終章:新しい風
彼らは平穏に時を重ねる(1)
タンフウが天文台に来てから、五度目の春がやってきた。
冬を超え、新たに芽吹いた緑が目に眩しい。春の到来を喜ぶ鳥たちがさえずり、森の中を吹く風は穏やかだった。
春の日差し麗らかな、とある日の昼下がり。天文連合および史学会改め、精霊文理科学総合研究所の五人は、これから訪れるはずの来客を待っていた。
食後の紅茶を全員が一通り飲み終えた頃。玄関にノックの音が響き、タンフウは扉を開ける。
外に立っていたのは、ユーシュの妹であるザザだ。後ろには、彼女と同じく怪盗ジーザの一角であるジジとヴィヴィの姿もあった。
タンフウと挨拶を交わした後、そわそわとザザは部屋の中を覗き込む。そして、ユーシュの姿を認めるや、喜び勇んで中に飛び込んだ。
「お兄様っ!」
ウサギの跳躍が如く、ザザはユーシュに飛びつく。
「わーいっ、お兄様お兄様お兄様っ!」
ザザはユーシュの胸に顔を埋め、猫のようにすりすりと顔を擦り付けた。
唖然とする他の四人に構わず、当たり前のようにユーシュはわしゃわしゃとザザを撫でる。
「おー、ザザ。随分とまた威勢がいいな」
「だってだって、正面きってゆっくりお兄様に会えるのなんて久しぶりなんだもの! あいつらのせいで、この辺にはずっと近づかないようにしてたし」
膨れ面でザザはユーシュを見上げた。
愛しげに彼女を見つめて微笑み、ユーシュはザザの頬を撫でる。
「そうだな。ザザには迷惑をかけっぱなしだ。本当に悪かった」
「お兄様は何も悪くないわよ! 悪いのは全部、お兄様に近付こうとする連中だもの。壊滅しちゃった方がいいんだわ」
「ほどほどにしておけよ。目立つとまた面倒だ」
「はぁい。お兄様がそう言うなら」
にこやかに答え、ようやくザザはユーシュから離れた。
二人のやり取りが一通り終わったのを見計らい、ジジがザザの後ろから顔を出す。
「お
その声を聞くや、ユーシュの拳がジジのみぞおちに飛んだ。
ユーシュは長い足を振り上げると、それをどかりと彼の肩に載せる。両手はポケットに入れ、自分よりやや背丈の高いジジを斜め下から凄んだ。
「今なんつった。あぁ? 俺は貴様のような義弟をもった覚えはねぇ」
「やだなー可愛い義弟くんのことをお忘れですかお義兄様」
「そんな存在この世にいねぇっつってんだろそれとも貴様は既に死んでいるのか成仏できねぇなら今ここで俺が直々に止めを刺してやろうか」
「いやだなーこんな平和でのほほんとした日に殺傷沙汰は勘弁ですぜー」
「遠慮はするな二度と墓下から蘇らないよう心ゆくまで屠ってやろう」
「そうだおにい……ジャキ様、本日は貴方様のお好きな緑茶をお持ち致しました是非ともティータイムにどうぞ」
「よし命だけは助けてやろう」
「ありがとうございやっす!」
ユーシュの足がどけられ、ジジは息をついて額を拭う。
早速、ジジから献上された茶葉を上機嫌で受け取ったユーシュだったが。炊事場に向かいかけたところで、何かを察したように素早く振り返ると、流れるような仕草でジジの胸ぐらを掴み上げた。
「粛清を免れた側から何してやがる汚ねぇ手でザザに触るなクソ野郎」
「ハッハッ何をおっしゃいますやら紳士たる俺がまさか触るだなんて」
「今さり気なくザザの肩を抱いたろうが触感がねぇならその腕は不要だよなぁ俺が直々に切り落としてやろうか」
「あれぇ流石お義兄様、実に目敏い!」
ユーシュは鋭い眼差しを向け、ほとんど額が付いてしまうくらいの至近距離でジジを覗き込んだ。
「ジジてめぇ。俺はあの時のことだって許しちゃいねぇんだぞ。お前が着いていながら、みすみすサンを連れて行かれやがって。貴様の目玉はどこについている。あん?」
「それに関しては申し開きもございませんです……」
「無事だったからいいものの二度目はないと思え。今後もしザザに怪我の一つでも負わせてみろ。どうなるか分かってんだろうな」
「八つ裂きくらいじゃ済まなさそうですね!」
「百つ裂きくらいで解放されると思うなよ?」
彼のものとは思えない、低く威圧する声で言ったところで。ようやくユーシュは、その手を緩めて顔を離した。そこで不意にタンフウと目が合い、ユーシュは硬直する。
そっと彼はジジを掴んでいた手を離した。
