ユーシュは厳かに手の内を開示する

 目の前の人物は、彼の記憶の中にいる姿とほとんど変わらない。少なくともタンフウにはそう感じられた。

 つい先程まで、ほとんど薄れていた面影。しかし実際に本人を目の当たりにすることで、おぼろげだったはずの記憶と、現在の彼の姿とが、ぴたりと重なり合う。


「父さん。どう、して。……まだ、生きて」


 かつてタンフウはサンに『父親は死んだ』と説明した。後にそれは正確ではないと告げたが、最初の話とて嘘をついたつもりはなかった。事実これまで、既に父親は死んだものと彼は信じていたのだ。

 皇太子の暗殺未遂という反逆罪により、国外に逃げ延びた父は、その先で野垂れ死んだと風の噂で聞いていた。

 それが今更になって再びタンフウの前に現れるなど、夢にも思わなかったのだ。


「私は死んだと噂されていたか。そうだろうな」


 微かに口元へ笑みを浮かべながら、彼は深く響く声でそう言った。まるで暗闇の中で包み込まれていような心地のするその声は、幼いタンフウがとても好きだったものだ。

 会うのは実に十数年ぶりであったが、間違いなく彼の父親、シナド・ミカゼその人であると確信する。


 会えると信じていたわけではない。しかし、もし父に会えるとしたら、言いたいと思っていたことは山のようにあった。

 母親のこと、妹のこと、そして自分のこと。父のせいで背負わされた積年の苦労も、最期まで父を案じ続けていた母のことも、幼くして離れ離れになってしまった妹のことも、語りたいことはいくら話しても足りないほどにあった。

 だが彼の口をついて出たのは、自分自身でも意外な言葉だった。


「父さんは。……本当に、反逆者なの」


 ほとんど無意識のうちに。

 まるで縋るような口調で、問いかける。


「本当に、父さんが皇太子殿下を暗殺しようとしたの」


 そのまま一思いに続けたかった言葉は、かろうじて飲み込む。



 ――きっと、嘘だったんでしょう。何かの間違いだったんでしょう?



