彼らは平穏に時を重ねる(2)
「来てくれたんだ」
「当たり前でしょ。約束したもの」
サンは手にした大きめのバスケットを掲げてみせる。
「約束したでしょう。春になったら、お花見をしようって」
朗らかにサンは言った。
研究報告を終えた日、タンフウとサンは確かにそう約束していた。しかしジェイ家の手紙のことが露見し、彼女との関係がぎくしゃくしてしまったのは、その話をした直後のことだ。
それから二人の関係は修復されないまま、事件が起こりサンは実家に戻った。以来、彼らがこうして天文台で会うことは一度もなかったのだ。
たった数ヶ月前の出来事だったが、随分と昔のことのように感じられた。
「夜会の時に、ユーシュにも言われたしね。今夜は、参ったと言わせるまで皆に食べさせてやるんだから」
「お手柔らかに頼むよ」
今から目を爛々と輝かせるサンの気合いに押され、苦笑いしてから。
タンフウは気になっていたことを尋ねる。
「フウカと来たんだろう。一緒に入ってくればよかったのに」
その言葉に、サンは少しだけ寂しげな表情を浮かべた。
「さっきまで。史学会に、行っていたの」
「でも、サンの持っていた荷物もこっちに移動させたよ。向こうはもぬけの殻だ」
「知ってる。ただ、もう一度見ておきたかったから」
言って、サンは森を仰ぎ見る。
ふわりと彼女のスカートを揺らした柔らかな風が、木に結びついた頼りない道標をも舞い上げた。
「こうして、みんながまた一緒に研究できるようになったのは嬉しい。
けど、それでも。
私にとって、一番最初に学ぶことのできたギルドは史学会だから」
ぽつりと言ってから、サンはおずおずと肩越しに振り返る。
「感傷的に過ぎるって、思う?」
「いいや、分かるよ。僕にも心当たりはある」
「セツには言わないでね。バカにされそう」
「大丈夫だよ。そしたらサンより先に、フウカが黙ってない」
「確かに」
ショウセツとフウカのやり取りを思い出したのか、くすくすとサンは笑った。
「それにさ」
タンフウは背後にそびえる天文台を見上げる。
「去っていくものも、なくなるものもあるけど。変わらないものも、新しく来てくれたものもある。今度からはこの天文台が、僕らみんなの新しい居場所だ。
それにサンだって」
「ええ、そうね」
喜びを隠しきれないようすで、サンはにやけた口元をタンフウに向けた。
「もう。私は、隠れなくていい」
清々しい笑みで。
サンは空に向けて、大きく両手を広げた。
『無礼なこととは承知しておりますが。もし、お許しを頂けるのであれば。
陛下に、進言したいことがございます』
『なんだ。望みがあるなら申してみよ』
『私の、望みは』
その時、タンフウの中に思い浮かんだのは、今も彼のすぐ近くにいる少女のこと。
いつかの夜、天文連合で目を輝かせて、学ぶ喜びを語ったサンの姿だった。
『王立研究ギルドを。女性にも門戸を開いては頂けないでしょうか』
タンフウの発言は、思いもよらぬ申し出だったようだ。国王は目を瞬かせ、ほう、と関心を示すような息を漏らした。
『現在、王立研究ギルドでは、正式なキュシャとして認められるのは男性のみです。そもそも教育体系からして、現体制では女性が高等教育を受ける機会は限られています。まして王立研究ギルドに女性が入る隙はほとんどありません。
しかし。たとえ数は多くなくとも、学ぶ喜びに触れ、自らの手で知を探求したいと願う女性はいるはずです。
少なくとも私は。そういう女性を、一人知っております』
背後から、誰かが息をのむ気配がする。
それがサンのものなのか、別の誰かのものなのかは、分からなかった。
『今すぐにとは申しません。制度を導入するに当たっては、解決すべき問題が山積していることも理解しています。
しかし学問は男だけに与えられるものではないはずです。女性の目線から開かれる新たな世界もきっとあるでしょう。
この国の未来のため。純粋な知への探求を渇望してやまない、学びを願う女性のため。
