サンは静かに覚悟を決める
いつもサンたちが使う森の道を辿ると、程なく史学会へと辿り着く。
史学会に来たのは、タンフウは初めてだった。彼らが集まる時は、設備の良い天文連合に来ているからだ。それは正しい選択だったのだなと、ひと目見て彼は思う。
史学会は、大きい三角屋根をした木造の建物だった。壁にはペンキすら塗られず、木肌があらわになっている。二階建てではあったが、二階部分は半分が屋根になっているので、ほとんど屋根裏に近い。
一階はそれなりの広さがあるが、あくまで一般的な住宅として考えた場合だ。研究を行う居住空間を兼ねた建造物と考えると、あまりに小さかった。言われなければ、ギルドだとは思えなかっただろう。
元からあった建物を修繕して使用しているようで、史学会の歴史に比べて建物はかなり年季が入っている。ところどころ傷んでいた。
辺りが開けている天文連合とは違い、史学会は建物の周りをほとんど隙間なく、ぐるりと森に囲まれている。彼らの通る道と建物とはほとんど離れていない。
用心して、彼らは史学会に到達する少し手前で足を止めた。
ユーシュが苦言を呈する。
「近いな。ほとんど森に埋もれてるじゃんか。もっと庭を確保しておけよ」
「あの二人がやるわけないでしょう。私一人じゃ、とても無理だったのよ。これでも少しは広げたんですからね」
いつもの服に着替えたサンは、外套の襟をかき寄せながら苦い表情を浮かべた。
ツヅキは鬱蒼とした森に目を向ける。獣道すらない藪であったが、冬なので草木はさほど伸びていない。足を取られて歩けない程ではなさそうだった。
「歩きにくいですが、奴らに気付かれないよう茂みの中を通っていくしかないですね。なるべく音を立てないように気をつけましょう」
「待て」
史学会を避けて進もうとしたツヅキに、ユーシュが待ったをかけた。
「少し様子を見てこよう。この距離なら、隠れながら話を聞ける。
ツヅキはお嬢様とここで待ってろ。耳はいいんだ」
言うなり、ユーシュは体勢を低くして建物に近づいていく。一瞬悩んでから、タンフウも後に続いた。
窓が小さいので、中から彼らの動きに気付かれる恐れは低い。忍び足で建物まで寄ると、タンフウとユーシュは窓の下の壁に張り付き、聞き耳を立てた。
すると程なく、中の会話が聞こえてくる。
「ちくしょう。一体どこにあるんだ。なんだよこの本の山は」
「史学ギルドだからな。史料が多いのは当たり前だ。言っただろう。自由にしていいといわれた書簡を、適当に一山拝借してきたんだ。どれがそうかなんて分かるもんか」
この状況下でも、臆さずに対応するショウセツの声がした。彼の返事に、強盗と思しき男は悪態を付く。
もう一人の男が、焦れた口調で言う。
「おい、まだ探すのか。もう
「焦るなよ。どうせこんな山奥、誰も来やしない。禁書を持ち帰らないと、後々厄介だ」
彼らの会話に、二人は息を呑んだ。無言でタンフウとユーシュは顔を見合わせる。
話し声はなおも続いた。
「にしたって、
「……セイジュは物じゃない」
相手を刺激しないためにか、感情を押し殺した重々しいショウセツの声が聞こえた。
「セイジュをどうする気だ。精霊学ギルドに売るのか」
「確かにあいつらに売れば、向こう何十年と暮らせる金が入るだろうよ。あいつらが血眼になって作ってる紛い物の精霊憑きじゃない、本物の
「おい。余分なことを言うな」
「別に構わないだろう。どうせ、すぐ何も分からなくなる。……おっと」
どかり、と鈍い音がする。
二人のどちらかが殴るか蹴られるかしたのだ、と気付いて、タンフウは戦慄した。隣のユーシュは身じろぎ一つせず、真顔で息を殺している。
「妙な気を起こすなよ、
「そこまで警戒することか。
「そうとも言い切れないさ。二年前、史学研究所で起きたキュシャ変死事件。
「……あれは事故だった。殺すつもりは、なかったんだ」
最後にようやくセイジュの声が聞こえた。掠れた声は聞き取りづらかったが、確かに彼のものだ。
そこまで聞くとユーシュは小さく頷き、タンフウに手で合図する。二人は行きよりも慎重に、そろりと建物を離れた。
森の中に舞い戻ってから、ユーシュは低い声で言う。
「あの声には聞き覚えがある。今日、酒場で俺らの隣にいた奴らだ。
やっぱり、盛ろうとしてたな」
苛々とユーシュは舌打ちする。
「想像したより厄介だ。あいつらを問いただしたいことは山とあるが、とにかくどうにかしなけりゃ連れてかれるぞ。下手するとセツは口封じに殺される」
待っている二人には聞こえないよう、抑えた声で囁くと。ユーシュは、彼らのところに急ぎ足で戻る。
