中編

 どこへ行くかは決めていた。花山さんに教えてもらった、イタリアンレストランだ。あの厨房のおっかさんによると、地元民カップルはたいていそこへ行くのだという。

 さすが人気店ということで、店内は賑わっていた。なんとか空いていた席に案内され、運ばれてきた水を一口。それから俺はちらっと、正面に座った女性の様子を伺った。

 ――仏頂面。ヤダ、コワイ。俺はそっと目を逸した。


「室戸 文華むろと ふみかです」


 文華さんは名乗り、ぺこりと頭を下げた。それにしても険のある表情だ。

 汗が俺の背中を伝っていく。もう早速、帰りたくて帰りたくてしょうがなかった。


「ええと、上月 光也です……」

「……………………」


 文華さんからの反応はない。

 ああ、きっとこの子もその気もないのに、強引に花山さんに押し切られたんだろうなあ。

 ――三日前、遅い昼飯を食べていたあの食堂で、花山さんは言ったのだ。それはもう流れるように、一息に。


「上月くん、彼女いる? 確か、いなかったわよね? ね? ちょっと紹介したい女の子がいるんだけど! 室戸 文華さんていう、うちの食堂に出入りしてる食品会社の営業さんなんだけど! これがまた仕事ができて、気の利くお嬢さんなのよお! そのうえ、美人! なのに、まだ独り身なんですって! これはもう、おばちゃん、お節介しなきゃって! だって勿体ないものね! やっぱりね、どんだけ時代が変わろうと、男の人も女の人も結婚して、家庭を持たなきゃダメ! 独身なんて若いうちはいいけど、歳取ったら悲惨よぉ~! だって一人だもんね、一人! みんな甘いのよぉ~! 個人の自由だとか多様性がどうとか耳障りの良いこと言っちゃって、それに異議を唱えたら老害だとか罵るでしょ! ほんと嫌な世の中だわあ~!」


 ――ともかく。

 花山さんのあっちこっちに飛んだ話をまとめると、知り合いを俺に紹介したいと、そういうことらしかった。一度は断ったんだが、花山さんは俺のような若造が敵うような御仁ではない。押しがめちゃくちゃ強いのだ。

 そんな経緯があって、今日という日を迎えたのだが。


「……………………」


 文華さんというこの女性も、乗り気ではなかった……。いや、はっきり迷惑だったのだろう。

 文華さんは形の良い唇を引き結んで、ずっとムスッと怒っているような顔をしている。――花山さんが言うとおり、確かに綺麗な人だ。化粧は薄く、それがかえって肌の白さ、美しさを際立たせている。シンプルな黒のスーツが似合っていて、ストイックな色気があった。長い髪をポニーテールに結い、眉は少し太めで、黒々とした目はぱっちりと大きい。

 こんな人が売れ残り――なんて、そんな表現は失礼か。ええと、決まった相手がいないなんて、なにかの間違いだろう。フリーなのはたまたまのことで、彼女ならその気になれば、すぐにいい男を見つけられるはずだ。俺なんかよりずっとずっと素晴らしい、グッドルッキングガイを。

 二人で弾まない会話を交わしながら、もそもそと飯を食い、つき合い程度にワインを呑んだ。美味しいと評判の料理だったが、味はよく分からなかった。


 まあそんな風だったから、あの話はあれで終わりだと、俺は思っていたのだ。

 文華さんとの対面直後は怒りと屈辱に包まれ、そういった感情が治まったあとは、「久しぶりに女の子とお話しできて良かったなあ~」と良き思い出として昇華しかけていた。そんな折り、俺はまた食堂で、花山さんに捕まってしまったのだ。


「室戸さん、またあなたに会いたいって! 上月くんったら、やるじゃない!」

「!?」


 驚天動地とはこのことだ。

 文華さんはいったいなにを、俺のどこをどのように気に入ったのか。ていうか、楽しそうな素振りなんて、微塵も見せなかったのに。

 俺が女心に疎いのか? いやいや、文華さんのあの態度では、俺に好意を抱いてくれたなんて、一流のエスパーでも感じ取れなかっただろう。

 ただただ驚く俺の前で、花山さんはキャッキャッとはしゃぎながら、ご自分のスマートフォンを操作し始めた。


「この前はLINEの交換もしなかったんだってー? もう、うっかりさん! 室戸さんに教えていいって言われてるから、ほら、これが彼女のIDよ! 早めに連絡してあげてね!」

「あのー、もしかしてあの人、なにか怪しい宗教とかセミナーとかに勧誘するとか、そういう系の人じゃ……」

「ヤーダー! そんな人を紹介するわけないでしょー! 上月くんたら、変に疑り深いんだからー! だから結婚できないのよー!」


 花山さんは笑い転げながら、俺の肩をバンバン叩いた。結構、辛辣なことを言うおばさまだ。

 しかし、腑に落ちない。花山さんに教えてもらった文華さんのIDを検索しながら、俺は首を傾げた。

 俺なんかに、もう一度会いたいなんていう女が、いるわけが――と思ったところで、自分の思考に違和感を覚えた。

 ――「俺なんか」?

