蹂躙者

 翌日、ディイノーカとノバトゥナは精霊の調査には出向かずに、一日を家の中で過ごすことにした。


 家から出なかった二人は気付いていなかったが、その日、街の人々はある物に怯えていた。街の外れの雪原に突如として巨大な卵型の氷の塊が現れたのだ。


 教会もこの異常事態への対応に追われていた。人々を落ち着かせる為には、この氷塊が現れた原因を知る必要があった。


 教会は十人程で構成された調査隊を雪原に送り出し、その帰りを待った。


 だが、調査から帰ってきたのは一人だけだった。唯一の生き残りである隊員に話を聞くと、隊員は恐怖で顔を歪ませながら、雪原に今も存在する氷塊について語った。




 街の外れに現れた氷塊に近付いた調査隊がまず初めに感じたのは、周囲の気温が急激に下がっていることだった。


 調査隊は全員が、極地用の装備を身に着けていたが、それでもその寒さは耐え難いものだった。また、寒さが強くなると共に霧がどんどん湧き始めた。


 濃い霧が立ち込める中、調査隊は更に氷塊に近付いていく。至近距離まで近付き、表面が透き通っていることに気付く。氷の中を覗き込むと大きな空洞があった。そして、氷塊の中で『何か』が蠢いているのが見えた。


 その『何か』と目が合う隊員達。『何か』は口元を歪ませ、ニヤリと笑った。その直後、氷塊の一部が砕け、白い腕のような物が飛び出した。


 隊員の一人が悲鳴が上げた。声のする方を見ると、巨大な手が隊員の上半身を掴み上げていた。そして、果物の果汁を絞るように、握りしめた。叫び声は次第に消え、隊員を掴む手が徐々に開かれていく。完全に開き切る前に、巨大な手のひらから赤黒い塊が雪の上に落ちた。


 隊員達は雪が赤く染まっていく様子を見て、一目散に逃げ出した。だが、氷の中に潜む怪物の速度は彼等を簡単に捕らえた。一人、また一人と巨大な手に追い付かれ、姿を消していく。幾度となく、背後から断末魔が聞こえてきた。


 唯一、生還した隊員は偶然、雪の中に深く埋もれていた為、怪物の目から逃れることができた。雪の中、息を殺して怪物をやり過ごそうとしている時、霧が一瞬だけ晴れ、その姿が露わになる。


 白い鱗を身に纏い、大きな顎を持ち、金色の瞳が煌々と輝いている。氷の中にいたのは『竜』だった。だが、彼が話に聞いていた竜とは異なる形をしていた。


 竜の象徴と言ってもいい翼は、槍のように鋭く尖った形にまとまっており、地中に向かって、突き刺さっている。また、その体躯は氷塊と同じく山の様に巨大だった。人間が掌の中にすっぽりと包まれてしまったのだ。身体がここまで大きいのは当たり前かもしれない。


 竜が氷の中に戻ると、彼はその場から静かに離れ、街に戻った。

 


 

 帰還した隊員の話を聞いた教会の関係者達は、直ぐに対策会議を執り行った。街の精霊憑きを集め、討伐部隊を構成しようとしたが、異形の氷の竜と戦うことなど、誰もやろうとはしなかった。


 会議中、一人の男が発言した。主教、ガズリウザだった。

「あの竜を仕留めることができる人間なら一人だけいる。彼に頼めばいい。断る可能性もあるが、その時の為、皆には少々働いてもらう」

 会議に参加した教会の人間達が顔を見合わせ頷く。


 ガズリウザは続けて呟いた。

「扱いやすい駒を街においてくれたことを精霊達に感謝しなければならないな」

 彼の顔には、下卑た笑みが浮かんでいた。


 


 次の日の朝、ディイノーカはリシュリオルに会いに丘を登っていた。霧が濃く、いつも見えていた街や雪原は見えなかった。そして、今日はやけに空気が冷えている気がする。


 だが、いつもより足取りは軽かった。ノバトゥナに心の内を伝えることができたからだろう。それに昨日は久し振りにゆっくりと休むことができた。


 丘を登り切ると、信徒が一人、聖堂の扉の前に立っているのが見えた。

 何かあったのだろうか。ディイノーカが信徒に近付いていくと、信徒はこちらが何かを聞く前に口を開いた。


「宿主様、街にお戻り下さい」

「何?」突然の信徒の言葉を理解できずに戸惑うディイノーカ。


「お戻り下さい。……いえ、戻った方がいい。今、あなたが泊まっている家で主教様が待っています」

「お前、何を言ってる……」

「ディイ、彼女の家に戻った方がいい」アリゼルが霧で隠れた街の方を指差しながら、言った。


 アリゼルの声を耳にした途端、ディイノーカは踵を返し、全速力で街を下りた。

「くそっ! 奴等! 彼女に何かあったら、跡形も無く焼き払ってやる!」

 

