約束
ディイノーカが街に滞在し始めて、半年が過ぎようとしていた。彼はリシュリオルのいる聖堂と、ノバトゥナの精霊の調査を交互にこなす日々を過ごしていた。
今日は、聖堂に行く日だった。この丘を何度上り、下ったことか。もう覚えていない。丘の上から見える景色はいつも変わらなかった。眼下には街と真っ白な雪原。あとは、少し遠くに氷の中の隣街。
白い息を空中にばら撒きながら、聖堂の大きな扉を開く。初めてここに訪れてから、全く変わらない聖堂内の様子。巡回する信徒、ディイノーカを監視する信徒。いつも変わらない動きをし続けるこいつらは、本当は機械なのかもしれない。
地下室へと下りる階段に足を置く。精霊の力が弱まっていくのを感じる。未だ結界を破る方法を思い浮かばずにいた。アリゼルが言っていた通り、例えリシュリオルを部屋から出せたとしても、その後が問題なのだ。きっとまた、この街を治めている教会の奴等があの牢獄に彼女を幽閉してしまうだろう。
彼女を救い出すには、何か大きな『きっかけ』が必要だ。教会の胡散臭い連中の考えを変えられるような状況が。そう考えたディイノーカはこっそりと街の教会についても調査を進めていた。まだ、彼女を救い出せるような『きっかけ』を見つけるに至ってはいないが。
ディイノーカは地下室の鉄格子の扉の前に立ち、鉄格子を軽く叩く。
「おはよう、リシュ」ディイノーカの声に反応し、リシュリオルは反射的に彼の顔を見る。
「おはようございます。『先生』」リシュリオルはいつの間にか、ディイノーカのことを『先生』と呼ぶようになっていた。
「先生、今日は何を教えてくれるんですか?」リシュリオルが鉄格子を掴み、期待に満ちた目でディイノーカを見る。
「そうだなぁ。今日は精霊と宿主の関係性について勉強しようか」
「分かりました!」元気よく返事をするリシュリオル。彼女は初めて出会った時と比べて、かなり活発な少女になった。
「まず、宿主が扱える精霊の力の大きさについて話そう。前にも話したと思うが、宿主と精霊には相性があって、扱える力の大きさが決まっている。適性という奴だ。例えるなら、宿主は器、精霊の力は流れる水。器が大きければ大きいほど、汲み取れる水の量は増える」
「ディイの器はスプーンくらいです。私の滝のような激しい流れを彼は小さなスプーンで必死に受け止めている」アリゼルが指でつまむような仕草をする。
「うるさいよ!」ディイノーカはアリゼルの『余計な一言』に対して怒鳴った。
リシュリオルは二人のやり取りを見て声を上げて笑った。
その後もディイノーカは日が沈む直前まで、リシュリオルに精霊の教育を施した。
「今日はこれでおしまいだ」
「もう終わりですか? 私はまだまだやれます」
リシュリオルは貪欲に知識を吸収した。ディイノーカが講義を終えようとする度、彼女は『まだ話を聞きたい』とせがんだ。ディイノーカはついつい彼女の言葉に流され、話し続けてしまうことが多々あった。だが今日は。
「リシュ、今日はゆっくり休むんだ。無理は禁物」少しだけ強めの口調で言い聞かせる。
「……はい」リシュリオルはしゅんとして、部屋の奥へと歩いていった。
ディイノーカは落ち込んでいるリシュリオルの背中に向けて、また明後日に来るから、と言い残し、階段を駆け上った。そのまま聖堂を抜け出し、丘を全速力で下る。信徒達が慌てた様子で通り過ぎていくディイノーカを見て、互いに顔を見合わせ、首をかしげていた。
ディイノーカは息を切らしながら、雪の上を走る。
「間に合うかな?」腕時計を見ながら、呟くディイノーカ。
「多分。大丈夫ですよ」アリゼルが他人事のように答える。
ディイノーカは街の中を走る、走る。彼女と初めて出会ったあの広場の凍った噴水に向かって。
「間に合った!」叫ぶディイノーカ。広場を見回すと、約束していた通り彼女が噴水の前に立っていた。
「ノバ! 待たせた!」ディイノーカが手を振りながら、ノバトゥナに近づいていく。
「どれだけ待たせる気? もう帰ろうかと思ってたわ」ディイノーカを蔑むような視線を送るノバトゥナ。
「ご、ごめん」ノバトゥナに睨まれ、縮こまってしまうディイノーカ。
眉間にシワを寄せていたノバトゥナが、申し訳無さそうにするディイノーカを見て、いきなり吹き出した。
「嘘よ。私も少し前に来た所」
ディイノーカは愕然とする。
「ひ、酷い……」
「私を待たせたのは確かなんだから、これくらいは当然よ」
