第四章:灰色の雪の思い出

思い出す

 ここはどこかの世界、どこかの街。辿り着いたのは丘の上に建てられた聖堂。開かれた大扉からは氷雪に塗れた世界が拡がる。冷たい雪の向こうに街が見える。


 ここはどこかの世界、どこかの街。精霊は思い起こす。この地を救おうとした英雄の名を。彼と共にこの世界で過ごした日々を。




 闘技場の異界から、次に辿り着いた場所は大理石で建てられた大きな聖堂だった。だが、その聖堂は著しく古びており、そこら中に埃が積もっていた。長い間、この聖堂に出入りする人間はいなかったようだ。外へ出る扉も開け放たれたままで、冷たい風が室内に吹き込んでくる。


 リシュリオルがきょろきょろと辺りを見回している。

「ここは……」

「どうした?」ラフーリオンがリシュリオルの様子を見て、声を掛ける。


「ここは私がいた世界だ」リシュリオルは聖堂の天井に描かれた精霊達が舞い踊っている絵を見て、言った。

「そして、僕がいた世界でもある」ラトーディシャが続けて話し、ふいに足を動かし始める。


 ラトーディシャは聖堂の大きな扉に向かって走り出し、外に出た。ラフーリオンは簡易的な防寒着を編み、全員に渡した後、ラトーディシャの後を追い、聖堂の外へ出る。


 聖堂の外は一面が雪で覆われていた。周囲を見渡すと、聖堂は小高い丘の上に建てられていることが分かった。


 聖堂の壁に沿って、膝まで積もった雪の上を歩きながら、眼下の景色を見下ろす。

 途中で街が見えた。そして、街から少し離れた場所に異様な大きさの氷の塊が佇んでいる。


「アドラウシュナ……」ラトーディシャの声は怒りで震えていた。


「あのでかい氷の塊はなんなんだ?」ゼールベルが指差しながら叫んだ。

 先行して歩いていたラトーディシャが振り向く。

「前に話したことがあっただろう。あれが僕の兄貴さ」

「……お兄さん?」リアノイエが不思議そうにラトーディシャの顔を見る。

「確か、君にも話したと思う。僕の目的だ。僕が倒さなくてはならない奴だ」


 ラトーディシャの言葉に一行は黙り込んでしまう。身体を打ち付ける風雪が次第に強くなっていた。雪煙が視界を遮る。ラトーディシャはそれでも、巨大な氷の塊をじっと見つめ続けていた。ラフーリオンはそんなラトーディシャの様子を見かねて、大きな声で提案をした。


「あの氷に近づくにしても、今からじゃ無理だろう。一度、街に下りて準備を整えよう」ラフーリオンはできるだけ必死そうに訴えた。ここからだと、あの氷の塊に近づく前に凍え死んでしまう。