女性もキュシャになれるよう、検討しては頂けないでしょうか』
切々と語った、彼の進言を受け。
国王ユウゼバードは、まるで面白いものを見つけたとでもいうように、悠然と頷いた。
「まさか、本当に一介の庶民の進言を聞き入れてくれるなんて。しかも、こんなに早く実現するだなんて思わなかったけどね」
「まだ試験導入で、私が第一号のお試しだけどね。リーリウム家の役得よ」
後ろ手にバスケットを持ち直し、サンはにんまりと笑んで言った。
この春から実施される新たな試みの『女性キュシャの導入』は、国王直々の提言であったこともあり、わずか数ヶ月で試験導入されることとなった。
先駆けとなる第一号の女性キュシャには、王立研究ギルドを率いるリーリウム家の息女である、サンカ・リーリウム嬢が担うこととなった。
そして彼女の所属するギルドには。
彼女の騎士が在籍し、かつて視察先として訪れた馴染みあるギルドである、彼らの精霊文理科学総合研究所が選ばれた。
サンの他にも、女性キュシャの希望者は十数人、名乗りを上げている。
彼女たちは数ヶ月の研修期間を経た後、制度の試験組織に指定されたいくつかのギルドの中から、希望の場所に配属されることとなっていた。
とはいえ、あくまで試験導入だ。実施の結果、反対の声が大きければ、たち消えてしまう可能性はあった。
けれども。
「大きな一歩よ。あなたがくれたこのチャンスを、願ってもない幸運を、私たちは必ず勝ち取ってみせるわ」
「そうだね」
意気込むサンを見つめ、タンフウは穏やかに微笑んだ。
「それにしても。キュシャのことだけじゃなく。僕の家のことまで手を回してくれるとは思わなかった」
「陛下はお優しい方なのよ」
どこか自慢げにサンは言う。
タンフウは辞退したつもりだったが、国王は彼の生家であるミカゼ家の再興をも成してくれた。代々の職務である神官としての務めは果たせないが、歴史ある家の一つとして、名前だけは残されたのだ。没落と共に国に召し上げられた、王都の実家も戻った。
とはいえタンフウはキュシャだ。相続権はない。今はフウカが管理し、仕事が休みの折に手入れをしている。
彼らは十数年ぶりに、咎人の血縁という明白な烙印から解放された。
しかし父親が反逆者であるという事実は変わらない。これまで彼に向けられた悪意が、一切なくなるわけではないだろう。それでも、数はぐっと減るはずだ。
「陛下といえば。この前お会いした時、あなたのことを話されていたわ。
専攻も違うのに、皇太子殿下の不調の原因を一目で見抜くなんてと、驚かれていたわよ」
サンに言われて初めて、確かにそうか、とタンフウは頷く。
「僕は元々。薬学を希望していたんだよ。
麻薬については学生時代に論文で扱ったことがあるから、知っていたんだ」
さらりと答え、彼は昔を思い出すように空を見上げた。
「だけど恩師に止められた。
薬学は命に直結する学問だ。薬は、使い方を誤れば毒にもなる。
いくらキュシャになったとして、僕の出自が知れれば、開発した薬のことすら信じてもらえないかもしれない。
それで苦しむくらいなら、日陰のギルドで粛々と研究した方が、平和に暮らせるだろうって」
今はただ、過去の事実として彼は淡々と話していた。けれども当時、その遣る瀬無さに少なからず葛藤はあったのだろう。その眼差しは遠い。
黙って彼の告白を聞いてから。ややあって、サンは控え目に尋ねる。
「ごめんなさい。また不躾なことを聞いてしまうのだけれど。
薬学を選んだのは、お母様の影響?」
「どうして?」
「病気で亡くなったと聞いたから。元は、お母様みたいな人を救いたいという意図があったのかと思って」
「参ったな。……その通りだよ」
タンフウは素直に答えた。以前のように、反発することはない。ただ、言い当てられて少し気恥ずかしいようだった。
その答えに、サンはじっとタンフウを見つめた。真っ直ぐなその視線を受けていたたまれず、彼は照れ笑いを浮かべる。