「二人とも無事だ。今は奴ら、何か探しているみたいだった。けど急いだ方がいい」
余分なことは告げずに、短く報告した。ツヅキがそれに頷いた、ところで。
暗闇の中、きらりと光るものが見えた。
気付いたのは、ツヅキとユーシュの二人だ。彼らの動きにつられて振り向けば、タンフウの目にも、月明かりに照らされ、鈍く銀色に光った一閃が見える。
それに一番近い場所にいたのは、サンだ。
「お嬢様っ!」
サンを庇うように彼女の腕を引き、ツヅキは代わりに前へ躍り出た。腕で防ごうとするが、咄嗟の攻撃に間に合わず。
それは、ツヅキの腹部を貫いた。
彼は一瞬、くぐもった声を上げた。だが体勢は崩さず、そのまま攻めに転じ、ツヅキは相手の頭を蹴り倒す。彼の蹴りはしたたかに相手の頭部に当たった。
襲った男は昏倒し、倒れる。
「ツヅキ!」
膝を付いたツヅキの元に、サンが取りすがる。ツヅキは刺さったナイフを引き抜くと、倒れた男を一瞥し。
「……外にも一人居やがったか」
唸るようにそう呟いてから、にこやかな笑みを浮かべサンに顔を向けた。
「お嬢様。お怪我はありませんか」
「私は大丈夫よ。けれどあなたが」
「問題ありません。こんなのかすり傷だ」
しかし彼の額には脂汗が浮かんでいた。彼の腹部からは、外套の上からでもそれと分かる血がじわりと滲む。サンも気付いて、小さく悲鳴を上げた。
うずくまるツヅキとサンとをじっと見つめると。やがてユーシュは静かな声で告げる。
「タンフウ。お前、ツヅキとお嬢様を連れて行け。俺はここに残ってあいつらを見てる」
「だけど、それじゃあユーシュが危ないでしょう」
「無茶はしないよ。隠れて動向を見張っておくだけだ。万一あいつらが連れ去られたら、後を付ける必要があるだろ」
サンの言葉に、ユーシュは穏やかに答えた。
鋭い視線でユーシュに促され、タンフウは頷く。
「行こう、サン。ここはユーシュに任せよう」
迷ったように目を泳がせるが、しかしタンフウの言葉に彼女も頷いた。
ツヅキの肩を担ぎ、立ち上がる。彼を支えながら、三人は森の中へ隠れるようにして道を急いだ。
一人、残されたユーシュの側で、もぞりと動く影がある。呻き声を上げて起き上がるそれを、ユーシュは無感動な面持ちで振り返った。
「てめぇら、何しやがる!」
男は地面に落ちたナイフをすかさず拾い、ユーシュに向けて振り下ろす。
だが、男が確かに捉えたと思ったその場所に。
もうユーシュの姿は、ない。
次の瞬間。男の身体は、再びどさりと地面に倒れた。
「困るんだよねぇ」
月明かりに照らされたユーシュの顔は、ひどく冷ややかだった。
「あんたら三下がどこで何を企んでようが、俺の知ったこっちゃないが。
俺の安住の世界に手を出されたら、黙ってるわけにはいかないんだよねぇ」
ユーシュは男の手から零れ落ちたナイフを拾い、月にかざす。
じっと目を細め、すんと刃の匂いを嗅ぐと。ユーシュは気を失っている男の腕に、つ、と軽く刃を立てた。切り口から、たらりと一筋、血が流れる。
「喧嘩をする時には。相手と、その交友関係とを重々調べてから売るものだよ、子鼠くん。
ま。当分、どうせ悪さもできないだろうけどね」
彼の台詞に、答える声はない。
ユーシュはナイフの柄を外套の袖で拭い、男の足元に放ると、音もなく暗がりに姿を隠した。
******
手負いのツヅキを抱えながら、夜の森を歩く。時間が経つにつれ、彼らの足取りは遅くなっていった。砦まではさほど離れていないはずだが、道のりはひどく果てしなく感じられた。
荒い息をつきながら、ツヅキがサンに懇願する。
「刃に薬が塗ってあったようです。痺れて思うように足が動きません。私のことは置いていってください。先にタンフウと砦へ」
「そんなことできるわけないでしょう! 絶対、あなたも連れて行くんだから!」
サンはぴしゃりとツヅキの進言を却下した。
小柄な彼女のどこにそんな力があったのかと思うほど、サンは気丈にツヅキを支え、ほとんど引きずるようにして歩き続ける。けれども彼女の額にも、冬とは思えない量の汗が滲んでいた。
黙々と歩き続けるタンフウの横に、淡く光る小さな影がぴょんと寄り添う。
『他の連中がいる。お前は話せないだろうが、そのまま聞け』
久々に現れた霊狐は、早口でタンフウに告げる。
『そいつ、危ないぞ。早くしなけりゃ手遅れになる。もっと急げ、砦はこの先だ』
分かってる、と心の中でタンフウは悪態をついた。
支えるツヅキの身体はどんどん重くなってきている。痺れがまわり、自分で動くことすらままならないのだろう。
