情熱の黒い炎
氷の竜に近づくディイノーカ。先程、丘の上を登っていた時とは違い、足取りは重かった。目の前の巨大な氷の塊を見れば、誰もがその先に進むのを躊躇うだろう。
「ディイ、大丈夫ですか?」アリゼルがディイノーカの肩に触れる。
「……大丈夫、大丈夫だ」その声は震えていた。
ディイノーカは大きく深呼吸をした後、歯を食いしばり、氷塊に向かって走り出した。髪が長く伸び、赤く染まる。
「コートを使う」ディイノーカは走りながら、開いていたコートのボタンを掛けていく。
「使わなければ、きっとあの竜には勝てませんよ」
氷塊に潜んでいた竜が自分に向かってくる小さなディイノーカの存在に気付く。
(新しい玩具が来たみたいだ)竜の口元が歪む。
竜は長い腕をディイノーカへ、ハンマーのように勢いよく振り下ろした。
ディイノーカはその隕石のような一撃を右手で受け止める。彼の立つ大地に衝撃が走る。凄まじい風圧によって積もっていた雪が、ディイノーカの足元から流されていく。
「……なんだ?」普通の人間なら簡単に始末できる一撃を受け止められた竜は、疑問の声を上げる。
「なんとか受け止められたな……」ディイノーカの額に一筋の汗が流れる。
ディイノーカの異界渡りの力は、自身の身に付けているコートを最強の鎧へと変える。ディイノーカは残った左手で黒炎を受け止めた竜の右手に放つ。炎は竜のきめ細かな鱗の鎧を剥いでいく。竜は慌てて、振り下ろした腕を元に戻す。
「お前、異界渡りか! しかも、精霊憑きの!」竜が驚いたように叫ぶ。
「そうだ。……悪いが、お前には消えてもらう」
「カスの人間如きに、できるわけ無いだろッ!」竜の罵声を放つ口から、無数の氷の槍が生成され、雨のように降り注いだ。
ディイノーカは黒炎を盾のように前面に撒いた。彼に向かってくる氷の槍は炎に触れる度に蒸発していく。ディイノーカは止め処なく迫る氷を溶かしながら、竜に近付く。
再び、竜の拳がディイノーカに目掛けて、真っ直ぐ飛んできた。彼は紙一重で竜の一撃を避け、巨大なその拳に飛び乗った後、腰に据えた刀を抜く。
「こいつを使うのは久し振りだ」刀に黒炎を纏わせる。
ディイノーカは竜の腕に黒炎を纏わせた刀を突き刺した。そして、雄叫びを上げながら、竜の腕の上を走り抜けていく。黒く燃える刀が魚を捌くように竜の腕を引き裂く。
竜が呻き声を上げる。腕を振り回して、ディイノーカを振り落とそうとするが、既に彼は竜の首元まで辿り着いていた。
首に更に深く刀を突き刺し、竜の体の上でのバランスを確保する。突然、ディイノーカの周囲の竜の鱗が逆立ち、氷の刃が彼を目掛けて飛び回った。すかさず炎をばら撒いたが、全ての氷は避けきれず、左肩に氷の刃が刺さっていた。左肩に炎を当て、傷口ごと焼く。強い痛みを感じたが、出血は止まった。
竜の攻撃が収まった瞬間、大量の黒炎を竜の首元から頭部にかけて放射する。炎は竜の鱗を燃やし、鱗の下の肉が焼け爛れていく。焦げる肉の臭いと蒸発する血液。そして、悶え苦しむ竜の声。
首元から炎を竜に放ち続けるディイノーカ。だが、背後から竜の尾が迫り、彼の身体を叩きつけた。とっさの判断でコートの力を使い、竜の尾による強烈な打撃を弾き返す。竜に突き刺さった刀がその衝撃で激しく振動する。
竜の尾による二撃目がディイノーカに襲いかかる。コートの力を使い続け、その後も繰り返される氷と巨大な腕による連撃を耐え忍ぶディイノーカ。
ディイノーカの体勢が大きく崩れる。彼のコートの力は彼の肉体を竜よりも強靭なものに変えるが、それと同時に彼の命を蝕んでいく。だが、竜は怒り狂い、その無作為な攻撃は留まることを知らなかった。遂にディイノーカは、コートの力を維持できなくなってしまう。
竜の尾がディイノーカの身体に直撃する。その重い一撃は、彼の身体を空中に吹き飛ばした。雪原に投げ出され、雪の上を転がっていく。
「ディイノーカ!」上空からディイノーカと竜の戦いを見ていたアリゼルの叫び声が雪原に響き渡った。