「さっきの君じゃないけど、感傷的すぎるって?」
「いいえ。素敵だと思うわ。
ただ、いつもあなたは、自分のためじゃなく人のために選ぶのだなと思って」
告げられた言葉に、驚いてタンフウは彼女を見つめた。
サンは真面目な面持ちで続ける。
「悪いとは言っていないのよ。それがあなたのいいところでもあるし。
ただ。無自覚すぎるのは、厄介な時もあるから。念のために伝えておこうと思って」
――無自覚みたいだから言うけどな。お前、自分が死ぬほどお人好しだってことに気付いてないんだよ。
以前、ユーシュに言われたことを思い出す。
ほとんど同じことを言われているなと、思わず笑った。確かに彼は指摘されるまで、あまりに自分に無自覚だったのだろう。
「僕は大丈夫だよ。全部が全部、人に引きずられているわけじゃないし、嫌々やっているわけでもない。少なくとも、今は。
それも含めて、僕の意志だ」
森の中に隠れるように佇む天文台を見上げる。
石造りの古めかしいその建物は、もはや見慣れた彼の家だ。
「サンと違って、僕は。この仕事は、キュシャは、生きるために仕方なく選んだ道ではあるけれど。……なんだかんだいって、向いてると思うんだ」
彼は自分の手に視線を落とした。その指先には、たこができている。ペンを握りすぎたせいだった。
シナドの陰謀を阻止してから冬の間、彼らは決してのんびりしていたわけではない。
急拵えで認可させた新ギルドの設立にあたり、幾枚もの書類を片付けた。精霊学ギルドに変更した根拠である彼らの研究成果を、触れてはいけない部分は巧妙に誤魔化しながら論文にまとめた。従前の天文学の研究内容を大急ぎでまとめあげて、有用なデータや引き継ぐべき箇所は他の天文学ギルドに託した。
目の回る数ヶ月だった。けれどもその作業は、苦ではなかった。
自分たちの手で、新たな発見が、蓄積された観測結果が、知識という形になって整えられていくことが、快感ですらあった。
「実学が学びたかったのは事実だ。
けれども、例え実生活に直結しない学問であっても。生活する上では役に立たない知識であっても。壮大過ぎて縁遠い物事の追求であっても。
知りたいことを、学びたいことを、探求していくことそのものにだって意義があるのだと、思えるようになった。
今は無用に思えるものでも、それが次の誰かに繋がって、新たな世界をもたらすかもしれない。無駄なことはきっと、一つだってないんだ」
かつてショウセツが熱を持って語ったアカデミカのことを、今ならば理解できる気がした。
学問へ真摯に向き合い、純粋に知を探求し続ける、ギルドのあるべき姿を。
「今や、日陰から花形の精霊学に来てしまった以上、油断はしていられない。競争も発展も激しい世界だ。うかうかしていると同業ギルドに食われてしまう。
ただ、目先のことだけにかまけて即物的な研究をやっていくのは御免だ。
だから僕はここで、セツの言うアカデミカを目指したい」
独白にも似た彼の言葉に、サンも頷いた。
「そうね。精霊学は、キュシャたちの間ではいろいろ言われるけれど。だったら私たちは、精霊学ギルドで唯一のアカデミカになるのよ」
「同業ギルドに相当やっかまれるだろうけどな」
「今更でしょう」
「確かに」
顔を見合わせて二人は笑った。
森の中を吹き抜けた風が、二人の間を翔け抜ける。今までよりも風の勢いがいささか強く、通り過ぎながら小さく砂埃を巻き上げた。
軽く目を閉じながら、ふとタンフウは聖堂での出来事を思い出す。
「そういえば、サン。あの時、何か言ってなかったか」
「あの時?」
「聖堂で、僕とナギを助けてくれた時。風の中で、声が聞こえた気がしたんだ。
聞き間違えかもしれないけど。確か『連れ戻す』とかなんとか」
途端、顔を赤らめて、サンは両頬に手を当てた。
「うそ。今更そんな。待って、嘘でしょう」
