雪の街の日々

 翌朝、ディイノーカはガズリウザと約束していた通り、聖堂へと赴いた。聖堂には相変わらず、巡回を繰り返す信徒の姿があった。

 扉の近くにいた信徒の一人が地下室に向かうディイノーカを見て、後ろから付いてきた。一人で地下室に入らせる気は無いらしい。


 階段を下りると、昨日と変わることのない、牢獄のような重苦しい鉄格子の扉が現れた。そして、部屋には本を読む少女が一人。これも昨日と変わらない。


「おはよう」ディイノーカは鉄格子越しに少女に声を掛ける。

「おはようございます」少女は冷たい表情で挨拶を返してきた。


「話は聞いているかもしれないが、今日から暫くの間、俺が君に精霊のことを教えることになった。よろしくな」

「よろしくお願いします。……最初は何をするのですか?」ディイノーカの言葉に機械的に受け答えをする少女。彼女の瞳からは、活力が感じられなかった。


「まず、君のことを何と呼ぶかを決めようと思う」

「……私は自分の名前を覚えていません」


「ああ、知ってるさ。俺だってできることなら、君の本当の名前を知りたい。でも、これから精霊のことを教えていく上で、名前が無いのは少し不便だろ? だから、君のことを呼ぶ名前が必要だと思ったんだ」

「そうですか」少女は無表情のまま相槌を打ちながら、ディイノーカの話を聞いていた。


「勿論、君が嫌ならいいんだ。無理強いはしないよ」

「い、いえ。そういうわけでは……」


「よし! なら早速、俺が考えた名前を言おう。『リシュリオル』と言うのは、どうかな? とある異界に伝わる神話の炎を司る女神様の名前から取ったんだ」


「ディイノーカにしては珍しく、まともな名前を思いついたではないですか」

 影から現れたアリゼルがディイノーカを茶化す。


「うるさい、お前は黙ってろ。……それで、どうかな? 『リシュリオル』というのは」

「……それで……いいです」少女は俯きながら答えた。前髪で隠れた顔は少しだけ赤らんでいた。


「良かった。じゃあ君は今日からリシュリオルだ。よろしく、リシュリオル」

「……はい。よろしくお願いします。ディイノーカさん」


 その後、ディイノーカはリシュリオルにアリゼルの力の説明をした。彼は実際に炎を手のひらに出してみたり、全身に纏わせたりして、精霊の力の扱い方をリシュリオルに教えた。


 リシュリオルは、ディイノーカの操る火をじっと見つめながら、彼の話を聞いていた。

 ディイノーカは彼女の冷たい表情を変えられるか不安だったが、目を輝かせながら、話を聞くリシュリオルを見て、その不安もすぐに解消された。


 アリゼルの力について説明した後は、実際にリシュリオルにアリゼルを取り憑かせて、炎の扱いを学ばせた。


 リシュリオルは飲み込みが早かった。ディイノーカはアリゼルに憑かれてから、炎を出すのに数週間を必要としたが、リシュリオルは初日で手のひらに炎を浮かべることができた。


 ディイノーカはリシュリオルの成長の速さに感心した。そして、同時に少しだけショックを受けていた。これが適性の差という奴なのだろうか。

 アリゼルが何か言いたげにこちらを見てきたが、ディイノーカは碌なことを言われないと思い、無視し続けた。


 地下室の天窓から差し込む光はいつの間にか茜色に染まりかけていた。

「リシュ、今日はもう終わりにしよう」ディイノーカがそう言うと、アリゼルは彼の元に戻った。

「次は……いつ会えますか?」リシュリオルが名残惜しそうに聞いた。


「明日はちょっと予定が入っているから、明後日に来るよ」

「わかりました」彼の返事を聞いて、リシュリオルは嬉しそうに微笑んだ。


 ディイノーカは鉄格子の扉から離れ、階段に足を置く。振り返ってみると、リシュリオルが彼に向かって小さく手を振っていた。彼は手を振り返しながら、階段を上がっていった。




