6章:巡る風
サンは唐突な展開に驚愕する
しめやかに年が明けて数日。
数時間後に新年祭を控えたこの日の夕方。貴族たちの住む区画を見下ろす高台に、二つの人影が立っていた。
そのうちの一人、長い茶髪を一つにくくった青年は、先ほどからじっと望遠鏡を覗き込んでいた。露わになった耳には緑のピアス。快活で人懐こそうな面立ちの彼は、今現在も楽しげに鼻歌を歌っている。
開かれたままになっている彼の鞄から覗く小物の色や模様からは、派手好きの気配が感じられたが、しかし身につけているのはとりたてて特徴のない、地味な黒の外套だ。
貴族の邸宅が立ち並ぶ場所で、青年のように怪しげな行動を取れば、普通はすぐさま見かねた騎士が飛んでくる。
だがしかし、彼らを見咎める者は誰もいない。
やがて満足したのか、折りたたみ式の望遠鏡を畳んでポケットにしまい込むと、青年はおもむろに口を開く。
「それにしても。ザザが今回の話を素直に受けるとは思わなかったな」
「あら、どうして?」
彼の傍らに立っている少女は、小首を傾げて聞き返した。
外套の下から覗くのは、太もも丈の短いズボンにシャツという、動きやすさを重視した佇まいだ。長い金髪を一つにまとめて結い上げているが、髪に装飾品は何もついていない。
華やかな彼女の顔立ちとは対象的に、装いはやはり全体的に地味だ。その中で唯一、彼女を飾っているといえるのは、耳に揺れる青と黄のピアスだけだった。
青年は少女の顔色を伺うようにちらりと目をやる。
「だって、ザザ以外の他の女のことだぜ? 俺としては大歓迎だけど、ザザとしちゃむしろ、怒りに任せて彼女を逆に仕留める勢いかと思った」
「ジジ、言っておくけれど。お兄様はシスコンだけど、私はそこまでブラコンじゃないわ」
「そうか? いい勝負だと思うけどな」
「それはあなたの感覚がトんでるからよ。普通の人じゃ、あれだけお兄様に睨まれたら、とっくの昔に尻尾を巻いて逃げ出してるわ」
「俺の愛は普通じゃないからね」
「よく言うわよ、方々に色目を使うくせして」
「麗しい女性がいるのに口説かないのは失礼にあたるだろ」
「……またお兄様に叱ってもらおうかしら」
「ごめん。勘弁して」
軽く青年を睨みつけてから。気を取り直したように、少女は続ける。
「冗談はさておき。
お兄様が私以外の女に興味を示すなんて、有史以来の出来事だもの。お兄様が認めた彼女のことは、むしろ敬意を払ってしかるべきじゃない?」
「なるほど。確かにそうだな。珍しいこともあったもんだ」
少女の言葉に納得して、青年は頷いた。
彼は次に別のポケットから、今度は懐中時計を取り出す。
表に刻まれているのは、花を切り裂く鳥の紋章。
時刻を確認すると、彼は懐中時計をぱちりと閉じた。
「さぁて、時間だ。丁重にお嬢様をお迎えにあがるとしよう」
「言っておくけどジジ。間違ってもどさくさに紛れて
「おお、怖い怖い。うちのお姫様のご機嫌を損ねないよう、慎重に仕事しなけりゃ」
「普通にしてりゃ損ねないわよ、この女たらし。
それにそれに、今回の場合。彼女に手を出したら、怖いのはお兄様の方ですからね」
「……おお怖。殺されないよう、いつも以上に気を引き締めて参りますかね、っと」
汗を拭う素振りをして、鞄を担ぎ上げると。
彼はにっと笑い、リーリウム家の方角を見据えた。
*****
「……窮屈」
「我慢なさいませ」
サンの着付けをしながら、マリーは彼女の不満を一蹴した。
口を尖らせ、サンは諦めずに抗議する。
「ねえ。どうしていつもより一回りはきつく締め上げているのかしら」
「そういう指示ですので」
「新年祭なんて定例の顔合わせでしょう。わざわざドレスを新調する必要だってなかったんじゃないの」
「奥様が、とりわけ今日は念入りに美しく着飾るようにとの仰せですので」
「つまり私に拒否権はないのね」
「聞き分けのよいお嬢様は、こちらとしても大変助かります」
一番上まで紐を結んでドレスを着付け終えると、マリーはにっこりと笑う。
鏡ごしに彼女を見つめ、サンはため息をついた。
先日、冬至の夜会でドレスを仕立てたばかりだというのに、彼女の知らないうちに今宵の新年祭用にもまた新しいドレスが出来上がっていた。
今回は、自宅でよく着るものと同じ、
好きな色ではあったが、綺羅びやかな黄色を纏った彼女は、会場で否応なしに目立つに違いない。突き刺さるだろう視線と、これから待ち受けるだろう騒動を思って、自然とサンの口からはまたため息が漏れる。