 ノバトゥナの家の前には、数人の信徒達が屯していた。

「どけ……どけよ!」ディイノーカは信徒達を押し分け、家の中に入る。

 

 扉の先には、ノバトゥナの姿は無く、代わりにガズリウザが落ち着いた様子で椅子に座っていた。


「待っていました。宿主様」

「彼女はどこだ!」ディイノーカはガズリウザの胸倉を掴む。


「おーっと、暴力はいけませんよ。安心して下さい。あなたの同居人は祈りを捧げる為に教会にいますよ」ガズリウザはへらへらと笑っている。

「ふざけるな! 何が狙いだ!」


「あなたにまた頼みたいことがありましてね。これが、どうしても、引き受けていただきたいことなので、少々強引な手段を取りました」

 勿体ぶるように話すガズリウザ。その態度に苛立ち、怒鳴るディイノーカ。

「さっさと話せ!」


「昨日、街の外れ、ここから北東にある雪原に巨大な氷の塊と共に竜が現れましてね、それを退治して欲しいのです。……アリゼル様の力を使えば、簡単でしょう?」

「竜だと……」


「ええ、その竜を倒して下されば、あなたの大切な方もきっと帰ってきますよ。あー、……それともう一つ。教会に行って、人々の祈りを妨害するなんてことはしないほうがいい。その間に聖堂にいるあなたのかわいい生徒がどんな目に会うか分かりません。……もしそんなことになっ

てしまったら、私としても非常に悲しい。まあ街の一大事なので仕方ないですけどね」


 ガズリウザはほくそ笑む。今すぐにでも、この醜い笑顔を剥ぎ取ってやりたい。


「あんたはどこまで屑なんだ? あんな子供でも、簡単に手をかけるのか?」

「それは、あなたの行動次第ですよ。あなたが善良な人であることを願っています」


 一瞬だけ考え込むディイノーカ。憤怒に満ちた表情で、ガズリウザを掴んでいる手を離した。

「……分かった、竜を倒しに行こう。だが、これ以上彼女達に関わらないことを約束しろ。リシュ……聖堂にいるあの子も地下室から出すんだ」


 ガズリウザは嘲笑うように返事をした。

「ふっ、分かりました」


 直後、鬼の形相で睨むディイノーカがガズリウザに迫った。

「約束しろ! 必ずだ……」

 ガズリウザはディイノーカの気迫に動揺し、無言で首を縦に振った。


「竜は北東にいるんだな?」

「そうです」


 ディイノーカは、すぐに家を出て竜のいる場所に向かった。

 ガズリウザもあとから、家を出る。信徒達が心配そうに彼の周囲に集まる。


「フン。あの様子なら、ちゃんと竜を始末しに行ったな。念の為、教会と聖堂に人を集めておけ」


 ガズリウザの指示を聞いた信徒達は一葉にその場から離れていく。


「さあ、見せてもらおうじゃないか。太陽の国の精霊の力とやらを。そして、その力、必ず手に入れてやるぞ。私の街の礎にしてやる」




 ディイノーカは氷の竜が現れたという雪原に向かっていた。濃霧は次第に晴れ始めていた。


 アリゼルがディイノーカの視界を遮るように現れた。

「本当に戦うつもりですか?」

「ああ」


「正直、あなたには厳しい相手ですよ。竜というのは」

「だが、俺がやらなければ二人の命は無い。それに竜がやろうとしているのは多分この街の侵略だ。放っておけば、二人以外にも世話になった大勢の人が死んでしまう」


「……そうですか」アリゼルは何か言いたげに暫く佇んでいたが、すぐに彼の背後へと回り、視界から消えた。


 雪原を進むにつれ、霧が晴れていく。そして、彼の視線の先に卵のような形をした巨大な氷塊が現れた。


「あれが竜なのか? あまりに大きすぎる」隣に浮かぶアリゼルが驚愕の声を上げた。


「そんなにでかいのか?」

「あの氷と同じサイズだとしたら、私も見たことはありません。何かしら成長を促す作用を自発的に起こしたのでしょう」


「なら、俺が異界で一番大きな竜を倒した男になるな」

 ディイノーカは笑いながら、そう言った。だが、すぐにそれが作り笑いだとアリゼルは気付く。彼の身体は震え、歯を強く噛み締めていた。


 この時、彼は既に死を覚悟していたのかもしれない。

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