 心の奥底で。彼は、ずっと信じたかったのだ。

 本当は、父は無実なのだと。

 優しかったあの父は、何一つ、罪は犯していないのだと。


 死んだ母親が最後までそうであったように。彼もまた父のことを、どこかでずっと信じていた。

 表向きは父への感情を押し殺しながら、彼本人も気が付かないような心の奥深いところで、ずっと信じ続けていたのだ。


 しかし父親から返ってきたのは、突き放すにも似た無慈悲な一言だった。


「今の王家からすれば。私は紛れもない反逆者だろうな」


 その言葉に、くらりと目の前が霞む。視界に入った、敵意を剥き出しにする霊狐の姿のおかげで、なんとか持ちこたえ。

 震えそうになる声で、言い募る。


「どうして暗殺なんか!」

「殺すつもりは、当初から毛頭なかった。勝手にあちらが暗殺未遂だと思っているだけだ。

 私は、失敗などしていない」


 そう言うと。彼の背後から、ぴょんと、もう一匹の霊狐が姿を現した。タンフウの側にいるそれより一回り大きく、線が細い。

 その姿を認めると、タンフウの肩に乗る霊狐は一層、唸り声を増した。

 肩に飛び乗った霊狐を一撫でしてから、シナドは続ける。


「あの時。皇太子に精霊を憑けることこそが目的だったのだからな」

「精霊を、憑ける……?」


 霊狐とシナドとを交互に見つめる。

 タンフウの疑問には答えず。彼は、おもむろに空を仰いだ。


「まもなく、時がくる」


 両手を広げ、空に煌々と輝く太陽を指し示す。

 真冬の太陽は、夏のそれより弱いとはいえ、それでも強く地上へ熱を伝えた。外套を着込んだまま話し続ける彼らは、服の中でじわりと汗をかく。


「かつてアンゼローザ陛下が未曾有の危機に立ち向かったのは、太陽の極小期に近かった。故に精霊たちは、我々の文明とともに廃れることとなってしまったのだ。

 しかし。時は巡り、風はまた女王陛下のために吹いている。今こそ好機だ。

 ほどなく太陽は極大期を迎える。そうすれば、世界は太古の昔に栄えた精霊と人との絆強きあるべき姿を取り戻すだろう。

 他ならぬ我らが太陽、本来玉座におわすべきサンカ・リーリウム皇女のお力によって」


 何を言っているのか理解はできないまま、しかしサンの名前にタンフウはびくりと反応し。

 恐る恐る、掠れた声で尋ねる。


「……まさか。史学会を襲ったのは、父さんの仕業なのか」

「いかにも」


 上げた手をおろし、右腕を地面と平行に掲げる。肩から腕へ霊狐が移り、それから地面に飛び降りた。


「ここしばらく。ランにずっと見張らせていた」


 ランと呼んだ霊狐をちらりと一瞥し、シナドは続ける。


「まさか他でもない皇女御本人が出入りしているとは思わなかったが。今後のために静観させてもらったのだ。

 お前たちに邪魔されるとは、予想外だったがな。彼ら二人を移送した後、直々に私がお迎えにあがるつもりだった。

 いや、予想外だったのは殿下の行動力だな。アンゼローザ陛下によく似ていらっしゃる」


 告げられた内容を、にわかに飲み込むことはできず。タンフウは動揺して一歩、後ずさる。


「サンに、何をさせるつもりなんだよ」

「それは先ほどお前らも結論を出していただろう」


 背後の史学会を振り返り、シナドは感嘆混じりのため息を吐き出す。


「念には念を入れ、禁書を処分するよう指示したが。まさかこうも短い時間で、一から十まで見破られるとは思わなかった。なかなか聡いな、お前の友人は」

「……本当に、サンを女王に据える気なのか」

「他に何がある。

 しかし、全く惜しいことをした。あの時に成功していれば、心優しい殿下ならば、きっと仲間を助けるためならばと、諾と返事をして頂いたに違いないからな」


 淡々と放たれた言葉に、ぞくりとする。

 もし、サンがあの時に逃げ延びなければ。彼女はショウセツとセイジュを盾に、彼らに与することを強要されていたのだろう。

 タンフウの反応に、僅かに眉を下げ。言い含めるようにシナドは告げる。


「仕方がないのだ。本来であればよくよく話をさせて頂いた上で納得いただくのが筋だが、時間がない。

 皇太子が皇太子でいるうちに片を付けねば、折角の仕込みが無駄になる。機は今しかない」

「皇太子が、皇太子でいるうちに?」

「言っただろう。精霊を憑けた、と。

 精霊は、適する者には益をもたらすが。適さぬ者には、毒だ。皇太子が長年伏せっている原因は病ではない。私の憑けた精霊の為せる業だ。

 そしてそれは私の命により、本人の意思とは無関係に暴れだす。まるで古来から疎まれた『悪魔憑き』『狐憑き』とばかりに」

「……まさか」

「そのまさかだ」


 ショウセツから聞かされた、禁書の内容が不意に思い出された。

 タンフウの嫌な想像を肯定し、シナドは朗々と続ける。


「狂った悪魔となり果てた皇太子を打ち倒し、サンカ皇女は民衆に支持され玉座へと登る。

 かつてとまるきり逆のシナリオだ。失われたアンゼローザ陛下の威光を、名誉を、今こそ取り戻すのだ」

「今更そんなことをして、どうなるっていうんだよ!」

「いくら綺麗に見える世界も、流れが滞ればいずれ淀んでゆく。

 偽りの王は、かつて精霊と共に在った時代の栄光を忘れ封じようと凝り固まるあまり、淀んだ国を作り上げた。正しい王の元、正しき御代へと導かねばならん。

