最愛の人へ。今を大切に。
倉庫の近くのバス停でバスが来るのを待っている時、ラフーリオンがリシュリオルに急に質問をしてきた。
「昨日、お前がアルフェルネさんと地図を買った場所はどこだ?」
「商店街の地図屋」
「そうか、確認したいことがあるから、寄っていこう」二人は商店街の地図屋に赴いた後、ホテルに戻った。
「おかえりなさい。成果はありましたか?」玄関でアルフェルネが二人の帰りを迎えてくれた。
「はい。ただ、それを説明する前にベルフリスさんに渡しておきたい物があります」
「分かりました。今は書斎の方にいると思います。呼んできましょうか?」
「いえ、こちらから直接行くので大丈夫です。リシュは食堂の方で待っていてくれ」
「分かった。アルフェルネ、夕食はできてるか? お腹が空いた」
「できていますよ」
「なら、リシュと一緒に先に夕食を食べていて下さい」ラフーリオンはそう言って、書斎へと向かった。
ラフーリオンが書斎の扉を開くと、ベルフリスが椅子に座って地図を眺めていた。
「やあ、おかえり。鍵は見つかったかい?」
「はい、見つかりました。……ですが、これはベルフリスさんに先に見てもらいたくて」ラフーリオンが肩にかけていた鞄から印の部屋で見つけた箱を取り出し、ベルフリスに手渡した。
「なんだい、これは?」箱をまじまじと見つめるベルフリス。
「文字が書いてある筈です。読んでみてください」
「確かに書いてある。……『私の最愛の人、ベルフリスへ』」ベルフリスはその文字を口にした後、言葉を失った。
「倉庫からホテルに戻る前に、印の地図が置いてあった地図屋に行ってきました。地図の出所を詳しく聞くために。昨日の工事はベルフリスさん達が住んでいたアパートの周辺も工事の範囲に入っていた。工事の際に偶然あの箱を見つけて、工員の誰かが地図屋に持ち込んだようです」
「そうだったのか。アパートを引き払ったのは大改修の最中だったから、運び出せなかった物がいくつかあった。その中にあの地図があったんだろう……」
ベルフリスは再び口を閉じる。ラフーリオンは何も言わずに、書斎のドアへ向かう。扉を開けた後、ベルフリスの方へと振り向き、「失礼します」と一言だけ告げて扉を閉めた。
ラフーリオンが書斎から出ていった後、ベルフリスは箱を机の上に置き、じっと眺め始める。定期的に箱を眺めるのをやめて、本棚を整理したり、窓越しに外の景色を見たり、眼の前の箱から気をそらそうとした。だが、当たり前のように箱が消えることはなく、そこにそれは存在していた。箱を開けるのを躊躇っていると、書斎の扉が開く音がする。
「父さん、まだ起きてるの?」アルフェルネが心配そうな様子で部屋に入ってきた。
「ああ、もうそんな時間か。ちょっと用事を済ませたら、すぐに寝るよ」ベルフリスが壁に掛けてある時計を見ると、既に日付が変わっていた。
「あんまり夜更かしはしないでね。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」アルフェルネはあくびをしながら、書斎を出ていった。
ベルフリスは壁に掛けられた時計をじっと見つめ現在の時刻を確認した後、大きく深呼吸をして箱を開けた。箱の中には手紙が入っていた。
『私の最愛の人、ベルフリスへ
あなたがこの手紙を読んでいる時、私はあなたのそばにはいないと思います。だから、私が何処かに消えてしまう前にゲームを一つ用意してみました。
手伝ってくれた妹にはこんな時に何をしているんだと怒られてしまいましたが、私の強情さに負けて、妹は快くこのゲームの手伝いをしてくれました。彼女には感謝しなくてはいけませんね。
この手紙を読んでいるということはゲームはクリアしたということだと思います。あなたには簡単すぎたかもしれません。でもこのゲームは、難しい難問を作ろうとしたわけではなく、あなたの心を元気にしたくて考えたものです。
私は、私の病が重くなるたびにあなたの顔が暗くなっていくのが辛いです。私のことであなたが苦しむ姿を見るのは辛いです。このゲームであなたの心が少しでも安らいでくれることを願います。