 聖堂からの帰り道、街へ下るディイノーカ。

「やはり、あの地下室の結界は強固だ。何度か黒炎を出そうとしたが、結界に阻まれてうまく精霊の力を引き出せない。こうなったら……」

「異界渡りの力を使うのだったら、私は全力であなたのことを止めますよ」アリゼルがディイノーカに立ちはだかるように現れる。


「分かってるよ。力はいざという時にしか使わない」

「……そうして下さい」


 ディイノーカとアリゼルは無言でノバトゥナの家へと帰った。




 次の日、ディイノーカはノバトゥナの精霊の調査を手伝うため、彼女と共に雪原の奥地へと向かっていた。


「本当に便利ね。その炎は」ノバトゥナが雪を溶かしながら進むディイノーカの後ろ姿を見ながら話す。

「彼の唯一の取り柄ですからね」アリゼルがディイノーカを茶化す。

「うるさい」ディイノーカは眉をひそめながら振り返った。


「ノバが言ってた場所には、あとどれくらいで着くんだ?」

「もうすぐよ、森が見えるはずなんだけど……」


 突然、そよ風すら吹いていなかった雪原に突風が巻き起こった。ディイノーカは危険を察知し、ノバトゥナに姿勢を低くするように促す。


 一匹の白い狼が雪上を駆け抜け、こちらに向かってくる。ただの狼なら軽く炎を起こせば、すぐに逃げ去っていくだろう。だが、その白い狼の影からは、白いドレスを身に纏ったような姿の精霊が浮かび上がっていた。


「狼に憑いた精霊! アリゼル、彼女を頼む!」ディイノーカは炎を纏い、戦いの準備をする。

「了解です」アリゼルはノバトゥナの前に彼女をかばうように立つ。


 吠える狼の周囲に黒雲が湧き起こる。黒雲は強い光を放つと共にディイノーカに向かって突き進む稲妻を起こした。

 ディイノーカも負けじと、炎の壁を作り防御する。稲妻と炎の衝突が周囲の雪を蒸発させていく。


 狼は再び唸り声を上げながら、ディイノーカに向けて稲妻を連続で放つ。幾度となく放たれる稲妻にディイノーカは炎をぶつけ、その威力を相殺していく。


「何度やっても同じだ! ……俺の言葉は通じてないと思うけど」

「ディイ、足元を見てください」アリゼルが地面を指差す。


 ディイノーカの足元は溶けた雪で水たまりができていた。水は氷よりも電気を通しやすい。奴はこれを狙っていたのか。

 狼はディイノーカの足元へ稲妻を走らせた。


 ディイノーカは黒炎を足元に放ち、水浸しになった地面ごと削り取った。黒い炎が稲妻を掻き消す。 


 狼が懲りずに、再び雷雲を漂わせ始めたその時、狼に憑いていた精霊が口を開いた。

「白狼よ。止まれ」

 精霊が発した言葉によって、勇ましく吠えていた狼は急に大人しくなり、頭を垂れた。


「人間の男。お前に憑いている精霊の名は、アリゼル・レガだな」

「そうだ」威勢良く答えるディイノーカ。

「こんにちはー」続けて、アリゼルがふざけた調子で挨拶する。


「アリゼル・レガの宿主ということは、私達を害しに来た者では無さそうだ。……お前達、名は何と言う?」

「ディイノーカ」

「ノバトゥナ……です」


「ディイノーカ、ノバトゥナ、そして、アリゼル・レガ。前触れもなくお前達に襲い掛かったことについて、非礼を詫びよう。すまなかった」白い精霊が頭を下げた。


「……あ、あなたのお名前は?」ノバトゥナが恐る恐る精霊に聞く。

「バクルア・ゼナン。生まれてからずっと狼達に憑いてきた精霊だ」


 ノバトゥナは目を輝かせながら、バクルアの姿を凝視した。

「やっぱり、あなたが最近雪原の奥にある森に現れた狼の群れに取り憑く精霊なのね」

「ああ、そうだ。元々は森の奥にある山岳地帯に住んでいたが」


「元々? さっきの突然の攻撃といい、聞きたいことが山程あるんだが」ディイノーカが怪訝そうにバクルアに聞いた。


「話してもいいが、こんな雪原の真ん中では寒かろう。近くに狼達の住処の洞窟がある。そこで話そう」


「そうさせてもらうよ。……狼は少し怖いけど」ディイノーカは白い狼を不安そうに見る。

「かわいいじゃない」ノバトゥナは笑いながら、白い狼に触れる。狼も返事をするようにノバトゥナの指を舐めた。

「そ、そうかな?」ディイノーカも彼女に続き、白い狼に触れようとする。しかし、狼は唸り声を上げて、ディイノーカを威嚇した。


「くそぉ。やっぱり俺って動物に嫌われやすいんだ」ディイノーカは狼から慌てて退いた。

「ははは。私が近くにいて、ここまで嫌われる者も珍しい」バクルアは笑いながら、狼達の住処へとディイノーカ達を案内した。


 