タンフウは苦笑いする。
「……過激だな」
ユーシュは先ほどまでのドスの利いた声から一転、いつもの口調に戻る。
「……何もしてない」
「いやそれで何もしてないって」
「俺は何もしていない」
「別に猫を被らなくても、ユーシュの本性は大体分かってるから大丈夫だよ」
「てめぇの所為だぞジジ!」
再び声を荒げ、ユーシュはジジの胸ぐらを掴み上げた。
「責任転嫁よくないですお義兄様!」
「お義兄様じゃねぇっつってんだろうが!」
「君は君で、火に油を注ぐのが本当に得意だな……」
呆れを通り越して、むしろ感心したようすでタンフウはジジへの感想を述べた。
ユーシュから解放された後、首元をさすりながら不思議そうにジジは言う。
「何? どういうこと? 今の」
「お兄様はね。気を許している人ほど、あれを見られるのを嫌がるのよ」
「ザザ、お前も余分なことを言うんじゃあない」
息を吐きだして、ユーシュは頭を抱えた。
今度はタンフウが不思議そうに首を傾げる。
「初対面がああだったのに、今更それを隠すことかよ」
「だって恥ずかしいだろ」
言って、ユーシュはいつものように舌を出してみせた。
事が一段落したのを見届け。ようやくヴィヴィがタンフウの後ろからひょこりと顔を出す。
「ジャキ様、お久しぶりです。どうも」
「ようヴィヴィ。いつもこいつらのお守りを悪いな」
「いえ。姫様と馬鹿ジジの扱いは、慣れてますんで」
無表情のまま、ヴィヴィは両手でピースを立ててみせた。
彼とユーシュとを見比べながら、ジジは釈然としないようすでぼやく。
「俺との扱いの差!」
「ヴィヴィはお前と違ってザザに手を出さねぇからな。俺の可愛い
「おっかしいなー理不尽だなー」
「てめぇの胸に手を当てて日頃の行いをよく考えてみろ変態野郎」
手こそ出さなかったが、唸るようにそう言ってユーシュは静かに睨みを飛ばした。
タンフウはそっとヴィヴィに話しかける。
「この前は時間がなくてあまり話せなかったけど。
今までありがとう。君のおかげだ」
「いえいえ。ジャキ様の頼みですし、僕にかかればこれくらい造作もないことです」
やはり表情筋は動かさず、ヴィヴィはぐっと親指を立ててみせる。
タンフウが手紙のやり取りをしていた人物は、他ならぬヴィヴィだ。彼がフウカの情報を集め、定期的にタンフウに報告していたのだ。
彼のみならず、ザザとジジも含め、彼ら三人がフウカのことを調べてくれていた。怪盗業がどうしても目立ってしまうが、彼らの本分はこういった地道な情報収集など、もっと別のところにあるらしい。とはいえタンフウもそれ以上、深いところは聞かなかった。
しかし実際に会ってみると、世間の印象と彼らとがあまりに乖離しているので、どうにも拍子抜けするタンフウである。
しばらくして、再び天文台の扉が叩かれた。
次に現れたのは、フウカだ。
サンに扮していた新年祭の時には、彼女と同じ色に変えていたが、もうその必要はないからだろう。今はタンフウと同じ、黒髪に青い眼だった。
「誘ってくれてありがとう兄さん。でも私まで呼んでもらって、よかったの?」
「当たり前だろう。何も気にすることはない。入れよ」
扉を大きく開け、タンフウは妹を招き入れる。
フウカは遠慮がちにおずおずと数歩、部屋に踏み入ったところで。
本棚の前で座り込む人物の姿を見咎めて、すっとその目を細めた。
「……兄さん。兄さんに誘ってもらったこと自体はとっても嬉しかったんだけどね。
それともう一つ。今日は私、軟弱者と朴念仁を殴りにきたの」
「殴……?」
その台詞が飲み込めずにいる兄の横を通り過ぎ。
フウカは、読書に没入するショウセツの背後に立った。
しかし彼が顔を上げる気配がないのを確認するや。彼女は近くの机に積み上げてあった本の一冊を手に取り、それを思い切りショウセツの頭に振り下ろした。
「いっつ……!」
「私が来たっていうのに目も向けないなんていい度胸じゃないハクレン」
頭を擦り、ショウセツは冷ややかな視線を落とすフウカを見上げた。
それでようやく彼女の来訪に気がついたようで、ショウセツはぼんやりと呟く。
「……シースィ?」
「フウカよ」
「フウカ。いらっしゃい」
「どうも。……じゃあないのよっ!」
「ぐっ」