二人は街のレストランで、ディナーの約束をしていた。リシュリオルの教育をさっさと切り上げたのはこの為だった。
ディイノーカとノバトゥナは同棲を続けている内に、親密な関係が築かれていた。自然な成り行きだったのだろう。二人は互いに惹かれ合っていた。
二人は隣同士で並び、同じ歩幅で歩いた。レストランの扉を扉を開ける前に、窓から店内の様子を覗いてみる。評判の良い店だと聞いていたが、店内にはあまり客がいないようだった。
ディイノーカが店の扉を静かに開ける。
「いらっしゃいませ」ウェイターが、窓際のテーブル席へと二人を案内する。
「当店のディナーはコース料理のみとなっております――」ウェイターが料理の説明を始める。
ディイノーカはウェイターの話を聞いているふりをしながら、彼とは違って、真剣に話を聞くノバトゥナを見ていた。テーブルに置かれたキャンドルに照らされる彼女の姿はいつもより艶やかに見えた。
ウェイターが説明を終え、テーブルから離れていく。ノバトゥナはディイノーカが気の抜けた顔をしているのを見て、言った。
「ちゃんと、説明を聞いてた?」
「全然」ディイノーカは首を振った。
「……説明の間、何を見てたの?」
「君のこと」
フッと笑うノバトゥナ。ディイノーカもつられて笑う。暫く、ただ二人の微笑みが交わされるだけの時間が続く。
「前菜をお持ちしました」ウェイターが料理の乗った皿をテーブルに置いていく。料理を並べ終えると、ウェイターは再び何処かに消える。
料理に手をつける二人。前菜を軽く平らげる。前菜を食べ終えた二人は、ほとんど会話は交わさなかった。ただ微笑みを返し合うだけ。でも、この時間はどこか心地が良かった。
次々と料理が運ばれてくる。料理を食べ終えたら、さっきのやり取り。これを繰り返している内、いつの間にかコースは終盤に入っており、デザートがテーブルに運ばれていた。デザートの後は温かいコーヒーを飲み、一息つく。
料理の味はよかったと思う、多分だが。正直な所、目の前のノバトゥナに気が散っていて、美味いのか不味いのか、よく分からなかった。彼女は時折、美味しいと呟いていたので、はずれでは無かったはず。
コーヒーを飲み干した後、会計を済ませ、二人は店を跡にした。
家路につく二人。外は雪が降っていた。新しく積もった雪に足跡を付けながら、並んで歩く二人。無言で歩く。時折、顔を見合わせる。『いつも』は二人で街を歩く時は、他愛のない会話をする。だが、今日はそんな『いつも』とは違う不思議な空気が漂っている気がした。
ノバトゥナの家に着く。家の中は薄暗かった。彼女が薪ストーブに火を付けると、揺れる炎が部屋の中を仄かに明るくする。ディイノーカは炎に照らされる彼女の姿をぼんやりと眺めていた。
そして、彼は不意に我に返る。返ってしまう。
ディイノーカは自分が異界渡りであり、いつまでも彼女とこの場所にいられないことを頭の中に浮かべていた。虚しい現実を考えてしまったことで、さっきまでの心地良い気分が落ち込んでいき、胸が強く締め付けられる。
「ディイ、どうしたの?」ディイノーカの様子を案じたのか、ノバトゥナが話し掛けてくる。
ディイノーカは暫く何かを考えるように黙っていたが、彼はノバトゥナに確実に訪れることになる別れについて話すことを決心した。
「ノバ。俺達はこのままでいいのかな? 俺は異界渡りで、君はこの世界の住人だ。いつになるかは分からないけど、別れの時が来てしまう」
「何が言いたいの? ディイ」
「俺が君と一緒にいることは辛い結果を生むだけだと言ってるんだ。だから、俺との距離をとった方が良い。俺と今以上に関係を深めることは避けるべきだ。君が苦しむことになる」
「あなたはそれでいいの? 私と一緒にいたくない?」
「一緒にいたいさ。でも、最後が辛くなる」
「……私は、あなたと別れることが決まっていても、悲しい結果が待っているとしても、最後まであなたといたい」
「ノバトゥナ……」
「お願い。今だけでいいの。私のそばにいて、……ディイノーカ」
「分かった。その時が来るまで、……俺は君のそばにいるよ。約束だ」ディイノーカはノバトゥナの身体を抱き寄せた。
「ありがとう、ディイ」ノバトゥナも彼の身体を強く抱き締める。
その日の夜。外の雪は強い吹雪に変わっていたが、寒さを感じることは無かった。薪ストーブの揺れる炎が彼女の首元を照らしているのが見えた。
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