手紙を隠した部屋の事、あなたは覚えていますか? 私は今でもよく覚えています。私が初めて誰かに食事に誘われた部屋。私が初めてプロポーズされた部屋。私が初めて本当に愛することができる人と出会った部屋。どれもこれもあなたがくれた思い出です。
昔のことを思い出しながら手紙を書いていると、どんどんあなたから離れることを拒む気持ちが強くなります。でも、この体を自由に動かせるようになることはありません。この病が治ることはありません。私がこの世界から消えることは変わらないのでしょう。
私が消えた後、私の事で悔やんだりしないで下さい。でも、どうかアルフェルネのことは元気な子に育ててあげて下さい。私のぶんまで幸せにしてあげて下さい。私の最後のわがままです。お願いします。
誰かに手紙を書くのは初めてで、あなたに私の気持ちが伝わるか心配です。だから、最後に一言、私の心の底から思っていること、伝えたかったことを記しておきます。
あなたに出会えて私は幸せでした。』
ベルフリスは手紙を読み終えた後、手紙をデスクの引き出しに入れて鍵をかけた。そして、空を見上げるように天井を見つめた後、目を閉じる。彼以外、ホテルに居る人間は皆、既に眠りについている。
書斎には彼の呼吸の音だけが聞こえるだけだった。
次の日。太陽は何事もなかったように昇り始めた。早朝に目を覚ましたラフーリオンはカフェテラスに行き、適当な席に座り、煙草に火を着けようとした。だが、扉が開く音がしたので煙草を懐にしまう。音のする方へ振り向くと、ベルフリスが立っていた。
「おはよう。今日も早いね」
「おはようございます。あまり寝付けなかったもので」
「僕も昨晩は全然眠れなかったよ」ベルフリスの目元には隈がついていた。
「そのようですね。……あの箱には何が入っていましたか?」
「彼女からの手紙が入っていた。ラフ君にはお礼を言わないといけないな。君がいなければ、この手紙が私のもとに来ることはなかっただろう」
「いえ、俺もベルフリスさんにはお世話になっていますから。この世界に来た時、無一文の俺を助けてくれたのはあなたです」
「当然のことをしたまでさ。困っている人がいたら、助け合うのが人間だろ?」
「なら、俺も当然のことをしただけですね。今回は鍵を探す異界渡りとしてですが」ラフーリオンがニヤリと笑う。
「そうだな。そういうことにしておこう」ベルフリスもつられて微笑んだ。
「それじゃあ、皆の朝食の準備でもしてくるよ」ベルフリスは宿泊客とラフーリオン達の朝食を作りに厨房へと向かった。
朝食ができるまで、ラフーリオンはテラスで一服することにした。ラフーリオンが空に向かって煙を吐いていると、遠くに何かの気配を感じとった。
(異界の扉が開いた。もっと長くここにいたかったが、あの場所へ行かなくては。この世界とはこれでお別れだ)ラフーリオン達のこの世界での異界の扉の鍵探しが終わった。
朝食ができたので、ラフーリオンはリシュリオルを寝室まで起こしに行く。リシュリオルは相変わらず、寝起きが悪くなかなかベッドから降りようとしなかった。寝ぼけているリシュリオルを見て、ラフーリオンは彼女が異界の扉の気配を感じていないのではないかと思い心の中で喜んだが、すぐにその思いは消え失せた。
「次の扉が開いた」彼女もまた、次の異界の扉が開いたことに気付いていた。
「ああ、お前も気付いてたか」ラフーリオンはがっかりした様子でため息をつく。
「…………直ぐにこの世界を出るのか?」その質問をする時のリシュリオルの表情は曇っていた。だが、ラフーリオンは彼女の様子には気にも止めず、即答する。
「ああ、直ぐに次の異界に向かう。多分、お前と同じ扉をまた通ることになるだろうな」
「本当ですか? ラフーリオンさんとまた異界を渡ることができそうで嬉しいです」急に現れたアリゼルがわざとらしく笑った。
「はは、俺も嬉しいよ」アリゼルの笑い声を聞いて、苦笑いするラフーリオン。
「さあ、朝食の準備はできているみたいだ。食堂に行くぞ」
「……ああ」いつもより威勢のないリシュリオルを連れて、ラフーリオンは食堂に向かった。
「おはようございます。他の宿泊客の方はもう食事を終えていますよ」アルフェルネが食堂の扉の前に立っていた。
「おはよう、アルフェルネ。いい匂いだな」