上ずった声をあげると、くるりと彼女はタンフウに背を向けてしまう。怪訝にタンフウが声をかけても、彼女はしばらく身を縮めたままだ。
困惑したまま、タンフウは挙動不審なサンを前に立ち尽くしていたが。やがて観念したように、彼女はおそるおそる振り返った。
「実はね。私、ここに来る前からあなたのことを知っていたの」
「それは実家の話で?」
「いいえ。……私、昔のあなたの文章を読んだことがあるのよ。少し前、雑誌に天文学のコラムを寄稿していたでしょう」
ああ、と思い出したように彼は頷く。
以前に天文連合に所属していた知り合いキュシャ経由で依頼があり、一年ほど一般向けの天文学の記事を掲載していた時があったのだ。
サンはバスケットを抱きかかえ、半分顔を隠すようにしながら告げる。
「あのね。こうなったから正直に白状するけれど。
……平たく言えば、私はあなたのファンだったのよ」
その言葉に。タンフウは今日一番、度肝を抜かれた。
「ファンって。だってそんな、ただの記事だ」
「ただの記事じゃないわ。噛み砕いて丁寧に書かれていて、素人の私にもとても分かりやすかった。だから私は、天文学に憧れを抱いたんだもの。
言ったでしょう、天文学にも興味があるって。それは他ならぬ、あなたのせいなのよ」
自分のせいと言われて面食らいつつも、どこかタンフウは納得する。
興味を持とうにも、女はそもそも天文学を学ぶ機会がほとんどない。確かにそういった媒体で触れていなければ、興味があるか否かを検討することすらなかっただろう。
「なら言ってくれればよかったのに。興味があるなら、未掲載のもの含めて記事を全部まとめたものがあるよ」
「言えるわけないでしょう。まるで、そういうの目当てで天文連合に近付いたみたいじゃない。下心があるなんて思われたくなかったの。
……でもそれは素直に読みたいわ。お願い、後で全部貸して頂戴」
はあ、と息をついて、サンはようやく顔を上げる。
「その記事でね。一つ、とても強烈に印象に残ったものがあったの。
ブラックホールについて書かれたものだった。中に取り込まれてしまえば、たとえ光であろうと、外に出ることは敵わない。ひとたびその大きな闇の穴に落ちてしまえば、もう逃げることはできないのだと。
あなたの記事で初めてブラックホールの存在を知った時、とても恐ろしく寂しい存在だと思った。だけど、もっとずっと寂しかったのは。
この現象について、あなたは『まるで自分のようだ』と、そう書いていたのよ」
どきりとしてタンフウは口を引きつらせる。
実際にそう書いたかどうかは思い出せなかった。けれども論文と違い、口語で書かれた軽めの記事だ。多少、筆が滑ってしまった可能性は充分にあり得る。
やりかねない、と後ろめたい気持ちでタンフウは苦笑いした。
またもや両手を頬に当て、顔を隠すようにしながら、サンは視線を泳がせる。
「本当に、本当におこがましいことなのよ。だけど、その記事を読んで私は。まるであなた自身が、今まさに迷子になって、助けを求めているような気がして。
いてもたってもいられなくて。……一年くらい前に、私の言葉を、
――待っていて。私があなたを連れ戻してみせる。
唐突に、その言葉が甦った。
聖堂だけではない。
彼は、この言葉を、もっとずっと前に聞いていた。
タンフウは、はっと息をのむ。
「その時は今よりももっと考えが甘くて、現実なんて見えていなくて。だから、そんな言えたんだわ。
だけどね。後から気付いたのよ。まず普通の人は、そもそも
サンの言葉に後押しされるように、ほとんど忘れかけていた記憶が蘇る。
一年前、ユーシュの仮登録の手続きをしにやって来た王都で、街の雑踏の中から感じたもの。
確かに、何かから呼びかけられた気がした。
けれどもあの時は、何を言っているのかは聞き取れなかった。
「……そうか。王都でのあの呼びかけは、君だったのか」
「聞こえていたの!?」
「いいや。誰かに呼ばれた気がしただけだった。サンの言うとおり、僕は
