルが囚われている氷塊をじっと眺めていた。


 暫くすると、『兵器』が置かれた広場の方からノバトゥナが慌てた様子でこちらに向かって、走ってきた。

「一体、何があったの?」息を切らしながら皆に話し掛けるノバトゥナ。


「アリゼルが……」リシュリオルはアリゼルが竜に取り憑いたことを話そうとしたが、嗚咽のせいで上手く声が出せなかった。


「アリゼルが竜に取り憑いた。自分を犠牲にして……」

 隣に立つラフーリオンがリシュリオルの代わりに、事の顛末を語った。


「そう、あのアリゼルがそんなことを……」ノバトゥナは悲しそうに雪の積もった地面を見ていた。


 皆がアリゼルが消えてしまったことを悲観していた時、ラフーリオンは次の異界の鍵の気配がするのを、氷塊の方から感じ取った。

 咄嗟に氷塊へと視線を向けるラフーリオン。何かが激しく動き回っているのが見えた。


「皆、あれを見てくれ!」ラフーリオンは思わず叫び声を上げた。そして、指先を動き回る謎の物体の方へと向ける。


 ラフーリオンの声に従い、皆の視線は彼の指差す方へと向いた。

 激しく明滅する光の球が凄まじい勢いで、彗星のように尾を引きながら、こちらに向かって来ている。

 皆、その光を呆然と見つめていた。光は次第に形を変え、人の形へ変わっていく。

 光はディイノーカの姿へと変わった。そして、ラフーリオン達の側へゆっくりと降り立った。


「せ、先生……」リシュリオルが震える声で呟いた。

「ディイノーカ……」ノバトゥナは目を大きく見開いた。


「久し振り、皆。はじめましての人もいるか」ディイノーカは皆の顔を見回す。全員が愕然とした様子で彼の顔を見つめ、何も言えずに棒立ちしていた。


「そんな化け物でも見たような顔するなよ。傷つくなぁ……」

「君は本当にディイノーカなのか?」ラトーディシャが怪訝そうに尋ねる。


「そうだ。だけど、ここにあるのは魂だけ。俺の魂だけがあの氷の中に閉じ込められていたんだ」ディイノーカは背後の氷塊を指差した。


「君は生きているのか? それとも……」

「俺は既に死んでいる。……でも、皆に挨拶をする時間を異界の神様がくれたみたいだ」


 ディイノーカがラトーディシャの側へと近寄る。彼の視線は隣でラトーディシャを支えるリアノイエの方へと向いた。


 ディイノーカはじっとリアノイエを見つめたあと、ラトーディシャの方へ視線を戻す。


「……ラトーの彼女?」ディイノーカは間の抜けた声で聞いた。

「そうだ」ラトーディシャは迷いなく、きっぱりと答えた。


 直後にリアノイエの肘がラトーディシャの脇腹に勢いよくぶつかった。

「ぐッ!」ラトーディシャは短く叫ぶと、地面に膝を着く。


「ははは、仲良くしろよな」ディイノーカは笑いながら、ラトーディシャの一番近くにいたゼールベルの方へ視線を移す。


「あなたがラトーを雪原から解放してくれた人だよね?」

「ええ、そうです」


「ありがとう、俺にはラトーを救い出せなかった」

「いえいえ。……でも最近、その恩を忘れたのか、ラトーの奴、俺に対する態度が悪いんですよ。何か言ってやってくれませんか?」小声で囁くように話すゼールベル。


「黙ってろ、ゼル!」ゼールベルの背後からラトーディシャの怒鳴り声が聞こえた。

「はい、すみません」ゼールベルはとびっきり情けない声を上げた。


 ディイノーカは二人のやり取りを見て、また笑った。そして、リシュリオルの方へ振り向き、彼女の元へと近付いていく。


「せ、先生……」リシュリオルの顔には、ディイノーカに会えた喜びや、彼がもう死んでいることに対する悲しみ、多くの感情が溢れていた。


「大きくなったな、リシュ。アリゼルには本当に感謝しないといけない」

 