二度目の攻撃は、手にしていた本で防いだ。だがそれが余計、フウカの癇に障ったようだ。
彼女は本を机に戻すと、ショウセツの襟ぐりを掴み。
ひょいとショウセツを背負い上げ、そのまま肩越しに投げ飛ばした。流石に加減はしたようで、飛ばした先はクッションの積み重なった絨毯の上だ。
ぱんぱん、と埃を払うように手を叩くと、フウカはクッションに埋もれたショウセツを眺めながら厳しい口調で言う。
「相変わらず体幹は鍛えていないようね、ハク」
「……キュシャには必要ないからな」
「だから舐められるんだよ。少しは動けよ軟弱者」
「受け身は取った」
「あれだけ教えたのに忘れてたら、それこそ怒るわよ」
気が済んだのか、溜飲は下げたようすで、彼女はショウセツを助け起こす。
しかし来客のために紅茶を淹れたツヅキが戻って来ると、再び空気は張り詰めた。
「あぁ。タンフウの妹さん?」
何気ないツヅキの言葉に、ひくりと、フウカの口角がひきつる。
彼女は、また鋭い眼差しを浮かべると。
「ツヅキぃ!」
一足飛びでツヅキに詰め寄った。
「あんた本気なのね。やっぱ本気なのね。本ッ気であたしのこと忘れてるのね……?」
「え……?」
「きょとんとするんじゃないわよ! 夏の時期はあれだけ一緒にいたのに忘れたの!?」
「夏って、……もしかして、シースィ?」
「そうよ! あの日は王宮だったから我慢してたけど、どうして気付かないのよこの朴念仁! ハクより悪いわ!」
「だって。相当、久しぶりじゃないか」
「それでもハクはすぐに気付いたわよ!」
うろたえるツヅキに、しかしフウカは彼の胸に指を突き立て、なおも詰め寄った。
騒ぎから逃れるように、セイジュがそっとタンフウの側へ寄ってくる。
「お前の妹すごくない?」
「……僕が最後に会ったのはまだ一桁の時だから」
タンフウは呆然と彼らのやり取りを見ながら、寂しそうに呟いた。
二人が別れたのは、まだフウカが学校にも通い始める前だ。ほとんどタンフウは彼女のことを知らないに等しい。
だから、彼の知らない時代のフウカを知る二人のことが、少しだけ妬けた。
「シースィは……フウカは、影武者としての教育を受けているからな。体術も一通り身につけている。引きこもっている俺たちよりよっぽど強いぞ」
先ほど投げ飛ばされたショウセツが、矛先がツヅキに向いたのをいいことに、二人のところにやってきた。
「というか。三人は面識があったんだな」
「前にも少し話しただろセイジュ。俺とツヅキは子どもの時に会っている。それはフウカを介してなんだよ。
俺と知り合ったのは偶然だけど、いずれリーリウム家に行くのが分かってたからか、ツヅキとフウカは家同士で引き会わされてたんだ。勿論、いずれ侍女として奉公するって名目で、影武者のことは伏せてたんだろうけどな。
しかしそれでこの有様なんだから、フウカが怒るのも無理ない。昔からだが、どうにかならないかあの鈍感は」
ショウセツは肩をすくめた。
シースィというのは、引き取られた先でフウカが使っていた名前だ。
母親が死に養親に引き取られた後、彼女は元々の名である『フウカ』を捨てさせられ、『シースィ』として過ごしていた。住む場所が変わったとはいえ、シナドの娘の名をそのまま名乗るのは不都合があったのだろう。以来ずっと、彼女が名乗っていたのはシースィの方だ。
しかし、もう本名を隠す必要はない。今は侍女として正式に仕えるようになったリーリウム家でも、フウカを名乗っている。
フウカたちと、その奥にいるザザたちを他人事のように眺めながら。
ふと、ショウセツは思いついたようにタンフウへ目を向けた。
「タンフウ。一つ、聞いておきたいことがある」
「なんだ?」
「お
「ふざけるなよ馬鹿野郎」
さっきまで笑って見ていたユーシュたちのやり取りが、途端に差し迫ったものになり、タンフウは語調が乱れた。
「どうして大して年の変わらない、こんな図体の大きい義弟ができなくちゃいけないんだよ」
「婚姻とはそういうものだろう」
「お前、数ヶ月前に酒場でほざいてたこと覚えてるか!?」
「日々、世界は移り変わるものだからな」
「もっともらしいことを言うなよ。せめて本人の了解を取り付けてから出直してこい」
「本人の了解か……一番難しいやつだな……」
