サンは穏やかに笑みを湛える
まもなく、彼らはリーリウム家に辿り着いた。王宮もかくやという立派な屋敷は、それだけで天文台が優に三つは入ってしまうだろう大きさだ。
屋敷に着いてからは、案内役はリュセイから年嵩の侍女に変わる。彼女の後を着いて毛足の長い絨毯の敷き詰められた廊下を歩いていくと、やがてタンフウは一つの部屋に通された。
落ち着いた色合いの調度品でまとめ上げられたその部屋の中では、サンが待ち受けていた。
シャツとベストにループタイという、彼が見慣れた服装ではない。彼女がまとう服は、
帽子の中にまとめられていた彼女の髪は、惜しげもなく豊かに背中へ広がり、真珠の髪飾りが飾られていた。
サンが見慣れぬ格好に様変わりしているだろうことは想定していたが、あまりに煌びやかな姿に面食らう。彼女と最後に会ったのはまだ数日前だというのに、目の前にいるサンはまるで別人のように思えた。
テーブルを挟んで彼女とは対面の長椅子に腰掛けるよう促されて、おずおずと座る。
「突然にお呼びたてして申し訳ありません。急なことが相次いで、さぞかし驚かれたことでしょう。今回は本当にご迷惑をおかけいたしました」
「いえ。……とんでもございません」
口を開いたサンは、深くしとやかな喋り方だった。はきはきと明るく、いつも楽しげにしていた、彼の知る声ではない。
一方のタンフウは、緊張と動揺とで声が裏返らないようにするのが精一杯だった。
穏やかな物腰のまま、サンは尋ねる。
「ツヅキの容態はどうでしたか?」
「まだ傷は痛むようですが、意識ははっきりしておりました。傷が癒えれば、また天文連合に戻れるとのことです」
「そうですか、良かった。わたくしはまだ彼を見舞えていないのです。落ち着いたら、わたくしもお礼を言いにいかなければなりませんね」
やんわりと笑みを浮かべてから、サンはしゃんと背筋を伸ばす。
「ハクトー家はリーリウム家の家族も同然。家族の命が助かったのは、あなたがツヅキを背負って砦へ駆けてくれたからです。改めて、わたくしからもお礼を申し上げます」
そう言うと、サンは深々と腰を折った。他人行儀のやりとりに歯がゆさを覚えながらも、タンフウも黙って頭を下げる。
と、サンは彼らへお茶を給仕していた若い侍女へ、おもむろに目を向けた。
「マリー。込み入った話をするの。少し、席を外してもらえない?」
「いいえ。決してお嬢様から目を離さぬようにと、奥様から堅く命じられておりますから。またお嬢様が抜け出しでもすれば、今度こそ奥様が卒倒しかねません」
堅い口調で断ったマリーに、しかしサンは言い募る。
「まさか、こんな白昼堂々と家出をするとでも思っているの? このままでは彼も気詰まりでしょう。
もしお母様からの言いつけを守りたいのであれば、せめてドアの外に下がっていてくれないかしら。流石の私でも、窓から逃げたり出来ないわよ」
「……分かりました。もし、何か変な動きがあれば、すぐにでもリュセイ殿をお呼びしますからね」
渋々承諾すると、音もなく侍女は下がった。部屋にはタンフウとサンの二人だけが残される。
途端に表情を崩し、満足げにサンは頷いた。
「うん、これでいいね」
その表情は、その声は、タンフウのよく知る彼女だった。取り澄ました深窓の令嬢は、瞬時に史学会のサンのものに戻った。
はっとして、タンフウは初めて真正面からサンを見つめる。彼の視線を捉えると、サンは悪戯めいた面持ちでくすりと笑った。懐かしさに、彼もようやく表情が緩む。
「来てくれてありがとう。いきなりでごめんね」
「僕は平気だ。けど、……大丈夫なの」
侍女の消えた先の扉に目線をやり、タンフウは小声で尋ねた。大丈夫よ、とサンはあっけらかんと言う。
「だって彼女がいちゃあ、堅苦しい会話しかできないでしょう。こうすれば、いつも通りに話が出来るから」
「でも。……こうして僕らが話をしてしまうと。もし聞かれた時に、面識がある以上に親しいってばれたら厄介なんじゃ」
「勿論、話は聞かれてるわ」
サンはしれっと言ってのけた。戸惑うタンフウを見て、サンはすぐさま付け加える。
「大丈夫よ。マリーは私の味方だし、この家で唯一、全部を知ってるから。私が天文連合に出入りしていたこともね。だから、気にする必要ないわ」
「それなら。別に、いてくれてもよかったんじゃ」
「ここでは、建前で動かなければならないことが多いのよ。立場上、出ていてもらうのが一番楽なの。私も彼女も」