「おはよう、リシュ。さあ、席について」アルフェルネがリシュリオルの為に椅子を引く。
朝食は数種類のパン、スープ、サラダが並べられていた。ラフーリオンとリシュリオルはそれをさっさと平らげる。二人が食事を終えて、一息ついているとベルフリスが食堂に現れた。ラフーリオンはベルフリスと朝食の片付けをしていたアルフェルネを引き止め、次の異界の扉が現れたことを伝えた。
「そうか、もう次の異界へ出発するんだね」
「はい。今回もお世話になりました」ラフーリオンが会釈をする。
「どういたしまして。それで、扉の場所はどこにあるんだい?」
「多分、塔の方だ」リシュリオルが急に口を開く。
「塔?」首をかしげるラフーリオンとベルフリス。
「一昨日、アルフェルネと一緒に行った砂漠の近くにある塔の方に扉の気配を感じる」塔が立っている方へ指をさすリシュリオル。
「ああ、あそこか。なんなら娘に車で送らせよう。いいかな? アルフェルネ」
「ええ、もちろん」アルフェルネが笑顔で頷く。
「いいんですか? 忙しくはないですか?」
「大丈夫だよ。今日の宿泊客の数なら、僕一人でも対応できるさ」自信満々に笑うベルフリス。
「ほら、父さんもこう言っていますし、早速塔の方へ行ってみましょう。支度をして下さい」
アルフェルネはラフーリオン達に無理やり出発の準備をさせて、車に乗り込ませた。ベルフリスが助手席に座るラフーリオンに窓越しに声を掛ける。
「久しぶりに君に会えてよかった。またこの世界に来たときは遠慮なくうちに来てくれ。特上の酒を用意して待っているよ」そう言って、手を差し出すベルフリス。
「ありがとうございます。その時を楽しみにしています」ラフーリオンはベルフリスの差し出した手に握手で返した。
「あと、リシュ。君にも昨日のことは感謝しなくてはいけないね。ありがとう」今度は後部座席の窓へと手を伸ばすベルフリス。
「私には特上の料理を用意しておいてくれ」ラフーリオンと同じようにリシュリオルもベルフリスの手を握り返した。
「善処するよ。アリゼルさんにもよろしくと伝えておいてくれ」
「どうもどうも」アリゼルがリシュリオルの影から顔だけをぬっと出して現れた。
ベルフリスは驚きで、びくっと体を震わせた。その後、無理やり作った笑顔でアリゼルに驚いた事を何事も無かったように誤魔化した。ラフーリオンはベルフリスのそんな様子を見て笑みをこぼす。
「……そ、それじゃあ、アルフェルネ。二人……いや三人をよろしく頼むよ」
「はい」アルフェルネの返事の後、エンジン音が鳴り響く。そして、扉の気配、塔のある方角に向かって、車が動き出した。
車は三人が天気や街の様子を話題に他愛のない会話を続けているうちに、あっという間に塔の近くまで着いてしまった。塔の前には相変わらず観光客がそこかしこにたむろしていた。
「扉は塔の上にあるみたいです」ラフーリオンが塔を見上げながら言う。
「ああ、ずっと上の方だ」リシュリオルも塔を見上げる。
「それでは、エレベーターを使って上まで行きましょう」アルフェルネが先行してエレベーターの中に入っていった。ラフーリオンとリシュリオルもそれに続く。
エレベーターの中にはラフーリオン達以外の人は居なかった。エレベーターが動き出してから数分間、誰も口を開かなかった。
「もうすぐお別れですね」アルフェルネが切り出す。彼女の表情はどこか寂しそうだった。
「いつかまた会えますよ」ラフーリオンはそれに対して、少し素っ気なく言う。ラフーリオンが目線をリシュリオルに合わせる。彼女はラフーリオンに怒りの表情を向けていた。
「本当にまた会えるのか? いつかって、いつだよ。同じ世界に何度も行くことなんて、そう多くないんだろ? ラフーリオン、お前がこの前に言っていたんだぞ!」リシュリオルが泣きそうな声で叫んだ。突然のリシュリオルの激昂にラフーリオンとアルフェルネは驚く。
ラフーリオンはリシュリオルに近付き、彼女の前に屈み込んだ。
「俺みたいに長く異界渡りをやっていれば、今回のように前に来たことのある世界に行き着くこともあるさ」ラフーリオンがリシュリオルを慰めるように話しかける。
「だけど――」すすり泣くリシュリオル。