だけど聖堂の時は、確かに君の言葉が聞こえた。
けど、サンの言葉は、一年遅れで僕に届いた」
照れくささ半分、不甲斐なさ半分で、サンは拗ねたように頬を膨らませる。
「随分と遅かったのね。意味がなかったわ」
「そんなことないさ」
彼女の手を取ると。
顔を覆ったその手をそっと外して、タンフウはサンを覗き込んだ。
「君は成功したよ。
僕を。光の当たる世界に、連れ戻してくれた」
微笑んで、タンフウは優しくそう告げた。
ありがとうの言葉は、出なかった。
たったそれだけで、自分の気持ちを伝えられるとは、到底、思えなかったのだ。ふさわしいとは思えなかった。
だからこれから時間をかけて、ゆっくりサンに伝えていこうと、タンフウは密かに思った。今の彼が彼女に伝えられる言葉は、これが精一杯だった。
無言で、サンはタンフウの顔を見上げる。
と。背後から、二人ともがばりとユーシュに肩を組まれた。
「よう。いつまで外で喋ってるんだよ」
「ユーシュ」
抱きつかれるまで気配を感じられなかったので、驚いてタンフウは声を上げた。
ユーシュはタンフウの方に顔を向け、ちろりと舌を出す。
「意図的に邪魔をしに来た」
「何をだよ?」
「分からないならそれはそれで都合がいいからそのままのお前でいろ」
眉をひそめ、サンはユーシュの肩を押しやる。
「ちょっと。近いわよ」
「なんだよ。人がせっかく親愛の情を示してやっているというのに」
「あなたの親愛には少々疑義があるわ」
「なんだ。まだあの時のことを根に持ってるのか。ガタガタ騒ぐなよ、キスくらいで」
ユーシュの言葉に、ぎょっとしてタンフウは声を荒げる。
「お前。手は出してないって言ってたじゃないか」
「頬にするのは、手を出すうちに入らないだろ。ただの挨拶だ」
「人の純情を弄んでおいてよく言えるわね」
サンは仕返しとばかりにユーシュの頬をつねる。
だが反対に、鼻をつままれてしまい、彼女は顔をしかめた。
「純情なままだとお前が苦労するだろ。こと貴族の社会なんざ、夫婦で仲睦まじく、なんてのが幻想なんだ。適当なところに愛人でも作っておく気概くらいなきゃ、お前の息が詰まるぞ」
「余計なお世話よ」
ユーシュの腕を振り払って逃げ、サンは口を尖らせた。
タンフウは苦言を呈する。
「本当にやめろよユーシュ。お前らの立場が明確になった以上、何かあったら洒落にならないからな。僕の目が黒いうちは、もうそんなことさせないぞ」
「お前の目、青いだろ」
「言葉の綾だよ」
渋面でタンフウはユーシュを軽く睨んだ。
だがその苦言はほとんど意に介さず、ユーシュは飄々として後ろ手を組む。
「それより、早く戻れよ。あいつらが待ちわびてる」
「そうだそうだ。一刻も早くお嬢ちゃんの飯を食べさせてくれよ」
もう一つ、別の声が混じり、タンフウはユーシュの背後に目を向ける。
「いつの間に来たんだ、ナギ」
「今だよ。そろそろ宴が始まりそうな気配を嗅ぎつけてな」
人型のナギは、にやりと口元に笑みを浮かべ、舌なめずりした。
今のナギは、狐ではなく人の姿だ。妖しげな切れ長の瞳に長い睫毛、すっと通った鼻筋。夜の漆黒のように艷やかな黒髪を垂らした、神秘的な雰囲気を湛える美女である。
着ているのは、サンと同じく白いシャツに狐色のベスト。ただしナギが履いているのはスカートではなくズボンだ。最初に人間の姿になった時と同じ格好だったが、学習したのか、服の大きさはきちんと合っている。
それでも、シャツを押し上げる豊満な胸と、ぴっちりと現れる太ももの線とが、肉付きのいい体型を目一杯に主張している。
興味深そうに、サンはまじまじとナギを見つめた。その視線に気付き、タンフウは首を傾げる。
「どうかしたの?」
「ナギの人の姿を見たのは初めてだから。……それにしても」
探るような目付きで、彼女はタンフウに尋ねる。
「好みなの?」
「何が?」
「ナギの見た目」
その問いに、言葉を詰まらせた。