「一番大事なやつだよ」
じと目でショウセツを睨むと、彼は軽く両手を上げてみせ、またフウカの方に戻っていった。虚を突かれたせいか、疲弊してタンフウはため息を吐き出す。
ショウセツが去り、タンフウとセイジュの二人になった。
セイジュは、ちらりと彼を横目で伺うと。おもむろにタンフウに告げる。
「……ありがとうな」
「何が?」
「今更になっちまったけど。……全部だよ」
視線は合わせず、手にしたティーカップに落としたまま。
ぽつりと、セイジュは言う。
「研究所のことも。セツのことも。サンのことも。
……俺を、受け入れてくれたことも」
気持ちを落ち着かせるように、セイジュは一口、お茶を飲む。
黙ってタンフウは、その続きを待った。
「セツに聞いたと思うけど。
……俺は、本当に怖かったんだ。また、お前らと会うことが」
強盗が入り、セイジュが
「だけど。お前らはいきなりそっちから押しかけてきて、俺が弁解するどころか、それが特別なものだと意識させる暇すらくれなかったからな。
俺のせいでツヅキに怪我までさせちまったのに。お前らは、何事もなかったかのようにまた迎え入れてくれた」
「当たり前だろ。ツヅキのことはセイジュのせいじゃないし、
一応、あの手紙が来るまでは、お前の心情を考えてそっとしといたけどな」
「……お前。結構、俺に近いところにいたと思うのに、随分と男前になったよな」
「そうか?」
「そういうところだよ」
笑って、セイジュはようやく顔を上げる。
壁にもたれかかりながら、彼は話し声の響く居間をぐるりと見回した。
「俺は。史学会さえあればよかったんだ。一人二人、理解してくれる人がいれば、それ以上のことは望まなかった。
けど。まさか、こんなに賑やかな世界にいられるなんて、思いもしなかったよ。
お前らと会えてよかった」
しみじみと言うセイジュに、タンフウは彼らとの最初の出会いを思い返す。
「全ての始まりはお前だよ、セイジュ。セイジュが迷子になってうちに辿り着かなければ、僕らは互いに知らないままだった」
「そうだけどな。別にそれは偶然だ。俺の功績じゃないだろ」
「だけどセイジュのしたことなのは確かだ。利用できるものは利用しておけ」
「……そうか。確かにそうだな。それもそうか。崇めていいぞ」
「少しは遠慮しろよ」
いつもの調子を取り戻して言ったセイジュに呆れ。
タンフウは、朗らかに笑った。
「兄さん」
紅茶を淹れに炊事場にいると、会話の輪を抜けたフウカが静かに側にやって来る。
「外」
こっそりと短く告げられたその一言で、悟り。
タンフウはそっと、賑やかな部屋を出た。
戸外に出ると、暖かな風が彼を包む。高く昇った太陽にじりじりと空気が熱され、今日は長袖では暑いくらいだった。ベストの裾を掴んでばさりと振り、風を送り込む。
玄関から見えるのは、天文台をぐるりと取り囲む森ばかりだ。ここには天文台と森しかない。他にあるのは、彼らをいつも見下ろしている空だけだ。
彼から見て左手にある森の中。その木立の一つから、ひらひらと風にたなびくものが見える。史学会へ繋がる道を示す布だった。彼らを何度も導いたその道標は、けれども今後、ほとんど使われなくなるだろう。
冬の間は降雪で停滞していた引っ越しが、ようやく本日、終わったところなのだ。
今日から彼らは全員、この天文台と森と空しかない、ささやかで平和な場所で過ごす。
その史学会への道を前に、一人の少女が佇んでいた。
背中を覆う長さの栗毛に、すっと伸びた背筋。小柄なその体躯は頼りなく、少し離れた彼の位置からでも、彼女が随分と華奢であることが分かる。けれども一見、弱々しく見えるその少女が、彼の知る他の誰よりも強いことをタンフウは知っていた。
着ているものは見慣れた白いシャツに狐色のベストだが、下はスカートだ。けれども王都で見たドレスのような、派手なものではない。装飾がなく実用性だけを考えられた、簡素なものだった。
彼の気配に気がついて、彼女はゆっくりと振り向く。
タンフウの姿を認め、花のように微笑んだのは、彼らの大切な仲間であるサンだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます