古本と思い出の話

昔、よく本を読む子供だった。

漫画やアニメみたいに、四六時中図書館に入り浸っていたわけではなかったけれど、図書館は好きだったし、本を読むのも結構好きだった。自分で言うのもおかしな話だけれど、当時は結構ませていたから、背伸びして大人が読むような小説にも手を伸ばしたりしていた。


小学校を卒業し、中学校に進み、高校を出て、大学……と進むうちに、だんだんと本を読まなくなった。正確に言えば、紙の本を手に取る機会が減っていった。

携帯電話を持つようになって、インターネット小説投稿サイトによくアクセスするようになった。わざわざ紙の本にアクセスする手間を惜しんだ。


そういう経緯で、純文学とよばれるようなものを、めっきり読まなくなっていた。


最近、ふと身辺整理を思い立った。

何もなければ、近いうちに大学を卒業することになる。正真正銘、社会人の一人となる。好むと好まざると生活環境が大きく変わるこのタイミングで、いろいろと区切りをつけておきたいなという漠然とした考えが浮かんだ。


手始めに、本の処分から始めることにした。深い理由があったわけではない。一番初めに目についたし、処分が簡単そうだと思った。

蓋を開けてみると、この考えは大間違いだった。着目点は良かったが、仕分けにとんでもなく時間がかかった。


大昔に小遣いを握りしめて近所の本屋に買いに行った本がたくさん出てきた。

映画化されたあの作品や、大流行したあの作品の原作。それから歴史モノ、ノンフィクション。我ながら随分雑食なものだと、可笑しくなった。


紙の本には、その一冊一冊にストーリーが生まれやすいように思う。

どういう経緯で買われ、どういう状況で読まれ、持ち主がどういう経験をしたか。

実体のある紙の本は、思い出を乗せやすい。


定期試験で午後休になった日、街の大きい本屋で買った本。

好きだった子に振られた日に読んでいた本。

「感動の涙」が想像上の存在ではないのだと実感させてくれた本。


本を手に取るたび、いろいろなことが思い出された。

どの本も、本当に処分してよいのか大いに悩んだが、熟考に熟考を重ね、ついに処分する本たちを選び抜いた。

そしてそれらをダンボールに詰め、古本屋に持ち込んだ。


査定は30分くらいで呆気なく終わった。

身分証を出し、売買契約書に署名した。


結果から言うと、大した額にはならなかった。そして、買取価格の安さに大いに驚いた。どれも一冊10円とか15円とか、かの国民的駄菓子とほぼ同じ値段がついていた。


正直ショックだった。自分の思い出には駄菓子程度の価値しかないのかと、すこし腹立たしくもあった。

思い出は金にならないのだと、当たり前のことを思い知らされた。他の人にとっては無価値で、どうでもよくて、それをありがたがっているのは当事者である自分だけなのだと、レシートに並ぶ数字が主張していた。


しかし、よく考えてみれば、この本を資源回収に出してもただトイレットペーパーがもらえるだけである。お金になるだけいいかとだまって受け入れることにした。


それに、自分の手元を離れた本が、新しい所有者の手にわたって、そこでもまた新しい思い出を乗せるのだと思うと、何だかそれはそれで悪くないような気もした。

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わたしのかんがえたこと、あれこれ。 佐城ぶどう @sajo_fuwafuwa

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