思い出から現実へ

 ある日のこと、リシュリオルは見張り役の信徒が消えた瞬間を見計らい、鉄格子の扉を黒炎で溶解し、地下室を抜け出した。もう地下室に張られている結界では、成長した彼女を止める鎖にはたりえなかった。


「リシュ! 落ち着いて下さい。何を考えているのですか!」

「復讐するんだ。先生の命を奪った全てに!」


「考え直して下さい! 地下室に戻りましょう!」 

「うるさい!」


 アリゼルの制止を振り切り、リシュリオルは地下室から、そして、聖堂から抜け出した。


「分かりました。できるだけサポートはします。でも無茶はしないで下さい」

 アリゼルはリシュリオルを止められることはできないことを悟り、諦めの声を上げた。


 丘を下るリシュリオル。アリゼルにとっても久し振りの外界の空気。眼下に見える街の様子も、冷たい空気も、何も変わってはいなかった。あのおぞましい竜が眠る氷の塊も。


 リシュリオルは不思議そうに、世界の様子を見回していた。彼女にとって、あの地下室以外の景色を見るのは何年振りになるのだろうか。


 凍りついた隣の街が見える。リシュリオルは歩みを止め、故郷の街を見つめていた。


「あの街……。私が生まれた街だよな」

「はい」

 アリゼルは自分が知っている範囲で、リシュリオルに彼女自身の情報を教えていた。感情を昂ぶらせる為に。


「……私はずっと自分の『本当の名前』を知りたかった。でも、もうそれを知っている人はもういないんだな……」氷の中の街。もうそこに生者はいない。

「あなたには、新しい名前があります。ディイノーカに与えられた名前が。それでいいではないですか」


「……そうだな。……アリゼル、先生が竜と戦った場所を教えて欲しい」

「北東の雪原、あの氷の塊が見える方です」

 アリゼルは未だ聳えている巨大な氷塊を指差した。


「そこに行きたい。案内してくれ」

「……分かりました」


 リシュリオルは教会の人間に見つからないように、街を大きく巻きながら、北東の雪原に向かった。


 アリゼルの記憶を辿り、ディイノーカが倒れた場所を探す。


 それを見つけたのは、偶然だった。


 その日は珍しく積もっている雪の量が少なかった。リシュリオルは黒いコートの袖が雪の下に埋もれているのを見つけ、雪の中から引っ張り出す。


 見慣れた形のコートを見た途端、リシュリオルの胸の中にあった激しい感情がすっと抜け落ちていった。酷く虚しくなり、途方もない喪失感に襲われた。


 リシュリオルは雪で濡れたコートを抱きしめて泣いた。

 アリゼルは何も言わず、泣き叫ぶ少女の姿を傍らで見ていた。




 ディイノーカの復讐を果たす為、街の教会へ向かおうとするリシュリオル。


 アリゼルは彼女の実力には少々不安な部分があったが、教会の精霊憑き如きには負けることなどないだろう。戦い慣れてはいないものの彼女の炎の強さは、確実に異界渡りの力を使っていない素のディイノーカを超えている。


「正面から行くんですか?」

「悪いか」


「いえ、もっと作戦を練ったりとかはしないんですね」

「今の私に敵はいない」自信満々の笑みを浮かべるリシュリオル。


 とんでもない慢心だ。その自信はどこから来るのだろう。実際に戦ったことなど一度も無いくせに。この娘にはちょっと抜けているところがあると、アリゼルは思った。


 リシュリオルは本当に、迷いもなく教会に向かって真っ直ぐ歩いていった。


 その道中、一人の女性が声を掛けてきた。スーツを崩して着た明るい茶髪の女性。少し伸びた後ろ髪を結んでいる。


「きみ、『黒炎の巫女様』?」

「アリゼル。誰だ、こいつは?」


「おっ! 今、『アリゼル』って言ったね。偉大な精霊様の名前だ。なら、きみが『黒炎の巫女様』ってことで間違いなさそうだね」構えを取り始める女性。

「何なんだこいつ」リシュリオルは怪訝そうに、目の前でべらべらと話す女性を見る。


「私はイルシュエッタ。では早速……。行くぞぉー!」女性は名乗り終えた瞬間、鋭い拳をリシュリオル目掛けて打ち込んできた。

「ひっ」小さな悲鳴を上げながら、素早くしゃがみ込むリシュリオル。


「おぉ、中々の反射神経」イルシュエッタが感心の声を上げる。


「リシュ、逃げましょう。この女性はかなり危険だ」

「そんなことできるか! ここまで来て!」


「揉め事? でも私は容赦しないよー」

「イルさん! 主教さんはその子を捕まえてと行っていたはずです!」

 突然現れた金髪の女性が、イルシュエッタを制止する。その隙に、リシュリオルはその場から逃げ出した。


「えぇ、面倒だなぁ。……あっ! 逃げた!」イルシュエッタは物凄いスピードで、リシュリオルを追った。

 