サンは肩をすくめた。長年そうして彼女は暮らしてきたのだろう。
「それじゃあ。忘れないうちに、建前の方から片付けるわね。これまで私が史学会にいた件だけれど」
「天文連合にいたってことにするんだろう。さっき、リュセイ殿から聞いた」
「そう。それなら話が早いわ」
心なしか暗い口調で答え。
サンは伏し目がちになり、口を尖らせる。
「……リュセイと、喧嘩したの」
「喧嘩?」
「だって。セツのことを、あまりに悪く言うものだから」
先ほどの馬車での会話を思い出し、タンフウは唇を噛みしめた。多少、表現の違いはあるかもしれないが、同じような話がサンにもされたのだろう。当事者の彼女が聞かされないはずがない。
「だから余計に、私に人をつけておきたがるのよ。今だってタンフウに、セツあての言付けや手紙を託しやしないか、マリーに見張らせてるんだから。当分は、友人に手紙だって送れやしないわ」
ああ、と得心がいってタンフウは思わず声を漏らした。
彼女の身内は、セツとのことを案じている。だがマリーを外に出した上で、中でタンフウと交わされた会話がそれと無関係のものであれば、サンの主張もそれなりに信憑性が高まるということなのだろう。
「一応。当たり障りない範囲で、僕も否定しておいたけど」
「助かるわ、ありがとう。……本っ当、嫌になるわ」
うんざりとした様子で顔を背けると、サンは両手を握りしめた。それ以上は、話を続けない。タンフウも、ただ黙って彼女の横顔を眺めていた。
言いたいことは山とあるのだろう。だが、いかな外で待つ侍女がサンの味方であるとて、セツのことをおいそれとこの場所で口にするのは憚られた。そんな簡単なことすら、今はできない。
しばらく沈黙が流れてから。サンは、ようやく視線を戻す。
「それから。今日、あなたを呼んだ一番の理由はね」
唇を噛み締め。
サンは、さっきより一層、深く頭を下げる。
「この前は、本当にごめんなさい。無神経なことを聞いてしまって。
こっちから呼び立てておいて、今の私の立場で謝るだなんて、虫がいいことは分かってる。でも、どうしても謝りたかったの。このままで終わるのは、嫌だったから」
慌ててタンフウは、半分、腰を浮かせて彼女をなだめた。
「僕の方こそ、ごめん。言い過ぎた。
君は心配してくれただけなのに、完全に八つ当たりだった。サンは悪くない。君は何も知らなかったんだ」
「それでも踏み込むべきではなかったわ。
あの時だけじゃない。私はあなたに随分と酷なことを聞いてしまった」
サンはゆるゆると首を横に振る。
「誰もが皆、好きで今の場所にいるわけではない。そんなこと、ツヅキのことでも自分のことでも分かっていたはずなのに。私はきっと、浮かれていたのね」
自嘲気味にサンは笑みを浮かべた。陰りのあるその表情は、彼女が史学会にいたときには一度も目にしたことがないものだった。
サンのその顔を直視するのが苦しくなって、彼は目を逸らす。
「それよりも。僕こそ、ごめん。あの時、僕が名乗り出なかったから、サンは」
「いいのよ。潮時だったんだわ。いつまでも史学会にいられる訳じゃないってことは、分かっていたもの。
こうするのが一番良かったのよ。おかげで皆が助かったんだし」
最後まで言わせず、今度は穏やかな笑みで、さらりとサンは告げた。
サンの命令を受けてから、騎士たちの行動は迅速だった。すぐさま強盗の討伐隊が編成され、史学会を襲った三人の強盗は捕らえられた。
ただ不可解だったのは、彼らが到着した際、既に強盗は三人とも昏倒していたことである。ツヅキを刺した人物はともかく、室内にいたはずの二人までもが、戸外で意識を失っていた。
その辺りの事情も含め、被害者である史学会の二人と、あの場に残っていたユーシュは、騎士団にて事情を聞かれている。まだタンフウも、あれからショウセツたちとは顔を合わせていなかった。
タンフウには薄々、理由が分かっていたが、それは口にしなかった。
ようやくサンはテーブルに置かれたティーカップを取る。つられてタンフウも手に取った。金の縁取りがされたカップに注がれた紅茶は、口に含むとふわりと豊かな香りが広がり驚くほど美味だったが、無性に天文連合で飲むいつもの味が懐かしかった。
一口飲んで、サンは冗談めかして言う。
「こうなったら王子に輿入れして、女性もキュシャになれるように中から変えてやるわ。虎視眈々と政治を操ってやるんだから」