全身を激痛が襲った。意識を保っているのが辛く感じる。持っていた刀を杖代わりにして、ふらふらと立ち上がる。刀の先は折れてしまっていた。きっと切っ先は竜の首元に刺さったままなのだろう。
「……折れてしまった、刀が……」ディイノーカは折れた刀を鞘に収めた。
「ディイ」アリゼルが目の前に現れる。
「……どうした、……アリゼル」
「もう終わりにしましょう。あなたはよく頑張りました」
「……」ディイノーカは黙って、アリゼルの横を通り過ぎようとする。
「あの竜は変形させた翼を地面の奥深くまで突き刺し、地脈からこの土地のエネルギーを吸収している。あなたが奴に与えた傷は直ぐに元通りになる」
「……なら、次はもっと早く仕留めるよ」血に塗れた顔でディイノーカは笑った。
「あなたにそんな余力は残っていはいない筈だ」
「情熱だよ」アリゼルに背を向けたまま歩き続けるディイノーカ。
「何を……」
「情熱だ。女の子を救うとか、邪悪な竜を倒すとかさ、燃えてくるだろ? 心は力だ。今、俺の心が燃えている内にならきっと竜だって倒せる気がするんだ」
「戯言だ。そんな理屈であの竜は倒せない。それとも、奴を倒すことのできる策でもあるのですか?」
「やったことはないが、コートの力の全てを黒炎に与えて撃ち出すんだ。絶対、疲れるだろうなぁ。でも、きっと、それなら奴を倒せるさ」
「本当にそれで竜を倒せるのですか?」
「他にいい案があるなら言ってくれ」
アリゼルは何か言いかけたが、直ぐに話すのを止めた。
「……あなたは愚かだ。そんなボロボロの身体で異界渡りの力と黒炎を併用すれば、肉体の限界が直ぐに来ますよ。自身を犠牲にしてまで、あなたはあの二人を、あの街の人間を助けようなんて。正義の味方にでもなったつもりですか?」
「別に俺の行動は自己犠牲でも正義の為とかでもない。俺はそんな大層なものを背負える人間じゃないからな。ただ、そう言うのを抜きにしてさ。困ってる人を救ってあげたいんだ。不幸な誰かを少しでも幸福にしてあげたいんだ」
「あなたの行動で、全ての人を幸福にできるとでも思っているのですか?」アリゼルの問にディイノーカは笑った。
「おかしなことを聞くなぁ、アリゼル。そんなことできるわけ無いだろ。……だけどさ、その領域には近付けるんじゃないかな? そして、あの竜は確実に多くの人を不幸にして、全ての人の幸福から大きく遠ざける。それだけは避けたいんだ」
沈黙の時が流れる。
「ディイ、最後にもう一度だけ、言います。……ここで終わりです。二人のことも街も諦めて、次の異界の扉に向かいましょう」
「アリゼル、お前はもう少し情を持ったほうがいいと思うぞ」ディイノーカは涼しい顔で笑った。
また、沈黙の時が流れる。アリゼルの兜の奥にある赤い光がディイノーカを睨んでいる。
「……お前が死ぬとなあ、私が迷惑するんだよ!」アリゼルの態度が豹変した。荒々しい口調で、怒鳴り散らす。ディイノーカはアリゼルの怒声に対して、うるさそうに顔を歪めた。
「出た出た、アリゼルの素が……」
「聞け! この死に損ない! さっきからふらふらと歩きやがって! そんなことじゃあ、竜に殺されるぞッ!」
怒り狂うアリゼルの声を冷静に聞き留めるディイノーカ。『殺される』? なら、伝えて置かなければならないことがある。
「……アリゼル。もしも、もしもだぞ。……もしも俺が失敗したら、リシュリオルの所に行ってやってくれよ。彼女を助けてあげてくれ。あと、俺がどうなったかをノバに、みんなに伝えて欲しい」
「誰がやるか、そんな面倒なこと! 自分でやれッ!」アリゼルの横暴な態度に思わず笑ってしまうディイノーカ。
「ふふ、ありがとうアリゼル、勿論そのつもりだ。……でも、頼んだからな。約束だ」
燃え盛るような怒りが収まったのか、呆れ果てたのか、アリゼルは何も言わなくなった。
ゆっくり歩いていたが、再び竜の姿が目前に現れる。アリゼルが言っていた通り、先程与えた傷は治りつつあった。