 古きしがらみに縛られた国へ、新しい風を吹かせなければいけない」


 父をきっと睨みつけ、タンフウは拳を握る。


「何が、新しい風だ。何が正しい御代だ。

 あんたたちが望んでいるのも結局、過去の世界じゃないか。既に淀んで使いものにならなくなった、古い風じゃないか! サンを巻き込むなよ!」

「お前には分からんか。……だが、お前とて当事者なのだ」


 シナドは手をタンフウへすっと差し出す。



「タンフウ。仲間もろとも、私の元に来い。

 私たちと共に、新しい世界を作ろう」



 そう告げて、父は優しく微笑んだ。

 彼のその表情に囚われ、タンフウは一瞬、息を止める。

 その懐かしすぎた面影に、思わず胸が締め付けられ。彼は込めていた力を緩める。

 しかし。


「……ふざけるなよ」


 我に返ると、彼は自分の肩に乗る霊狐を触りながら、父を非難する。


「あんたたちは。サンをいいように担ぎ上げて、自分たちの好きなようにしようとしているだけじゃないか」

「お前こそ、どうして言い切れる。

 我々の望む世を、皇女は望んでいないと。どうして他人のお前に言い切れるんだ」



 ――あいつは。どう、思ってるんだろうな。



 先ほどのショウセツの台詞が蘇り、彼は口ごもった。

 その隙に、シナドは尚も畳み掛ける。


「お前は見てきたはずだろう。

 女だからと学ぶことを許されず、名家だからと友と親しくすることすら許されない、他ならぬ皇女の姿を。

 全てを耐え忍び、自分の中に押し込めて微笑むことしか許されなかった、彼女の姿を」


 いよいよタンフウは押し黙った。

 天文連合で過ごしていた彼女の姿が。

 リーリウム家で対面した彼女の姿が。

 まるで別人のようだったサンの姿が、次々に思い出される。


「我々が望むのは、凝り固まった古い価値観から解放される世界だ。

 精霊憑きだろうと、後ろ指を指される出自であろうと、過去に失敗をしていようと、家族が罪人だろうと。肩身狭く一部の世界に閉じ込められることなく、誰しもが等しく、自由に生きることのできる世界。

 皇女は誰よりもそれを望んでいらっしゃると、共に過ごしてきたお前はそうは思わないのか」


 彼は、動けない。

 何か言葉を発しなくてはと思うのに、唇は乾ききり、言葉を忘れてしまったかのようだった。

 彼らの境遇になぞらえて、わざとシナドがそう言っているのは分かっていた。

 それでも彼は。

 父が間違っていると、すぐに断言することができない。


「しかしそうか、残念だ」


 答えられずにいるタンフウから目をそらし、シナドは踵を返す。

 霊狐に尻尾で頬を叩かれ、ようやくタンフウは正気に戻った。既に数歩、歩み出しかけていた父の背に、慌てて話しかける。


「思い通りに、なんて。なると思ってるのか。今の話を、僕にしておいて」

「お前に止めることはできない」


 肩越しに振り返り、シナドはタンフウへ憐憫の眼差しを向ける。


「お前はまだ、子どもだ」

「僕はもう大人だ。子どもなんかじゃない」

「いいや。お前は子どもだろう」


 彼に向き直り、数歩の距離を詰めて再びタンフウの目の前までやってくると。正面からシナドは息子を見据えた。

 父から向けられた射抜くような眼差しに、タンフウは気圧される。


「ここしばらく。お前のことも見ていた。

 欲しいものがあっても、手をこまねいて羨ましげに見ていることしかできない。与えられるものを、口を開けて待っているだけ。

 そのくせ蜜がなくなれば、何故なのかと駄々をこねている、ただの子どもだ」

「……違う。僕は、ただ」

「何が違う。お前は、ただ恐れているだけだ。

 本当はこちらに来たくて来たくて仕方ないのに、ただ己とも過去とも向き合うのが怖くて、今を失うのが怖くて、こちら側に来られずにいるだけだ。

 それが果たして大人なのか。子ども以外の何者でもないだろう」

「違う!」


 悲鳴のような叫びは、静寂を湛えていた森の中で木霊する。思いの外、響いてしまったその声は、中にいる史学会の三人にも聞こえてしまったかもしれなかった。

 それを悟ってか、シナドはゆるりと顔を上げる。


「これだけは言っておこう、タンフウ」


 幼子にするように、タンフウの頭にぽんと手を置き。


「我々が動こうと、動くまいと。皇女が立とうと立つまいと。

 否応なしに、世界は移ろうぞ」


 そう言い残すと。

 今度こそシナドは、霊狐のランを伴い、瞬く間にその場を立ち去った。


「……そんなこと」


 気が抜けたように、その場にずるりと座り込む。

 耳元で霊狐が何かしきりに言い募っている気がしたが、彼の耳にはいっこうに霊狐の言葉は入ってこなかった。


「そんなこと。言われなくたって、分かっている……」


 泣くこともできず。怒ることもできず。

 ただ顔を歪めて、彼は嗚咽のような声を漏らした。



*****



 ツヅキを連れ史学会に戻ったタンフウは、気はどん底まで落ちきったままに、シナドとのやり取りを告げた。

 彼らは一様に黙り込む。

 黒幕の正体が、他ならぬタンフウの身内だったことに加え。訴えられるほどの証拠がないままに、懸念ばかりが全て現実のものとなり、誰もが無能感と焦燥感とを抱いているようだった。