「それは、いくら何でも」
「そんなことないよ。一応、私の家は名家だもん。幸い長男皇子は私と五つしか変わらない。充分に輿入れを狙える立場にあるわ。
そのために、私は歴史を学んだのだもの。この世界で渡り合っていくことができるように。苦境の際にも、過去の教訓から希望ある未来を選び取ることができるように」
独り言のようにそう呟いて、カップをソーサーに戻すと。
彼女は、寂しげに笑う。
「ごめんなさい。あなたにとって、私の存在はうっとうしいものでしかなかったでしょう?」
「そんなこと……」
「いいのよ、分かってるの。みんなに甘えてたのは事実だから。
それでも。私は、ただ自分一人で、できることを知りたかった。
ここでは誰しも、リーリウム家の息女としてしか私を見ないし、期待しない。けれどこの世界で生き始める前に、どうしても。ただ個の自分として、この家のしがらみにとらわれない世界を知ってみたかった」
まるで懺悔のように、サンは訥々と語った。話し終え、どこかすっきりしたような表情になると、彼女は手の中に隠し持っていた小さな袋を取り出す。
「見て」
サンは袋の中のものを、手のひらの上に出した。
それは、アストロラーベの模様が彫られた青い石だった。いつかタンフウが彼女にあげた、彼の持つループタイと同じ石からとれた双子石だ。
「助けを呼びに行った時に、私、これをお守りのように握りしめて天文連合に向かったのよ。今思えば。あの時私は、何かを察知していたのかもしれない。
私があの場所から持ち帰れたのは、この双子石だけだった。……でもね」
サンは、その双子石をぎゅっと胸元で握りしめる。
「学んだ知識は、これからもずっと私の中で生き続けるわ。
それにこの子がいれば、あの素晴らしい日々が、決して幻じゃなかったって信じられる。あなたの目と同じ色のこの石が、天文連合を、史学会を、思い出させてくれるから。
これから何があろうと、強く生きていけるわ」
そう嬉しそうに告げて。
サンは、花がほころぶように微笑んだ。
*****
玄関を出て、彼の背後で扉が閉まった瞬間。タンフウは、何かに突き動かされたように振り返った。
リーリウム家の玄関扉は、ショウセツが頭をぶつけてしまう天文台のそれと比べ、遥かに高い。
たったの扉一枚だった。
だが、どうにもならない隔たりだった。
その扉一枚は、かつて天文連合がサンを迎え入れていた玄関の扉とは比べものにならないくらい、重い。
本当に遠くへ行ってしまったのだ、と今更ながらに胸が締め付けられて、無意識にタンフウはループタイを握りしめた。
もうその扉が彼に開かれることはないだろう。
そしてそれは、彼女との永遠の別れを意味した。
彼の利用する馬車着き場まで、リーリウム家の馬車で送ってもらう。今度は付き添いはなく、一人で馬車に乗り込んでから。タンフウの脳裏に、サンの声が蘇った。
――あなたにとって、私の存在はうっとうしいものでしかなかったでしょう?
馬車が動き出す。行きと同じようになめらかに動き出した馬車は、瞬く間にリーリウム家から遠ざかっていった。
あれほど広い敷地であったというのに、窓からはもう、彼女の家は見えない。
「……違う。違うんだよ、サン。僕は、君が」
認めたくはなかった。
けれども真正面から見つめてしまったら、もう気付かないふりをすることはできなかった。
「僕は君のことが、たまらなく羨ましくて仕方なかったんだ」
きらきらと目を輝かせて語る、純粋に学問を愛してやまなかった、いつかのサンの顔が思い出される。
けれどもそれは既に過去のものだ。
二度と彼女が天文連合を訪れることはないだろう。
「だから、……嫌だったんだ」
タンフウは両手で顔を覆った。
それ以上は胸の内が漏れないように、ぎりりと歯を食い縛るが、迸った濁流のような本音は、もう止めることができなかった。
「誰も。何も、大事にしないと、決めていたのに。
もう、何も失いたくなかったのに」
既にタンフウは。
過ぎ去った、サンたちとの何気ない日々を、愛してしまっていた。
彼の囁きを耳にする者は、誰もいない。
いつもなら一人になるとすぐに現れる霊狐は、何故かこの日、いっこうに姿を見せなかった。
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