竜は再び現れたボロボロのディイノーカを見て、ニヤリと笑う。
「そんなに死にたいのか?」
「こっちのセリフだ。よく逃げずにいたじゃないか」ディイノーカは指を差しながら、笑みを返す。
「死ね!」
竜の右腕が振り下ろされると同時に、横から長い尾がディイノーカを目掛けて襲いかかる。ディイノーカは深く息を吸った後、コートの力を発揮させながら、莫大な熱量を持つ黒炎を放った。凄まじい轟音と共に放たれたその炎は、竜の腕と尾を瞬時に灰化させた。
竜の悲鳴が雪原に響き渡る。灰になった腕と尾が風に流され、街に向かって飛んでいく。
「まだだ! まだ撃てる!」ディイノーカは竜に近付くため、足元に向かって駆け出す。走っている最中、血を吐き出した。どうやら、もう肉体の限界が迫っているらしい。
今まで微動だにしなかった竜の翼が激しく動き始めた。地面に突き刺さった翼が地表へと高速で戻り始め、大地を揺らす。今、竜の翼を使われたら不味い。さっさと止めを刺さなければ。
右腕に黒炎を集中させて、撃ち出す。竜は残っていた左腕を犠牲にして、黒炎を受け止める。竜の両腕は灰となり消え去った。
咳き込み、血を吐くディイノーカ。だが、まだ、膝をつくことはできない。
「これで終わりだ。俺の最後の炎」今度は左腕に黒炎を纏わせた後、竜の胴体に目掛け、撃ち込んだ。
炎が竜の身体を焼く、その筈だった。
地表まで戻ってきた竜の翼が黒炎の直撃をすんでのところで防いだ。ディイノーカは膝を地面につき、今にも倒れそうになる。左腕は項垂れたまま、動かすことができなかった。
「終わるのはお前だ! 食い殺してやるよッ!」竜の大きく開いた口がディイノーカに襲いかかった。
「……最後の……最後だ」ディイノーカは鞘から抜いた折れた刀に炎を纏わせた。そして、迫りくる竜に向けて、その刀を投げつけた。刀は竜の右目に突き刺さった。そこから燃え盛る黒い炎が走り、竜の全身を焼き払った。
(リシュリオル、もっと精霊のこと、他にもいろんなことを教えてあげたかった。世界の広さを、美しさを……)
(アリゼルに君のことは頼んである。だから、きっと大丈夫だろう。強く生きて欲しい……)
竜の身体がどんどん焼け落ちていく。その姿は最早、竜とは呼べない程に変わり果てていた。
(ノバトゥナ、君とのここでの生活は本当に楽しかった。君からは色んなものをもらった気がするよ。ありがとう。だけど……)
(君との約束を守れなかった。すまない。俺も、最後まで君と一緒にいたかった……)
燃える炎の中、竜の叫び声が聞こえる。
「クソッ、クソォォッ! まだだ! 氷の中に戻ればぁ!」
竜は、身体の一部を失い、全身が焼け爛れていたが、まだ動くことができた。地を這うように卵型の氷の中に戻り、その深く重い傷を癒すために長い眠りに就いた。
ディイノーカは竜に止めを刺すことはできなかった。しかし、一時的にだが、街を守ることはできた。
「まだ……生きているのか。……恐ろしいな、竜っていうのは。……でも、あの傷なら……当分は……動けない筈だ」ディイノーカは雪の上に倒れ込んだ。もう指一本も動かせない。
何処からか、風を切る音が聞こえてきた。吹雪の向こうから迫る黒い影が目に映る。
「ディイ……」アリゼルがディイノーカの側に降り立った。
「……アリゼル。さっきの……約束を頼む。俺は……疲れたから、……少し寝るよ」息絶え絶えに話すディイノーカ。彼は間もなく、その息を引き取るだろう。
「分かりました」アリゼルはそう一言だけ告げた後、その場から飛び去った。
「アリゼル、ありがとう……。最後まで俺の我儘を聞いてくれて……。ありがとう……」
ディイノーカは力尽きた。異界渡りの死は、肉体を光り輝く粒子に変える。彼の衣服だけが、雪の上に残され、たなびいていた。
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