肉体至上主義

いぬがみクロ

前編

 軽いのに重たい。抱いた腕に感じたのは、命と可能性の重みというやつなのだろう。


「三番目は男か~」


 俺の姉、上月 こうづき みやこの第三子は、随分と人懐っこいようだ。俺とは初対面なのに、抱っこしてべろべろばーと変顔してやったら、にこにこ笑ってくれた。

 俺の名は、上月 光也こうづき みつや。三十一歳のサラリーマンで、今は故郷より遠く離れたN県にて、精密機器メーカーの営業をしている。

 よく晴れた十月の休日、俺は車を飛ばし、首都圏にある実家へ帰った。三ヶ月前に生まれた、姉の子に会うためだ。

 俺より四つ年上の姉、都は、結婚後、実家の近くに家を買い、暮らしている。


「母子ともに健康で良かったな」

「まあね。でもやっぱりキツクなってきたわ。本当は子供、五人でも六人でも欲しかったけど、これで打ち止めかなあ」


 都は淋しげに笑っている。やっぱり、出産というのは大変なんだなあ。めっちゃ痛いっていうし。

 俺は姉を励ますつもりで、あえて明るく言った。


「いいじゃん、もう三人もいるんだから。俺なんて嫁すらいねーし」


 しかしせっかくの気遣いをふいにするかのように、姉は俺の発言に牙を剥いた。


「そうだよ、まったく! お母さん、光也のことすっごく心配してるんだから! 一刻も早く結婚して、子供を作らないとって! 歳取るのはあっという間なんだから、絶対に後悔するってさ!」


 俺はうんざりしながら反論した。


「またそれかよー。いーんだよ、俺は。今のままで幸せなんだから。子供なんて、姉ちゃんとこの三人を可愛がれるだけで十分だし」


 母も姉も、前時代過ぎると思う。男にとっても女にとっても、結婚して子供を作ることこそが人生最大の幸福なのだと、信じて疑わないのだ。


「いいとこ取りだけするつもりか。このクソ無責任男が」


 都は目を三角にして、俺の手から赤ん坊を奪い返した。そして、慣れた手つきで我が子をあやしながら、俺を冷たく睨む。


「それにしても……。あんた、またでかくなったんじゃない?」

「え? そう?」


 わざとらしくトボケて、俺はさりげなく横を向いた。そのまま上半身を捩り、左の手首を右の手で掴む。いわゆる「サイド・チェスト」というポーズだ。これなら服を着ていても、俺の鍛えた胸筋が分かるだろう。

 170cm、65kg。体脂肪率は8%で、胸囲は100cm。上腕囲は40cmという、俺はそんなそこそこ筋肉質なボディの持ち主である。

 せっかくサービスしてやったのに、都は眉間に深くシワを刻み、「キモイの見ちゃったねー、泣いてもいいんだよー」などと赤ちゃんに話しかけている。失礼な。


「ほんと、体ばっかり鍛えて……。マッチョなんて、女の子にはウケないよ」

「けっ。筋肉の良さが分からない女なんて、こっちからお断りだね」


 言いながら俺はくるっと後ろを向くと、左右の腕を上げ、力こぶを作るように肘を曲げた。そう、これが「バック・ダブル・バイセップス」だ。


「……………………」


 都はもはや無言であった。背中を向けるポーズを取って、姉の絶対零度の直視から逃げつつ、俺は心を奮い立たせた。なにも恥じることはない。

 入社時から現在まで赴任を命じられたN県の、俺の住まいの周辺は、甚だ娯楽の少ない土地だった。そんなところになぜか唐突に新設されたスポーツジムに、暇つぶしのつもりで入会した俺は、すっかりハマってしまったのだ。

 筋肉増量活動――「筋活」に。

 筋トレは、実際、安上がりな趣味だと思う。健康にもいいし、なにより筋肉は可愛いやつだ。構えば構うだけ応えてくれるのだから。


「都ー、光也ー! お寿司来たわよー!」


 隣の台所から、母が俺たちを呼んだ。いつものように、姉が顎をしゃくる。


「ほら、手伝っておいで」

「人使い荒いな。たまに帰ってきたっていうのに」

「出産直後の女を働かせる気? あんたがモテないのは、そーゆーとこ」

「もう産んで、三ヶ月も経ってるじゃねーか!」


 口では文句を言ったものの逆らう気などなく、俺の足は既に台所のほうを向いていた。

 姉には絶対服従。幼き頃より我が身に刻み込まれたその掟は、今も健在である。

 廊下へ出る直前、ふと振り返ると、都は俺には生涯見せないだろう優しく愛おしげな目で、我が子に微笑みかけていた。

 まさに慈母。だが――俺が結婚という制度に懐疑的なのは、この姉のせいにほかならない。

 都の夢は、「お母さんになること」だった。昔から子供が好きだった彼女は、子供をたくさん産んで、温かい家庭を築きたいと常々言っていたものだ。

 そんな姉に選ばれ、夫となった男は、一流国立大学院卒で国内屈指の大企業勤務。経済力は申し分なく、しかも都にべた惚れときている。故に彼女の「子供だくさん家族になる!」という意志に全面的に賛同し、協力を惜しまなかった。

 きっと姉たちは理想的な夫婦なのだろう。――だが。

 それではあまりに無味乾燥だと、俺は思うのだ。

 姉にとって夫は、「子供たちに囲まれながら、幸せな家庭を築く」という、自分の理想を叶えるための――そのために利用しただけの存在に過ぎないのではないか、と。つまり、「金かよ!」とがっかりしたのだ。

 女にとって、男ってなんなの? 男女が婚姻に至るまでの過程には、まず第一に恋や愛があるべきではないの?

 ――ああ、俺は本当になにを、夢見る乙女みたいなことを考えているのか。

 まったく、自分でも嫌になる……。






 甥っ子の顔を見に実家に帰ってから、一ヶ月後のことだ。

 その日、俺は客先から戻ってくるのが遅れて、クローズギリギリの時間に社食に飛び込んだ。

 十四時。昼食を取るには遅い時間だから、席に着いている社員の数はまばらだった。


「あっ、上月くん! ちょっと話があるのよ!」

「え?」


 定食のプレートを渡してくれた女性が、いそいそと厨房から出てきた。調理用の白衣を着たこの年配の御婦人は、花山はなやまさんだ。


「今日のご飯、どう?」


 花山さんは、俺の前の席に腰を下ろした。うちの社員食堂で一番偉いらしい彼女は、だがとても気さくで、社員たちのお母さんという雰囲気の人だ。


「あ、美味いっす」

「ふふ、良かった! で、あのさあ。実は上月くんに、お願いがあるんだけど……」


 ――この小柄で、人畜無害そうな御婦人が持ちかけてきた突然の提案が、全ての始まりだったのだ。





 それから数日後の金曜日、俺は狐につままれたような心持ちで駅前に立っていた。


「上月 光也さん――ですよね?」


 金属同士をぶつけたような、少し尖った声に名を呼ばれた。

 振り返れば、ポニーテールの可愛いお嬢さんが立っていた。


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