あ・べる

安良巻祐介

 

 家の片隅に、色の違う二つの泥の塊が横たわっていて、それがどうやら俺たちの両親らしいのだけれども、今一つ実感が湧かない。何せ、まともに喋ったこともないのだから、ただの泥にしか思えないのだ。そして、俺たちと言うからには、この家には俺以外にもあの泥から生まれた兄弟がいる。いや、正確には、いた、と言うべきか。何しろ、そいつは俺が殺してしまったのだから。それは人の貌に羊の身体をして、かすかな笑みを口元へ浮かべた貌がよく出来ていて、俺はてっきり喋れるものだと思って長い間あれこれと喋りかけていたが、どうもそれは人間の形をしているだけで、中身はそこいらの野の獣と大差ないらしかった。そうと知ってがっかりしたものの、一応兄弟だからということで、俺は一緒に原へ出て犂を使いながら、そいつが草を食むのを助けてやったりしたが、そうしていると或る時急に空が割れて、真っ直ぐな光が雲間から差し、我が人羊の兄弟の上へ降って、その肉を焼いた。香ばしい、よい香りがしたかと思うと、彼の身体は見えない手によって切り分けられ、上等なステーキになって天へ昇って行った。あっという間の出来事であった。俺の足元には、獣の部分を失い、うすら笑いを浮かべた人間の貌だけが遺された。しかし、俺にはそれが前よりいっそう獣じみて見え、また、それ以上に、懸命に俺の耕していた畑には全く関心を示さず、呑気にしていた兄弟の身体だけを召し上げて行った何者かに激しい怒りを覚えた。そして俺は、転がっている弟の貌を原っぱの真ん中へ持って行くと、火の中へ放り込んだ。これでまたいい匂いがしてきたら癪だなと持って警戒していたけれども、漂ってきたのはひどく鼻を突く、焦げ始めた死骸の脂の匂いだった。俺は救われたような、救われないような変な気持ちになって、そうして気付いた。この貌は、俺にとっては鏡だったのかもしれないと。あのまま辛抱強く付き合っていれば、自分の貌、自分以外の人の貌も、これを覗きこむことで初めて知る事が出来たのかもしれない。しかし今、もはや永遠にそれは犠牲にされた。俺の手で、清いだけの灰の山にしてしまった。俺は身体の中が空っぽになったような気持ちで、どこへとも知れずぼんやり歩きだした。ただ一つはっきりしていることは、あの、泥の溜まった奇妙な家とは、これで永遠に訣別するということだ。俺は振り返らずに歩き続けた。風が俺の背後から教える。俺が出ていった後に、泥の塊の間から泥の層がいくらか剥がれ、日に晒されて瀬戸物のようになってから動きだして、ろれつの回らない、言葉だかわからない言葉を喋り出すらしい。話によると俺の両親とそれで会話するらしいが、どの道一度も父とも母とも交感できなかった俺には関係がない。行く先には空っぽな景色と空っぽな王国の匂い、ここから先は踏んで行く一歩一歩が俺の牢獄であり、領地だ。さて、どこへ行こう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あ・べる 安良巻祐介 @aramaki88

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