 ラトーディシャは険しい表情を和らげて、言った。

「そうだね。君の言うとおりだ。吹雪が強くなる前に、街へ降りよう」


 ラフーリオンはほっとしたようにため息を吐いた。一息ついて、全員の顔を確認する。リシュリオルはぼんやりと丘の上からの景色を見ている。


「行くぞ、リシュリオル」ラフーリオンの呼びかけにハッとするリシュリオル。何かに気を取られているようだった。

「分かった」


 一行は街に下りるため、丘の上の聖堂を後にした。最後尾を歩くリシュリオルはアリゼルと、この雪の世界のことを話していた。


「色々と思い出しますね」アリゼルが聞く。

「ああ。嫌でも思い出す。気分が悪い」リシュリオルは眉をひそめている。


「私も思い出しますよ。『彼』のこととかね」呟いて、アリゼルは影の中に消えた。

「『先生』……」リシュリオルは降りしきる雪の向こうに見える仲間達の背中を追って、歩いた。


(ディイ。戻ってきましたよ。彼女と一緒に)アリゼルはリシュリオルの影の中、雪の世界で『彼』と過ごした日々を懐う。




 遠くもなく、近くもない過去。一人の男が雪の世界に足を踏み入れた。


 男の名は『ディイノーカ』と言った。アリゼルはリシュリオルに取り憑く前、この軍服を身に纏った男と共に異界を渡っていた。


「今度は雪の中か。……寒いのは暑いのより嫌いなんだよなぁ」ディイノーカが前の異界の扉を閉めながら、ぼやく。

「この前は、暑いよりは寒いほうがいいとか言ってませんでした?」ディイノーカの影からアリゼルが現れる。


「この真っ白い景色を見て、気が変わった」ディイノーカは白い息を吐きながら、辺りを見回す。

「この街は、何もかもが凍っているのか?」街の様子を見て、顔をしかめるディイノーカ。


 ディイノーカが異界の扉を抜けた先には、道に沿って規則正しく並ぶ家屋があった。レンガ造りの丈夫そうな教会があった。楽しそうに並んで歩く若い男女がいた。公園で遊ぶ親子がいた。


 だが、その全てが氷の中に閉じ込められており、凍りついている。この街の時はいつから止まっているのだろう。動いているのは自分達と降り止まぬ雪だけだった。


「取り敢えず、街の中を調べてみよう」ディイノーカはその場から歩き出した。

 街の探索を続けていると、アリゼルが何かに気付き、指差す。

「ディイ。全てが凍っていると思いましたが、まだ、冷え切っていないものがあるようです」


 アリゼルの指差した先には小高い丘があった。丘の上には石造りの建物が立っており、外壁には松明の明かりが灯っていた。


「よくやったアリゼル。早速あそこに行ってみるか」ディイノーカは丘に向かって足を進めた。


 街中をしばらく歩いていると整然と並んでいた家屋の列が途切れ、広大な雪原が現れた。だが、雪原の向こうにもう一つの街が見えた。点々と明かりが見える。


「別の街があったのか」ディイノーカは丘ではなく、新しく現れた街に向かって歩き出した。


 雪原に積もる雪は深く、膝の上まで積もっていた。一歩進む度、雪に足を取られるため、数メートル進むだけでも、かなりの時間が掛かった。このままでは向こうの街に辿り着く前に凍死してしまう。


「アリゼル、やるぞ」ディイノーカの髪が伸び、赤く染まる。

「どうぞ、ご自由に」アリゼルが軽く会釈する。


 ディイノーカが右手を振り上げると、一筋の赤い炎が雪原の上を走り始めた。炎は雪を溶かしながら、雪原の先にある街へと向かっていく。雪原の下に埋もれていた土が顕になる。これで、街に向かう一本道ができた。


「これで、炎の通った跡を歩くだけになったな」得意げに話すディイノーカ。

「急がないと、また雪が積もってしまいますよ」アリゼルはディイノーカを見下ろしながら笑った。


「お前は良いよな、浮いてるから歩く必要が無い」ディイノーカは羨ましそうに雪原の上に浮かぶアリゼルを見て、足を動かすスピードを速めた。




 雪原を越えて、街に辿り着いたディイノーカを待っていたのは、彼を取り囲む街の住民と住民達から送られる称賛の声だった。だが、その声はディイノーカではなく、彼の背後に立つアリゼルに対してのものだった。