 やがてその嫌な沈黙を破ったのは、神妙な面持ちで腕組みしたユーシュだった。


「ここで俺たちがぐだぐだ話していてもしようがないだろう。いくら考えたって、結論は出ない。

 あいつに直接、聞いてみるしかない」

「……そうだな。ユーシュの言うとおりだ。

 俺たちがどう動くとしても。サンの気持ちを鑑みないのなら、俺たちはあいつらと同じになってしまう。

 まずはどうにかしてサンと接触し、本人にこの話をしてから後のことを考えよう」


 頷き、ショウセツはツヅキを見つめる。


「ツヅキ。お前なら、今のサンとも会えるんじゃないのか」

「……できない」


 悔しげに顔をしかめ、ツヅキは膝の上で拳を握った。


「僕は半分、実家から勘当されているも同然なんだ。僕が行ったところで取り次いではもらえない。それに」


 迷うように視線を彷徨わせてから、ツヅキは息を吐き出す。


「今は。サンカお嬢様そのものが、外部の人間との接触を完全に絶たれている。公的な行事でもない限り、外には出してもらえていないようだ。

 そればかりか、周りにいる人間までもが厳重に見張られている。病院にいる時の僕の手紙の中身まで監視対象に入っていた」

「徹底してやがるな……」


 ショウセツは舌打ちした。

 その対応は、史学会との接触を危惧しただけのものなのか、それともシナドらの動きを既に警戒しているのか。聞く限りではそこまで分からない。


 再び、皆が黙りかけたところで。

 おもむろに、場違いに明るい声が聞こえる。


「なるほど。それじゃ」


 ユーシュの言葉に、タンフウは彼へ視線を移す。

 先ほどからずっと考え込んだ様子だった彼は、しかし今や吹っ切れたような、どこか妙に落ち着き払った表情を浮かべていた。


「それしか、ないな」


 独り言のように呟いてから。

 ユーシュは両手を広げ、気楽な声で問いかける。


「さて、問題です。ボクが、皆よりもお得なところは何でしょう?」

「……急になんだよユーシュ、ふざけるなよ」

「ふざけてなんかないさ、大真面目な話をしている」


 ツヅキの注意に、そう切り返してから。

 誰も口を開かないのを見ると、ユーシュは得意気に胸へ手を当てる。


「あのですね。ボクは、まだなんだよ」


 悪戯を企てるような表情で、ユーシュは隣に座るセイジュの肩に肘をのせ、体重をかけた。

 その台詞で全てを察し、タンフウの背には冷や汗が流れる。


「つまり、まだ俺は姓を失ってない。君たちが使えない『お家の権力』というモノを、まだボクは使うことができるんですねぇ」

「ユーシュ、お前」

「とりあえずタンフウは黙ってろ。話がややこしくなる」


 手で制してタンフウを黙らせると。セイジュに腕を振り払われたユーシュは、肘掛けに体重を預け、目元に人差し指を当てる。


「本音を言うなら嫌だよ。ものっすごく嫌だ。

 けど、それしか方法がないってんなら、やってやらないこともない」


 怪訝に眉を寄せ、セイジュは首を傾げる。


「お家の権力、って。お前の家のコネでサンに近付けるのか?」

「時期的におそらく可能だ。可能じゃなくても、ごり押しで可能にするさ」


 少しだけ顔をしかめ、ぐしゃぐしゃと頭をかきむしってから。

 ユーシュは目を細め、ぺろりと上唇を舐めた。


「正直、動くつもりはなかったが。元はといえば、あいつらが悪い。

 俺のテリトリーに手を出されておいて、そのまま大人しくしてるほど、俺はいい子ちゃんじゃあいられないんでね。少々こちらも邪道を使わせてもらうことにしよう」


 椅子から立ち上がり、片手でループタイを整えると。

 ユーシュはもののついでのように、さらりと言う。


「俺の『表』の正式名称は、ユーシュ・


 彼の告げた姓に、誰かがひっと息を飲む音が聞こえた。

 しかし、それだけでは終わらない。

 既に事情を知るタンフウ一人が、身構えている。


「だけど、それはあくまで『表』の方だ。こっちの方が分かりやすいかな」


 次の瞬間。

 ずん、と部屋の中の空気が、変わる。

 まがりなりにも暖炉で暖められていた室内が、急激に冷える。窓は固く閉まっているはずなのに、何故か不意に火が消えた。不穏な現象の起きた室内で、しかし彼らは蛇に射すくめられたように、身動きが取れない。

 ポケットに手を入れ、そんな四人に向き直ると。



「俺の本名は、ジャキル・ユリエイシュー・シリウス・

 由緒正しく悪名高い、ジェイ家筆頭の御曹司さ」



 にやり、と、ユーシュはいつものような笑みを浮かべて告げた。

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