 リシュリオルはディイノーカの言葉を聞いて、ハッとする。

「あ、アリゼルはどうなったんですか?」

「あいつなら大丈夫。絶対に戻ってくるさ。長年一緒にいたんだろ? だから、信じてやってくれ」


「分かった……」今にも泣きそうな顔になっているリシュリオル。


 言いたいことは沢山あるのに上手く言葉にできない。……せめて、何か一言だけでもいいから、伝えたい。


「リシュ、大丈夫か?」リシュリオルの様子を案じて、彼女の顔を覗き込むディイノーカ。


「先生!」声を張り上げるリシュリオル。

「な、なんだ?」いきなり大声を出され、一歩退くディイノーカ。


「私にいろんなことを教えてくれて、ありがとう!」


 ディイノーカは少しだけ間を置いた後、満面の笑みを浮かべながら、片手を上げて言った。


「おう!」


 リシュリオルはディイノーカの返事を聞いた途端、涙に塗れた顔を隠すように蹲った。

(本当に良く泣く奴だ)ラフーリオンはリシュリオルが泣き崩れる様子を傍目で見ていた。


 ディイノーカはリシュリオルを軽く慰めた後、ラフーリオンの元へ向かう。


「あなたがリシュリオルに異界のことを教えてくれてみたいだね」

「はい」


「アリゼルが消えてしまった今、リシュにはあなたの力が必要になると思う。どうか、彼女が一人立ちできるようになるまで、支えてやって欲しい」

「分かりました」


 ラフーリオンは頷きながら、心の中で思う。俺の最後の贖罪なんだ。言われるまでもない。


「ありがとう。……これで、後は君だけになったかな?」

 

 ディイノーカはノバトゥナと向き合った。互いに見つめあう二人。ディイノーカは彼女の背後にバクルアがいることに気付き、あっと声を上げた。


「バクルア、狼達は元気か?」

「ああ、元気だ。暫くしたら、一度あの森に戻るつもりだ」


「ノバトゥナのこと、ありがとう」

「お安い御用だ。私は少し疲れたから眠ることにするよ。……邪魔にならないようにね」


 そう言うと、バクルアはノバトゥナの影の中に消えた。ディイノーカの予想通り、バクルアは空気を読んでくれた。

 バクルアが消えた後、ディイノーカはノバトゥナへ再び目を合わせる。


「久し振り」

「ええ、久し振りね」


「元気だったかい?」

「元気よ。……でも、あなたがいた時と比べると、私、年を取ったわね」


「……俺も君と一緒に年を取れるような人生を歩んでみたかったな」

「……そうね」


 二人の会話が続く。次第にノバトゥナの身体が震えだす。もう、心の底から溢れてくる感情を抑えることはできなかった。堪えていた筈の涙が両目から既に流れ出していた。


「ディイノーカ、あなたにずっと会いたかった!」


「……俺もだよ、ノバトゥナ」ディイノーカは笑顔で答えた。彼の笑顔は何処か悲しげだった。


「君のことを抱きしめてあげたいけれど、魂だけのこの姿じゃあ、君に触れられないんだ」

「あなたの顔を見れただけでも、私は幸せよ」


「そう言ってくれて嬉しいよ。……ありがとう」

 ディイノーカの魂で作られた身体がぼんやりと光り始める。


「もう時間がきたのね」

「ああ、そうみたいだ」


 ディイノーカの身体が宙に浮き始める。彼は空を背にしながら、皆の顔を見渡して言った。


「みんな、本当にありがとう。そして、さようなら。……みんながこれから歩む道が素晴らしいものであることを祈っているよ」


 ディイノーカは空の中へと消えていった。一行はディイノーカの姿が見えなくなるまで、彼のことを静かに見送った。


 ディイノーカが溶け込んだ空の雲間からは、暖かい光が差し込んでいた。

 そして、ラフーリオン達は、次の異界への扉が開くのを感じ取った。

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