肉体至上主義
いぬがみクロ
前編
軽いのに重たい。抱いた腕に感じたのは、命と可能性の重みというやつなのだろう。
「三番目は男か~」
俺の姉、上月
俺の名は、上月
よく晴れた十月の休日、俺は車を飛ばし、首都圏にある実家へ帰った。三ヶ月前に生まれた、姉の子に会うためだ。
俺より四つ年上の姉、都は、結婚後、実家の近くに家を買い、暮らしている。
「母子ともに健康で良かったな」
「まあね。でもやっぱりキツクなってきたわ。本当は子供、五人でも六人でも欲しかったけど、これで打ち止めかなあ」
都は淋しげに笑っている。やっぱり、出産というのは大変なんだなあ。めっちゃ痛いっていうし。
俺は姉を励ますつもりで、あえて明るく言った。
「いいじゃん、もう三人もいるんだから。俺なんて嫁すらいねーし」
しかしせっかくの気遣いをふいにするかのように、姉は俺の発言に牙を剥いた。
「そうだよ、まったく! お母さん、光也のことすっごく心配してるんだから! 一刻も早く結婚して、子供を作らないとって! 歳取るのはあっという間なんだから、絶対に後悔するってさ!」
俺はうんざりしながら反論した。
「またそれかよー。いーんだよ、俺は。今のままで幸せなんだから。子供なんて、姉ちゃんとこの三人を可愛がれるだけで十分だし」
母も姉も、前時代過ぎると思う。男にとっても女にとっても、結婚して子供を作ることこそが人生最大の幸福なのだと、信じて疑わないのだ。
「いいとこ取りだけするつもりか。このクソ無責任男が」
都は目を三角にして、俺の手から赤ん坊を奪い返した。そして、慣れた手つきで我が子をあやしながら、俺を冷たく睨む。
「それにしても……。あんた、またでかくなったんじゃない?」
「え? そう?」
わざとらしくトボケて、俺はさりげなく横を向いた。そのまま上半身を捩り、左の手首を右の手で掴む。いわゆる「サイド・チェスト」というポーズだ。これなら服を着ていても、俺の鍛えた胸筋が分かるだろう。
170cm、65kg。体脂肪率は8%で、胸囲は100cm。上腕囲は40cmという、俺はそんなそこそこ筋肉質なボディの持ち主である。
せっかくサービスしてやったのに、都は眉間に深くシワを刻み、「キモイの見ちゃったねー、泣いてもいいんだよー」などと赤ちゃんに話しかけている。失礼な。
「ほんと、体ばっかり鍛えて……。マッチョなんて、女の子にはウケないよ」
「けっ。筋肉の良さが分からない女なんて、こっちからお断りだね」
言いながら俺はくるっと後ろを向くと、左右の腕を上げ、力こぶを作るように肘を曲げた。そう、これが「バック・ダブル・バイセップス」だ。
「……………………」
都はもはや無言であった。背中を向けるポーズを取って、姉の絶対零度の直視から逃げつつ、俺は心を奮い立たせた。なにも恥じることはない。
入社時から現在まで赴任を命じられたN県の、俺の住まいの周辺は、甚だ娯楽の少ない土地だった。そんなところになぜか唐突に新設されたスポーツジムに、暇つぶしのつもりで入会した俺は、すっかりハマってしまったのだ。
筋肉増量活動――「筋活」に。
筋トレは、実際、安上がりな趣味だと思う。健康にもいいし、なにより筋肉は可愛いやつだ。構えば構うだけ応えてくれるのだから。
「都ー、光也ー! お寿司来たわよー!」
隣の台所から、母が俺たちを呼んだ。いつものように、姉が顎をしゃくる。
「ほら、手伝っておいで」
「人使い荒いな。たまに帰ってきたっていうのに」
「出産直後の女を働かせる気? あんたがモテないのは、そーゆーとこ」
「もう産んで、三ヶ月も経ってるじゃねーか!」
口では文句を言ったものの逆らう気などなく、俺の足は既に台所のほうを向いていた。
姉には絶対服従。幼き頃より我が身に刻み込まれたその掟は、今も健在である。
廊下へ出る直前、ふと振り返ると、都は俺には生涯見せないだろう優しく愛おしげな目で、我が子に微笑みかけていた。
まさに慈母。だが――俺が結婚という制度に懐疑的なのは、この姉のせいにほかならない。
都の夢は、「お母さんになること」だった。昔から子供が好きだった彼女は、子供をたくさん産んで、温かい家庭を築きたいと常々言っていたものだ。
そんな姉に選ばれ、夫となった男は、一流国立大学院卒で国内屈指の大企業勤務。経済力は申し分なく、しかも都にべた惚れときている。故に彼女の「子供だくさん家族になる!」という意志に全面的に賛同し、協力を惜しまなかった。
きっと姉たちは理想的な夫婦なのだろう。――だが。
それではあまりに無味乾燥だと、俺は思うのだ。
姉にとって夫は、「子供たちに囲まれながら、幸せな家庭を築く」という、自分の理想を叶えるための――そのために利用しただけの存在に過ぎないのではないか、と。つまり、「金かよ!」とがっかりしたのだ。
女にとって、男ってなんなの? 男女が婚姻に至るまでの過程には、まず第一に恋や愛があるべきではないの?
――ああ、俺は本当になにを、夢見る乙女みたいなことを考えているのか。
まったく、自分でも嫌になる……。
甥っ子の顔を見に実家に帰ってから、一ヶ月後のことだ。
その日、俺は客先から戻ってくるのが遅れて、クローズギリギリの時間に社食に飛び込んだ。
十四時。昼食を取るには遅い時間だから、席に着いている社員の数はまばらだった。
「あっ、上月くん! ちょっと話があるのよ!」
「え?」
定食のプレートを渡してくれた女性が、いそいそと厨房から出てきた。調理用の白衣を着たこの年配の御婦人は、
「今日のご飯、どう?」
花山さんは、俺の前の席に腰を下ろした。うちの社員食堂で一番偉いらしい彼女は、だがとても気さくで、社員たちのお母さんという雰囲気の人だ。
「あ、美味いっす」
「ふふ、良かった! で、あのさあ。実は上月くんに、お願いがあるんだけど……」
――この小柄で、人畜無害そうな御婦人が持ちかけてきた突然の提案が、全ての始まりだったのだ。
それから数日後の金曜日、俺は狐につままれたような心持ちで駅前に立っていた。
「上月 光也さん――ですよね?」
金属同士をぶつけたような、少し尖った声に名を呼ばれた。
振り返れば、ポニーテールの可愛いお嬢さんが立っていた。
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