「リシュ、また会えますよ」リシュリオルの傍に歩み寄るアルフェルネ。
「きっと会えるから」アルフェルネはリシュリオルを抱きしめて、優しく耳元で囁いた。
「…………分かった」リシュリオルはアルフェルネの抱擁によって、少しだけ落ち着きを取り戻した。二人のやり取りを見て、ラフーリオンは心の中で呟く。
(そうだ、また会えるんだよリシュ。俺達の時間は無限だから。永遠に生き続けることができるから……。だけど、俺達以外の時間は……あいつは……)
ラフーリオンは腕に爪を食い込ませ、肉体的な痛みによって浮かび上がってくる記憶の影を掻き消そうとした。
いつの間にか、エレベーターは展望室の間近まで階数を上げていた。
「扉の気配がかなり近づいてきたな」ラフーリオンがエレベーターの天井へ視線を向ける。
「お二人に渡しておくものがあります。ここの所バタバタしていて、渡すのを忘れるところでした」アルフェルネが鞄の中を漁り始めた。
「何ですか?」ラフーリオンが尋ねる。
「これです。リシュは知ってると思うけど」アルフェルネは一冊の本を鞄から取り出して、ラフーリオンに見せる。
「『教育者に必要な八百万の秘訣』八百万は多いですね……。普通は十個くらいじゃないですか?」本の題名を読み上げた後、苦笑するラフーリオン。
「私の行きつけの本屋さんを信じて下さい。きっと役に立ちますよ」アルフェルネの笑顔は自身に満ち溢れていた。
「リシュにはこれを」アルフェルネはもう一冊、本を鞄から取り出してリシュリオルに渡した。
「『砂の街ができるまで』。ありがとう、アルフェルネ。本当にありがとう」リシュリオルの目元は真っ赤になっていた。
ポーン。エレベーターのスピーカーから音が鳴り響く。扉が開き始めると、その先にはこの世界とは別の世界、異界の景色が広がっていた。
「このエレベーターの扉が異界の扉だったのか」ラフーリオンは扉の先を凝視する。
「私、初めて異界の扉を見ました」アルフェルネは突然現れた異界の景色に驚いていた。
「では、これで。ベルフリスさんにもよろしく伝えて下さい」ラフーリオンは扉の先に足を進めた。
「分かりました。どうかお気を付けて」
「リシュ、どうした? 早く来い」ラフーリオンが手を差し出す。
「やっぱり嫌だ。……そうだ! アルフェルネも一緒に行こう!」リシュリオルはアルフェルネの右手を掴んで扉の先へ引っ張る。アルフェルネはリシュリオルの前にしゃがみ込み、左手を彼女の頬に当て、優しく話しかける。
「私は異界の扉を通る事ができないの。扉は人を選ぶから。それに扉を通れたとしても父さんをこの世界に一人で置いては行けないわ。……リシュ、よく聞いて。私はここの展望室で、いつかは砂漠もこの街も消えてしまうと言ったでしょう? 今を大切にって。あなたが今やらなければいけないことは異界渡りとして一人で生きる力を身に付けること。ラフーリオンさんからそれを学ぶの。あなたがいつか一人前の異界渡りになったら、またこの世界に来れるわ」真剣な眼差しでリシュリオルを見つめるアルフェルネ。
「今を大切に……今を」リシュリオルはまた泣きそうになっていた。アルフェルネは先程と同じようにリシュリオルを抱きしめる。
「すぐに一人前になる。そうしたら、すぐこの世界に来るから」リシュリオルはアルフェルネから離れ、ラフーリオンのもとへと歩き出した。
「リシュ、ラフーリオンさん。さようなら、またいつか会いましょう」アルフェルネは手を振って、二人に別れを告げた。
「どうか、お元気で」一礼するラフーリオン。
「さよなら、アルフェルネ」リシュリオルは手を振り返す。そして、エレベーターの扉はゆっくりと閉じていった。
アルフェルネは閉まりきったエレベーターの扉を開閉ボタンを押して、もう一度開け直した。そこには先程見た異界の景色は無く、ガラス張りの展望室があった。彼女はエレベーターから抜け出して、窓越しに街の様子を眺め始める。
「今を大切に。頑張ってね、リシュ」ふとそんな言葉を呟いた後、アルフェルネはエレベーターに戻り、塔を降りた。
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