 俺はこんな、卑屈な男だったろうか。





 それから文華さんと俺は、週に一度ほど会うようになった。

 仕事終わりに軽く呑んだり、休日に落ち合って、映画やら水族館やらショッピングやらを楽しんでみたり。

 当初は怪しげな壷やら絵画やら買わされたらどうしようかと、俺はビクビクしていたが、そんなこともなかったのは幸いだった。

 文華さんは相変わらずだ。ぎこちなく強張った、親の仇に遭遇したかのような顔つきをして――しかし慣れてくると、それが彼女の個性なのだろうと思えるようになってきた。確かに愛想はないが、礼儀作法などは俺なんかよりずっと弁えているし。仕事ぶりは優秀だという評判も、納得がいく。

 会話も、なんとか繋がるようになってきた。俺がきっかけを作り、文華さんの考えや意見を引っ張り出す。まるでゲームのようで、面白くなってきた。


「趣味といえるようなものはなくて……。休みの日は家で本を読んだり、テレビを見たり……。学生の頃はバドミントンをやっていたので、暇さえあれば練習をしていたのですが」

「バドミントン! へえー、凄いな!」

「いえ、全然……。試合になると緊張してしまって、いつも勝てませんでしたし。小心者なんです、私……」


 ショッピングモールの遊歩道でベンチに座り、ちょっと休憩。

 土曜日。今日は服を買いたいという文華さんにつき合ったのだ。


「温かい飲みものが、美味しい季節になりましたねえ……」

「ですねえ」


 文華さんは目を細め、珍しく微笑んでいる。そんな彼女の様子に、俺はほっこりと和みながら、相槌を打った。

 文華さんはホットコーヒーが入った紙コップを両手でしっかり持ち、ふうふうとそれに息を吹きかけている。やがて蓋に付いている小さな飲み口から中身を飲もうとしたのだが、カップを傾けた途端、「あちっ!」と悲鳴を上げて、小さく跳ねた。かなりの猫舌なのか、不器用なのか。普段クールに落ち着き払っている彼女とのギャップが可愛くて、俺はにまにまと頬を緩めてしまった。


「つ、冷たいものにすれば、良かったかもしれません……」

「あったかいものが美味しい季節だって、言ったばっかじゃないですか!」


 ままごとのような、穏やかで甘酸っぱいひととき。

 若くないからこそガツガツしない、のんびりした交流。

 俺はこういうのも悪くないと思っていたのだが――。

 でもそれはただの独りよがりで、文華さんを影で傷つけていたのだと、俺はあとで知ることになる。




 繁華街で少し早めの夕食をとってから、駅までの道を文華さんと歩いた。

 一日一日、頬に当たる風が冷たさを増している。俺たちが暮らすN県は雪国だから、初雪ももうじきだろう。


「文華さんは、雪はお好きですか?」

「……………………」


 俺の質問には答えず、隣を歩いていた文華さんは、急にぴたりと立ち止まった。


「文華さん?」

「……………………」


 振り返れば、文華さんは俯いていた。気分でも悪くなったんだろうか。

 しばらくして文華さんは言いづらそうに、もごもごと切り出した。


「このあと、お時間ありますか? もう少し……一緒にいたいのですが」


 俺の胸はキュンと鳴った。

 もちろん、願ってもないお誘いである。


「だ、大丈夫ですよ! どこかでお茶でも――」

「そ、そうではなくて……」


 沈黙ののち、文華さんはふっと右に顔を向けた。彼女の視線の先には、人の高さほどの塀で囲われた建物がある。塀には、プレート状のものが埋め込まれていた。見れば、料金表のようだ。


『休憩 4000円~』


 つまり――ラブホテルである。


「!」


 あまりに意外な申し出に、俺は雷に打たれたかのように立ち尽くした。


「す、すみませ……。軽蔑します……よね、こんなの……」


 俺はハッと我に返ると、消え入りそうな声で謝る文華さんの手を掴んだ。


「いいえ! ――いいえ!!!!」


 恐らく三十一年生きてきた中で一番大きく声を張り、俺は文華さんをくだんの建物に引きずり込んだ。

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