「……霊狐にだって個性がある。人に化ける時もある程度、見た目は個体に左右され」
「いや、割と自由に変化できるぞ。髪だって新年祭の時は便宜上、金にしてただろ。おれの好みもあるけど、見てくれは主人の好みに合わせて」
「お前は黙っていろ」
強い口調でタンフウはぴしゃりと遮った。
ナギとサンとを見比べて、ユーシュは真顔で言う。
「系統はお前と真逆だな。妖艶な美女と、
「馬鹿にしているの?」
「褒めてるんだよ」
「よく言うわ。なまじあなたに言われると余計に嫌味よ」
サンは軽くユーシュを睨んだ。
ユーシュの前に進み出て、ナギは人懐こくサンの両手を握り、ぶんぶんと振る。
「なあ、聞いてくれよ。こいつら、ツヅキの坊っちゃん以外はろくな飯を作らねぇんだ。いくらおれが狐だからって、まるで飼い犬にやるみたいな飯を食わせやがって」
「それを常日頃から食べている僕たちの立場とは」
呆れてタンフウは口を挟むが、ナギはそれを無視する。
「だからおれは、物凄く今日を楽しみにしてたんだ。嬢ちゃんが来るのを指折り待ちわびてた」
「ありがとう。だけど今回は、私も一応はキュシャとして働くことになるから、毎日というわけにはいかないわ」
「ちぇっ、なんだよ。何日かは相変わらずしょんぼり飯か」
「大丈夫よ。フウカが作れるもの。彼女は私の侍女だから、もっぱら家事は彼女の役目になるわ」
「そいつぁ僥倖だな! そっちの嬢ちゃんもろとも、よろしく頼むよ」
ナギは快哉を上げ、サンに抱きついた。おそらく狐の姿であれば、尻尾をぶんぶんと振っているのだろう。
ユーシュはからかうような口調でサンに言う。
「キュシャになるくせに侍女付きとは、いい御身分だな」
「逆よ。条件付き。そうじゃないと許してもらえなかったの。フウカとツヅキがいて、ようやく許可がおりたんですからね」
「それくらい分かってるよ。拗ねるな」
「拗ねてなんかいません」
しかしサンはユーシュから顔をそむけ、そっぽを向いた。
天文台へ戻る途中。不意に、ナギが足を止める。
「随分と変わっちまったな、タンフウ」
背後からかけられた声に、タンフウも立ち止まった。
「変わったって。どこのことだ」
「全部だよ。環境も状況もお前自身も、すっかり様変わりした。
おれがあんたを見出した頃とは大違いだ」
昔の自分のことを思い出し、タンフウは「そうだな」と苦笑いする。
「ただ。僕が何よりも望むのは、平穏な生活。それは今でも変わっちゃいないさ」
「それじゃ、あんたは。今度は、今の平穏な生活を変えないためにおれを使うのか」
その問いかけに、一瞬迷う。
「……いくらお前がいたって。ずっと、永遠にこのままというわけにはいかないさ。
人の世は不変じゃいられない。いつか僕らだって、離れ離れになる時は来る」
――タンフウ。世界は移ろうぞ。
脳裏に、シナドの言葉が蘇る。
シナドの処遇は、まだ決してはいない。しかし前回の罪状と合わせて、おそらく死罪は免れないだろう。
父がしたことを、父にされたことを、許せはしなかった。彼とフウカにとってほとんどの不遇は、父親から端を発しているのだ。一朝一夕に折り合いをつけられるものではない。
それでも未だにタンフウは、父親のことを、心からは憎みきれずにいた。
そして父から向けられた言葉を、全てを全て、消化しきれてはいない。
だが。
「……知っているさ」
独り言のように呟き。
前を歩くサンとユーシュの背中と、天文台とを眺めて、彼は誰にともなく告げる。
「けれど移ろうさなかで、『平穏』を勝ち取る為に、僕らは変わっていくんだ。
……そうだろう?」
ナギは答えない。
ただ、にんまりと笑みを浮かべて。にわかに狐の姿に戻り、ぴょんと彼の肩に飛び乗った。
天文台を、春の風が包み込む、
果てない空を巡る風が、彼らのアカデミカを静かに吹き抜けた。
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