 洞窟には、十頭程の狼が眠ったり、じゃれついていた。洞窟は浅く広い構造になっていたので、吹き抜ける風も無く、バクルアが言っていた通り、雪原にいるよりは暖かかった。


 ディイノーカはどの狼にも警戒された。アリゼルは彼が狼達に吠えられる度、馬鹿にするように笑っていた。


 バクルアが稲妻で焚き火を起こす。薄暗い洞窟内が炎で明るく照らされる。焚き火の周りに、狼達が集まってくる。身体を温めるためだろうか。


「さて、何から話そうか?」狼達を見ていたバクルアが視線をディイノーカ達に向ける。

「それじゃあ、俺達をいきなり襲ってきた理由を教えてくれ」


「それは……『刺客』の一人だと思ったのだ」

「『刺客』?」


「先程、私達は森の奥の山岳地帯に住んでいたと言っただろう? 本当は逃げてきたのだ。氷の竜に追われてな」

「氷の竜……」ディイノーカは雪原で出会ったラトーディシャの姿を思い浮かべた。


「奴は、私達の住んでいた場所にいきなり現れた。その時は人間の姿をしていた。そして、奴は言った。『ゲームをしよう』と」

 バクルアは明らかに怒りを抑えている様子だった。身体を震わせるバクルアの周囲には、小さな火花が光を放ち、パチパチと音を鳴らしていた。

 そして、バクルアは一息ついてから、氷の竜との凄惨な戦いの記憶を語った。




 氷の竜が現れてから、始まったのは一方的な殺戮だった。竜は山や森に住んでいた獣の死骸を操り『刺客』として、狼達にけしかけた。

 狼達も最初はバクルアの精霊の力によって善戦していたが、幾度と無く向かってくる『刺客』の襲撃によって疲弊し、多くの同胞の命が失われていった。


 氷の竜は残虐な戦略で狼達をいたぶった。その最たるものが、同胞の亡骸を操り、狼の群れの中に、まるで生きているかのように『刺客』として潜ませるというものだった。氷の竜は狼達が一箇所に集まった瞬間を狙い、その亡骸を『破裂』させた。死骸の中には大量の骨が詰められており、手榴弾のように飛び散ったその破片は、狼達の体だけでなく、心にも深い傷を負わせた。


 狼の群れは疑心暗鬼に陥っていく。最早誰が敵で味方なのか、分からなくなっていた。群れの結束が壊れかけていたその時、氷の竜が再び狼達の前に現れ、たった一言だけ言い残して、何処かに消えた。


「もう飽きた」と。


 バクルアはこの言葉に安堵した。もう奴の襲撃から逃げ回る必要は無いのだと。だが、それは大きな勘違いだった。数日後、山岳地帯に巨大な氷塊が現れ、その周囲をとてつもない速度で凍結させていった。


 迫りくる冷気を避ける為、バクルアは狼達を先導し、森へと下った。


 バクルアは山で起きたことを語り終えた後、ディイノーカ達を襲った理由を再び答えた。

「お前達に襲い掛かったのは、竜が送り出した『刺客』かもしれないと思ったからだ」

「酷い話ね……」ノバトゥナが悲しそうに焚き火に集う狼達を見た。


「アリゼル。バクルア達を襲った竜というのは、きっとラトーの兄貴じゃないか?」

「そうでしょうね。話に聞いていた通りのサディストだ」


「その氷の竜は今、何処にいるんだ?」

「分からない。既に私達がいた山からは移動しているだろう。だが、氷の竜の侵略の噂は何度も聞いている。まだ奴の破壊衝動は収まってはいないらしい」


「俺が最初に辿り着いた街も氷の竜が侵略した……」ディイノーカは全てが凍りついてしまった街の光景を思い出す。


「奴は命ある所に現れ、その全てを滅ぼそうとする。お前達も気を付けた方が良い」

 バクルアは厳かな声色で忠告を告げた後、狼達と共にディイノーカ達を見送ってくれた。


 街までの帰路、ディイノーカは雪原の彼方を見ながら呟く。

「氷の竜は、命ある所に現れる……」

「いつか、出会うことになりそうですね」アリゼルがディイノーカの頭の中に浮かんでいた悪い予感を口にする。

「ここまで関わりたくない相手は、なかなかいないよ」


 打ち付ける風の冷たさとは異なる悪寒がディイノーカの身を震えさせた。


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