後編

 一番安い部屋は、狭いし論外。しかしだからといって高いところも、プールやらピアノやら、別に今いらなくない?ってものばかり置いてあるみたいだし、結局真ん中のお値段の部屋を取った。

 価格どおりのありきたりな調度品とベッドの間で、俺たちは言葉も交わさず、立ったままでいる。

 二人きりで会うようになってから、もう二ヶ月。こういう関係になるのは、早い? 遅い? 大人なんだから、相応だろうか。


「あの……」


 なんと言ったらいいか分からず、俺は文華さんと向き合った。

 しかし、ここからは俺のターンだ。そうしなければ。

 でも最後にこういうことをしたのは、いつだったか。前の彼女とのあれは、もう五年も昔のことだし。

 やり方、覚えてる? ちゃんと腰、振れる?

 冷や汗をダラダラ流す俺を見て、なにか勘違いしたのか、文華さんの大きな目が悲しそうに揺れた。


「き、嫌いにならないで……ください。私、あなたに嫌われてしまったら、どうしたらいいか……」


 今にも泣きそうな顔で、文華さんは懇願した。


「き、嫌いになんか……!」

「いつもこんなことをしているなんて、どうか思わないで……。こんな気持ちになったのは、あなたが初めてなんです……」


 それは光栄なことだけど……。

 確かに文華さんは、男ときたら誰彼構わず咥え込むような、肉食系ではない。それは二ヶ月間のつき合いで、よく分かっている。彼女は常識的で奥ゆかしい女性だ。

 だから余計に理解できない。なぜ、俺なの?

 俺の疑問を悟ったのか、文華さんは告白する。


「花山さんには、私がお願いしたんです。あなたを紹介して欲しいって。仕事であなたの会社の社員食堂を訪れた際に、お見かけして……。一目惚れでした……」

「えっ!? でもお会いするようになってから初めの頃、しょっちゅう俺のこと、睨んでましたよね!?」

「き、緊張してしまって……。私、小心者だから……。それに、睨んでいたのではなく……」


 繰り返しになるが、俺は全然モテない。顔もふつーだし、収入もふつーだし、どこにでもいるふつーのおっさんだ。

 だから、なんで? なぜ、俺なの?

 そうだ、俺は――はっきり言って、自分に自信がない。

 