 街の狭い路地を駆け抜けるリシュリオル。

「クソッ! ここまで来て逃げるなんて」

「リシュ、彼女はこの街の人間ではない。恐らく異界渡りです。何かしらの力を持っている筈です」


「分かった。でも、私にだって精霊の力がある!」

 リシュリオルは踵を返し、追ってくるイルシュエッタに立ち向かおうとする。しかし、イルシュエッタはリシュリオルの背後から、突如として現れた。


 イルシュエッタの気配に気付いたリシュリオルは振り向くと同時に、炎を手当り次第にばら撒いた。


「遅いよ」イルシュエッタはリシュリオルの炎を華麗に避け、リシュリオルを背後の壁に追い詰めた。


「私の力を見せてあげるよ」

 イルシュエッタは鍵束をポケットから取り出した。そして、リシュリオルに素早く迫り、拳を突き出す。


 リシュリオルはそれをギリギリで躱す。しかし、イルシュエッタの狙いは別のことにあった。先程まで何も無かった壁に扉ができていた。


「これで捕まえたよ」

 イルシュエッタはニッコリと笑いながら、リシュリオルの身体を急に現れた扉の先へと押し出した。


 リシュリオルは扉の先に消えた。


「……あ、やばいな。鍵を間違えた」

 イルシュエッタがそんな言葉を発していたのが、扉を通る瞬間に聞こえた。




 扉の先には、アルコールの匂いが充満していた。真っ赤な顔をした髭面の男がこちらを見ている。


「マスター、なんか女の子が出てきた」

「親父さん、呑み過ぎですよ」


「いやいや。そこ見てよ」髭面の男がリシュリオルを指差す。

「ええ……本当だ……」


 リシュリオルはイルシュエッタの力により、どこかの世界にあるどこかの街のバーに辿り着いたのだった。

 そして、この場所から彼女の本格的な異界の旅が始まった。


 今となっては、この時のことも懐かしい思い出となった。長い時を生きる私にとっては近い過去だというのに、何故か『懐かしい』と感じる。


 私の名を呼ぶ声が聞こえる。そろそろ思い出から現実に戻らなくてはならないようだ――。




 ラフーリオン達は、アリゼルの炎で雪を溶かしながら、街へと下りていた。既に街への入口は目前にある。


「アリゼル、街の様子を見てきてくれないか? 何か物騒な気配がする」ラフーリオンが尋ねる。

「え? ……ああ、お安い御用です」アリゼルは上空から街の様子を見に飛び立った。


 街の見た目は何も変わっていなかった。だが、街の人々の様子は以前とは明らかに違っていた。


 広場にいる人々は統一された動きで軍隊の様な訓練を行っていた。街の端には、外敵が来ないかを見張る物見のような人間がいる。

 

 アリゼルは広場に立つ一人の女性を見て、目を疑った。


 ノバトゥナだった。


 キリッとした目つきに、濃い赤毛。前に会ったときに比べると、少し老けていたが、それはまあ当たり前か。力強い声で訓練を指揮していた。


 よくよく見ると、少し離れた場所に白い精霊の姿があった。稲妻の精霊、バクルアだ。狼達に付いていた筈だが何があったのだろうか。


 懐かしい面々を見て、一人興奮するアリゼル。思わず、広場に降り立ってしまう。


「何者だ!」アリゼルの姿を見た一人の男が長銃を向ける。

「待って!」先程も聞こえていた女性の力強い声が男の動きを制止する。


「会いたかったわ、アリゼル……」ノバトゥナがアリゼルに歩み寄る。

「私もです。ノバトゥナさん。お元気でしたか」アリゼルは深々と一礼する。


「久し振りだな、アリゼル・レガ。まさか、黒炎の精霊がこんな時に来るとは」ノバトゥナの背後からバクルアが現れる。

「お久し振りです、バクルアさん。……『こんな時』というのは?」


 バクルアは困ったように口をつぐんでしまったが、手前にいるノバトゥナが代わりに口を開いた。


「氷の竜が目覚める予兆があったの」

 ノバトゥナは恐ろしげに言った。


 彼女の震える声を聞き、アリゼルは氷の竜との戦いが再び始まるのだと、確信した。

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