彼女は夜に開かれる新年祭に向け、準備をしているところだった。
各所で仕事始めとなるこの日。昼は国王陛下が王妃を伴い、国民の前で簡単に年始めの挨拶を行っていた。
それとは別に、夜には貴族や近衛兵など王家の側近が集められて、顔合わせを兼ねた夜会が行われる。それが新年祭と呼ばれる催しである。
基本的には年初の定例儀式であり、政について具体的な話がされることはない。しかしその年、今後を大きく左右するとりわけ重要な事柄については、まずこの場で第一報が発表されることが慣習になっている。
長男皇子への皇太子位の譲位は、今日この場で公表されることとなっているのだ。
シナドの目論見を阻止するために彼らが動く、ということは聞いていた。しかし一種の軟禁状態であったサンは、具体的にどうするつもりなのか詳細を知らない。
何もできず、もどかしい思いを抱え、密かに彼女は強く両手を握った。
「支度が完了しましたね。リュセイ殿をお呼びいたします」
身支度が完成し、マリーは護衛の騎士を呼びに部屋を出た。ぼんやりと暮れかけた空を眺め、サンは今や遠く離れた彼らへ思いを馳せる。
すると。
ぱりん、と不意に窓の硝子が割れた。
ぎょっとしてサンは椅子から立ち上がり、壁際に避難する。
「何事ですか!?」
「窓から、何かが」
音を聞き、慌てて部屋に戻ってきたマリーは、部屋に投げ込まれたものに慎重に近寄った。
割られた窓の側には、拳大の灰色の塊が落ちていた。それには一緒に手紙がくくりつけられている。
マリーは慎重にその手紙を広げ、中身を確認する。
『今宵、リーリウム家に咲く高貴の花を頂きに参ります。
怪盗GiZa』
「怪盗ジーザ……!」
文面を読んだマリーは、口元を手で覆った。
サンは動揺しながらも、何かを考え込むように眉を寄せる。
その時。鍵がかかっていたはずの窓が、ばたりと音を立てて開いた。
窓に目をやると、そこには窓枠に手をかけ、一人の青年が立っていた。強く吹き込んだ風が、部屋のカーテンと彼の長い髪とをなびかせる。
マリーはサンを庇うように前に進み出るが、しかし手紙とともに投げ込まれた礫から突然、煙が吹き出し、彼らの視界と呼吸とを奪う。
二人が咳き込んでいると、窓から侵入した青年は素早くサンの元へ降り立ち、彼女を抱き上げた。サンは身を固くするが、しかし青年は人懐こそうににこりと笑みを浮かべる。
「やあ、お嬢さん。お怪我はないかな。驚かせて申し訳ない。
悪いけど。ちょいと大人しくしててくれよ」
そう言いおいて、青年は懐から取り出した瓶の中身をサンの顔に吹き付ける。
途端、くらりと意識が飛んだ。
眠ったサンの体を抱き上げ直すと、再び青年は窓辺に躍り上がる。
「突発だったが許してくれ。ちょいとばかし時間がなかったもんでね。
というわけで、予告どおり。サンカお嬢様は頂いていくぜ」
そう言い残し、青年は窓から飛び降りる。
マリーは急いで窓に飛びつくが、しかしそこへ既に彼らの姿はなかった。
騒がしい会話が聞こえ、意識が戻る。
うっすらと目を開けると、石造りの天井が目に入る。どこか見覚えのある光景に、一体なんだったかと内心で首を捻っていると。
気付いた青年が、サンの顔を覗き込んだ。
「おや、お目覚めかな
「あんたはすっこんでなさいよ。話がややこしくなるわ」
しかしサンに近付いた青年は、金髪の少女に思い切り頬を押しやられた。
頬を抑えながら彼は肩をすくめる。
「つれないなぁ。ちょっと挨拶しただけじゃないか」
「お兄様に言いつけるわよ、ジジ」
「ごめんなさい」
大人しくジジと呼ばれた青年は下がる。代わりに少女の方がサンの顔を覗き込んだ。
警戒してサンは身構えるが。
彼女の顔を見て、目を見開く。
「お久しぶりね、サンカ様」
「……ユーカ様!?」
「覚えて頂いていたようで光栄だわ。でも今のわたくしは、その名前だと不都合がありますの」
本物のユーカ・ケラススその人は、唇に人差し指を当ててにこりと微笑む。
「今のあたしは、ザザ。
街を騒がす怪盗ジーザの片割れよ」
二重に襲ってきた驚きに、戸惑ってサンは何も言えない。
しばらく、ぱくぱくと口を開け閉めしてから、ようやく彼女は尋ねる。
「……どうして。何故、ユーカ様が、怪盗ジーザを」
「ザザでいいって言ってるじゃない」