 ――俺が女だったら、決して俺みたいなのは選ばない。


「あなたはどうして、俺なんかを……」

「それは……」


 ようやく解を得るときがきた。

 文華さんが俺に腕を伸ばす。細い指先が俺の胸に触れ、そのまま手のひらが置かれた。すーっと弱々しく彼女の手に擦られ、くすぐったかった俺は、つい声を漏らしてしまう。


「あっ……」

「――あなたを、睨んでいたのではありません。ただ、愛しくて……」


 文華さんは俺から手を離さない。大胸筋の上部、下部を摩り、腹直筋をなぞり、外腹斜筋を撫でた。どこか思い詰めたような様子で、彼女は俺を優しく嬲る。


「あっ、ああ……! そこは……!」

「あなたの、この――体。たくましい、筋肉に覆われた、この肉体を……。あなたの体が、私……欲しい」


 言い終えたあと、弾かれたように文華さんは手を引いた。


「ふ、文華さん。つまり、それは……!」


 つまり、筋骨隆々の俺のドスケベボディに目がくらんだ、と。文華さんは、そう言ったのか。

 ――このときの俺の気持ちを、表現するのは難しい。

 俺は金縛りにあったように、動けなかった。それなのに足元から、なにか熱いものがこみ上げてくる。

「感動」。その波に、俺は身を任せた。


「ごめんなさい、私……っ! こんなの、変ですよね。はしたないですよね!」

「……!」


 言葉なんて、まどろっこしい。

 俺はジャケットを脱ぎ、シャツのボタンを外した。ジーンズを脱ぎ捨て、パンツ一丁になる。そして堂々と仁王立ちになった。


「好きなだけ、触ってください!」

「えっ……」

「さあ! さあ!」


 俺のこの体は、俺自身が丹精込めて育てたもの。――唯一、自慢できるもの。

 戸惑っている文華さんの前で俺は横を向き、上半身を捩って、左の手首を右の手で掴んだ。もう覚えてくれただろうか、これが「サイド・チェスト」である。


「さあ! あなたの想うがまま! さあ! さあ!」

「ああ……! でもまずは……! その美しいお体を、とくと鑑賞させてください……!」


 俺は頷くと、次々とポーズをキメた。

「フロント・ラット・スプレッド」、「アブドミナル・アンド・サイ」、「モスト・マスキュラー」……。

 そんな俺を見詰める文華さんの瞳はキラキラと、あるいはギラギラと輝き、憧れと劣情が入り混じった複雑さで俺を犯した。


「文華さん!」


 ひととおりの演技を終えると、俺は息を切らしながら文華さんを抱き締め、そのままベッドへ押し倒した。

 文華さんは抵抗しなかった。それどころか、自ら俺の背中に腕を回し、抱きついてくる。


「ずっと夢見ていたの。強い男性に、めちゃくちゃにされることを。私を抱き潰して……! 乱暴に、して!」


 艶かしく喘ぎながら、彼女は俺の体の輪郭や厚みを確かめるように、わさわさと手を動かした。


 ――このあとは、ご想像にお任せします。

 ただ、誓って言う。激しくはしたが、乱暴にはしていない。


「体目当て」と、人は蔑むかもしれない。

 しかしフェチズム、これもある意味、純粋な愛だ。

 文華さんは、顔や頭や性格や稼ぎが良いわけでもない俺を――というか俺の筋肉を、ただ一途に欲してくれた。

 彼女は確かにほんの少しおかしいが、俺にとっては理想の女性だ。


 そう、俺は――。

 自分で思った以上に歪み、こじらせていたのだろう。





 さて、こうして正式に結ばれた俺と文華さんは、遊んで食べてやることやって――という日々を繰り返した。

 数ヶ月後、文華さんは幸せそうに微笑みながら、俺に告げた。


「赤ちゃんができたみたいです」


 そりゃそーだ。思うまま、愛し合ったのだから。

 俺は文華さんの手を取り、プロポーズした。彼女も快く受け入れてくれた。





 結婚の報告をすると、お互いの親族はびっくりしていたが、喜んでくれたようだ。特に俺の親ときたら、浮かれに浮かれ、お祭り騒ぎになった。

 しかし上月家のラスボスたる、姉の都は――。


「なにやってんの!」


 結婚式の打ち合わせのために実家に帰ったある日、俺は姉にポカリとげんこつをもらった。


「まったくもう! 子作りするなら、ちゃんと万事整えてからにしなさいよ! お嫁さんだって、不安だったはずだよ!」

「はい、すみません……」


 都の言うことはそのとおりなので、俺は素直に反省した。

 ついつい劣情に溺れ、だらしないつき合い方をしてしまった。が、言い訳するつもりはないが、とっくに覚悟は決まっていたのだ。

 文華さんを逃したら、俺の前にはもうあんな奇特な趣味、かつ正直な女性は現れないだろう。俺は彼女を、心から愛している。

 怖い顔をしていた都は、しかしすぐやれやれと表情を和らげた。


「文華さん、すっごくいい子なんだってね? 早く会いたいな~! やっとうちの子にも、イトコができるのかあ! 楽しみ!」


 都も喜んでくれているらしい。俺は安堵した。

 姉には小さい頃から世話になったし、やっぱり祝福してもらいたい。

 憑き物が落ちたような気になった俺は、今まで聞きたくても聞けなかったことを聞いてみた。


「姉ちゃんさ、なんで旦那と結婚したの? 決め手はやっぱり経済力?」

「んー? 稼ぎがいいとかってのは、割とどーでもいいのよ。いざってなりゃ、私が働きゃいいからね。まあうちの旦那は、犬みたいで可愛いかったし。あと、大事なのは、相性だよね」

「なるほど……」


 これまたふわふわした回答だ。

 いるよねー、「お金目当てじゃないの、もっと大事なことがあるの」って、そういうイイ話っぽくまとめようとする女。

 俺は納得したフリをしつつも、不満だった。

 しかし姉のそれは、軽いジャブだったのだ。そのあと、激烈ストレートが待っていた。


「あんたもね、セックスの問題は大事だよ。大丈夫だった?」

「えっ、相性ってそっちの!?」


 都はこっくり頷いた。


「うちの子が全員一発ずつでできたと思ってるの? 子供が欲しけりゃ、何回も何回もするんだよ? 苦痛だったらやれんでしょ。ま、そっちの相性がいいのを、愛って呼ぶ人もいるわね」

「……………………」


 そっかー、やっぱり都が結婚を決意した際にも、金とかなんとかいう打算の前に、愛があったんだー。

 姉の主張は、そりゃ俺が求めていたものに近いのかもしれないが、いざ言われてみるとなんだかもう……。

 俺は白目になった。

 獣じみたことを言ったくせに、都は全く冷静だった。ちらりと、またいつもの冷たい目で俺を見る。


「あんた、昔っからふつーの子で、その辺のコンプレックスが強かったから、結婚できてほんと良かったよ。筋トレとか始めたのも、なにか人に胸を張れるものが欲しかったんでしょ?」

「……………………」


 俺はなにも言えなかった。とうに気づいていたけれど、認めたくなかった汚い気持ち。

 特に秀でた能力のない俺は、例えば姉の夫だとか、むしろ優れた同性に嫉妬していたのだ。でもそんな感情に向き合いたくなくて、だからエリートの男に群がろうとする浅ましい女を蔑むことで、溜飲を下げていた。

 しかし俺は文華さんの愛を得て、なんとか心に余裕ができたようだ。これからは自分のみっともない内面と、ぼちぼち折り合いをつけていこうと思う。

 ――しかし。


「まー、いくら相性良くてもね~。うちの旦那、年下でまだ若いから、性欲やべーのよ。ほら、こないだ言った『キツクなってきた』って、そういうことよ。この間もさあ――」

「もうやめて!」


 これ以上、身内の生々しい話は聞きたくない。

 俺は耳を手で押さえて、絶叫したのだった。



 ~ 終 ~

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肉体至上主義 いぬがみクロ @inugamikuro

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