「あの炎はやはりアリゼル様の物だったのか」

「アリゼル様が遂にこの地に」

「黒炎の大精霊をこの目で見ることができるなんて」

 街の人々は口々にアリゼルを称える声を上げる。


「大人気じゃないか、アリゼル」

「こんな辺鄙な場所でも、私の名を知る者がいるのですね」どうでもよさそうに呟くアリゼル。


 一人の男が、緊迫した表情でディイノーカに近付いてくる。


「アリゼル様、そして、宿主の方。どうか我らをお救い下さい」男は手の平を合わせて、祈るようにディイノーカの前に跪いた。

「何かあったのか?」ディイノーカが尋ねる。


「この街からやや離れた場所に氷の竜が現れたのです。竜は夜になると、大きな声で吠え、街の人々を脅かしているのです」男は身体を震わせていた。


「氷の竜か。……アリゼル、いいかな?」

「何を言ってもあなたは聞かないじゃないですか。……仕方がない」

「よし、明日その場所に行ってみよう」

「ありがとうございます。宿はこちらで用意させて頂きます。どうぞこちらへ」ディイノーカを案内しようとする男。


「あー。気遣いは嬉しいけど、宿は自分で探すよ。寝泊まりする場所を探すのが好きなんだ」ディイノーカの言葉を聞いて、男は大きく目を見開いた。

「……そうですか。では、この街の宿を印した地図を渡しておきます」ディイノーカは男の手から地図を受け取る。

「ありがとう」


 ディイノーカを取り囲んでいた街の住民達は、何も言わずに冷めた顔でそそくさとその場を去っていった。


「なんだか気色が悪いな、この街は」ディイノーカが呟く。

「そうですね」アリゼルも頷いた。


 ディイノーカは地図に印されていた宿をそれぞれ見て回ったが、何処となく薄気味悪さを感じた為、地図に載っていない宿がないか、街を探し回った。しかし、散々街中を歩き回ったが、それらしい場所は無かった。いつの間にか辺りは暗くなっている。


 街の広場にある凍りついた噴水の近くで途方に暮れていると、活発そうな女性が明るい笑顔で話し掛けてきた。


「こんばんは。こんな寒い中、何してるの?」

「俺は異界渡りなんだけど、今日の夜を過ごす素晴らしい宿が見つからないんだ。綺麗なベッドと美味い食事。それから、一人で静かに過ごせる場所がある宿。この街の何処かにそんな所はあるかな?」ディイノーカはぐったりと俯き、雪にまみれた靴を見ていた。


「素晴らしい宿か~。この街には無いかもね。何処の宿も精霊信仰とやらの教えを延々と語り続けるからね。頭が痛くなるよ」呆れたように笑う女性。

「やっぱりそういうことなのか。何処の宿もなんだか薄気味悪いと思っていたよ。でも、何処かに泊まらないと、このままじゃ凍死しちまう」ぶるぶると震えるディイノーカ。


 アリゼルがディイノーカの影から突如として現れる。

「馬鹿な人だ。ずっと宿に泊まるわけでもないのに、少しは我慢を覚えたほうが良い」


「あなたは『精霊憑き』なの?」ディイノーカの影から現れたアリゼルを見て、驚く女性。

「そうだ。こいつはアリゼル・レガ。この街では有名なんだろ?」


「アリゼル・レガですって? 有名も何も、この街の信仰の対象よ」

「アリゼルってそんなに凄いのか」とぼけた顔でアリゼルを見るディイノーカ。


「そりゃあ凄いわよ。何せ太陽の国の精霊だもの。原初の異界渡りに憑いた精霊よ! 異界中の竜を倒して回った!」息を荒げて話す女性。

「ふーん。よく分からないが、お前のことをそんなに凄いと思ったこと無いな」興味が無さそうにアリゼルを見るディイノーカ。


「ディイは私の力の適性がほ~んの少しあるだけですからね。私が取り憑いた数多くの宿主の中でも、きっと最弱ですよ」

「くそぉ。言い返したいが、何も言えん」悔しそうに唸るディイノーカ。


「それでも、凄いわよ。アリゼル・レガの宿主は一つの異界に一人しかいないと言われているもの」

「結構、すごいじゃん。俺」鼻を鳴らすディイノーカ。

「凄いのは私ですよ」


「あなた達、さっき宿が見つからないって言ってたわよね。良かったら私の家に来ない? ベッドは多分綺麗だし、食事は私が腕を振るうわ。街の外れに近いからとっても静かだし」

「いいのか!」ディイノーカの表情が喜びに変わる。


「ええ。でも、その代わりあなた達のことをもっと教えて!」

「それぐらいお安い御用さ。綺麗なベッドと美味い食事。それから、一人で静かに過ごせる場所があるならね」


「私の名前は『ノバトゥナ』。ノバって呼んで」

「俺は『ディイノーカ』。ディイでいいよ」


 二人は握手を交わした後、ノバトゥナの家に向かった。彼女の作る料理は可もなく不可もなく、という感じだった。だが、ベッドは確かに綺麗だったし、煌めく雪が舞う星空を見る夜はとても静かで、心が落ち着いた。

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