不満そうに彼女、ザザは頬を膨らませる。
「まあ、今じゃ世間を賑わす怪盗ってことになっちゃったけど。別にそんなつもりじゃなかったのよ。
そもそも私たちは、怪盗ジーザなんて名乗った覚えはないのよね。ちょっと当てつけのつもりでジジと名前の頭文字のサインを入れたら、それがそのまま怪盗の通り名になってしまったのよ」
今度は反対に、ザザが小首を傾げてサンへ尋ねる。
「ねえねえ、サンカ様は私たちの噂をどこまで知っている?」
「噂?」
「世間ではいろいろ言われているでしょう。義賊をしているのは民衆を味方につけたいからだとか、本業を隠すための偽装工作だとか。
けれども大体全部、間違いよ。変な目的なしに、私たちは好き勝手やってるだけだもの。
そもそも根本からして、二人組じゃなく三人組なのよね。今は別件で、ヴィヴィは席を外してるけれど。
けどね。侮れないもので、噂の中で一つだけは本当のことがあるのよ」
彼女の言ったことと、自分の知っている情報を照らし合わせ。
一つだけ、否定されていない噂に思い当たる。
「……怪盗ジーザは、ジェイ家の人間である?」
「ご明答!」
ぱん、と手を打ち合わせて快哉を上げる。
「つまりつまり。私たちは。お兄様に頼まれて、あなたを助けに来たの」
「……お兄様って。もしかして、まさか」
「そのまさかよ」
息をのんで、ザザを見返す。
同時に、遅れてサンはようやく気が付いた。
今、彼女が寝かされている場所。
それは少し前まで足繁く彼女が通っていた、天文連合の居間であることに。
馴染んだその場所のソファーに、彼女は寝かされていたのだった。
「私たちはユーシュお兄様に頼まれて、あなたを誘拐してきたの」
言葉を失い、サンはザザを見つめた。
二人の会話を黙って聞いていたジジが、ソファーの背に肘をのせて、ひょこりと顔を出す。
「ザザぁ。それ、明言しちゃってよかったんだっけ」
「別にお兄様に頼まれたことを口止めされてはいなかったでしょう?」
「そっちじゃないよ。ジェイ家の方」
「あ」
あんぐりと口を開け、ザザはしばらく固まった。
やがて焦燥した様子で、彼女は両手を合わせてサンに懇願する。
「……ごめんなさいサンカ様、内緒にして……」
「私に謝られても……」
「本当に悪気はなかったの……どうかお兄様には内緒にしておいてくれるかしら、お兄様をがっかりさせたくないのサンカお姉様……」
「どうしてお姉様になるのよ……」
ジェイ家と聞いて、警戒心が高まったのは事実だ。
しかしどうにも毒気を抜かれてしまい、遂にサンはくすりと笑った。
「私もサンでいいわ。堅苦しいのは私も嫌いなの」
「本当? ありがとう、サンお姉様!」
「だからどうしてお姉様なのよ」
苦笑してから、サンは不思議そうに聞く。
「けど。どうして誘拐なんて? 確かに今日について、何か考えがあるようだったけれども」
「あなたの身柄さえ確保してしまえば、ひとまずあなたは安全だから。
それに。怪盗ジーザが予告状を出して攫ったのなら、一定の信憑性はあるでしょう? 私たちが本物を連れ去ってしまえば、会場にいる人物はあなたの偽物だと証明ができるもの」
ザザの説明に、サンは唇を引き結んだ。
「だけど。私の身代わりになっている子は、タンフウの、友達の妹なのよ。私は大丈夫でも、このままでは全ての責任が彼女にいってしまう」
「大丈夫。不安に召されますな、お嬢さん」
サンの手を握り、ジジは流れるような仕草で彼女の手の甲に口づける。
「そっちはそっちで、あなたのお仲間が手を打っている。ご心配には及びません」
「……よっぽどお兄様に捻り潰されたいようねジジ」
「やばい条件反射だ!」
ザザに背中を踏まれながら、頭を抱えてジジは大仰に悲鳴を上げた。
******
サンカ・リーリウム嬢が怪盗に攫われたという話は、瞬く間に屋敷中を駆け抜ける。リュセイは方々へ指示を飛ばし、その対応に追われた。
一通り成すべきことを済ませたところで、ようやく立ち止まり、彼は悪態をつく。
「くそ。……よりによって、こんな時に」
「何が『こんな時』なの、兄さん」
背後から聞こえた声に、信じられない思いで振り返る。
そこに立っていたのは、彼の弟。
少し前に天文連合に戻ったはずの、ツヅキだった。
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