『もし、危なくなった時には伝える。その時には、選べ。いよいよとなったときに、そいつを助けるのか、見捨てるのか。
契約しようがしまいが、おれはどっちでも構わん。だが、その時は迷うなよ。おれは深手の傷を治すことならできても、
「……サン!」
不吉な霊狐の言葉を振り払うように、タンフウは半ば叫ぶようにして呼びかけた。
「このままじゃ駄目だ。ツヅキは僕が背負う。その方が早い。君はとにかく早く、道を案内してくれ」
「……分かったわ」
サンは肩からツヅキをおろし、タンフウに託す。
ツヅキを背負うのを確認すると、サンは茂みをかき分けながら、頬を枯れ枝が引っ掻くのもお構いなしに先を急いだ。
入り組んだ森から、視界が唐突に開ける。
「見えた!」
目の前には、石造りの巨大な門がそびえていた。国境を守る砦である。夜間だが門には火が灯り、二人の門番が守りを固めていた。
背中のツヅキはもはや口を開かない。既に意識がないようだった。霊狐の警告はないため、差し迫ってはいないのだろうが、一刻も早く彼を手当する必要があった。
門に駆け寄り、タンフウは声を張り上げる。
「すみません、助けてください!」
三人の姿を、門番の兵士は値踏みするように見やる。
「こんな夜中に、誰だ」
「王立研究ギルド、天文連合代表のタンフウです。
同じく王立研究ギルドの史学会が、強盗に襲われています」
ツヅキを背負ったまま、もどかしくもタンフウは一部始終を簡単に説明した。
騎士たちは顔を見合わせる。
「もしその話がまことなら、由々しき事態だ。だがその前に、まずは貴殿の身元を証明してくれ」
「お待ち下さい。今、ギルドの身分証を」
「違う。キュシャとしてでなく、貴殿の元の身元だ。今夜はとりわけ厳重に確認せよとの通達なのでな」
「元の、身元……」
言われて、タンフウはすっと青褪める。
手元に、彼の身元を証明するものはあった。だがそれは同時に、彼の出自を晒すことになる。ユーシュはギルドの代表がいた方が話が早いと言ったが、この場合、タンフウの出自が有利に働くことは決してない。
ポケットの上から、実家の紋章が刻まれた時計をタンフウはぎりりと握りしめた。
黙り込んだタンフウに、騎士は訝しんだ視線を向ける。
「さては貴様ら。よもや今夜、街に出たという怪盗ではあるまいな。襲われたふりをして逃げ延びようという魂胆か」
「違います!」
慌ててタンフウは叫んだ。脳裏に、酒場での話がよぎる。怪盗ジーザが出る日は、騎士たちがとりわけ警戒しているとツヅキが言っていた。彼らが身元の証明を求めるのは、そのためなのだろう。
早く誤解を解かねばという焦りと、身元を開示することの逡巡とで、タンフウは身体が動かない。だが彼が黙る時間が長いほど、騎士たちの不信感は増していく。タンフウの背中を、嫌な汗が伝い落ちた。
その時。
「いい加減にしなさい」
背後から、凛とした声が響いた。
これまで黙り込んでいたサンが、すっと背筋を伸ばして前に進み出る。
「身元の証明、ですか。愚問ですね。
まさか私の顔を忘れたというわけでもないでしょう、ショウゼン」
「……何故、俺の名を」
狼狽した騎士に、サンは畳み掛けるように告げる。
「わたくしをリーリウム家が長女、サンカ・リーリウムと知っての振る舞いですか」
サンは帽子をとり、その長い髪をあらわにした。彼女の柔らかい栗毛が、冷え込んだ夜風にふわりとなびく。
続けてサンは、ベストのポケットから懐中時計を取り出し、それを騎士に掲げて見せた。表面に刻まれているのは、百合の花のあしらわれた意匠。リーリウム家の紋章である。
もう一人の騎士もそれを見て、分かりやすく動揺した。
「何故、お嬢様がこのような場所に……」
「説明する時間はありません。今すぐに、彼を担架で運び介抱なさい。
これは命令です。現在はキュシャとして姓を捨てた身ですが、みすみす彼を見捨てたとなれば、ハクトー家も兄のリュセイも黙ってはいないでしょう」
「リュセイ殿の……!?」
彼女の言葉に、またもや騎士たちは驚愕の声を上げた。
きりりとした面持ちで、サンは告げる。
「今なお、史学会ではキュシャ二名が強盗に捕らわれております。彼らを助けに行っていただけますか。
奴らこそ、怪盗の出た隙をつけ狙った強盗です。これをみすみす逃したとあらば、シュジャ騎士団の失態ですよ」
「はっ! 今すぐに!」
サンの号令で、騎士は慌ただしく動き始めた。騎士たちはタンフウの背からツヅキを受け取り、門の中へ消えていく。騒々しい話し声と共に、中にいたのだろう騎士たちのざわめく気配がした。
まもなく砦の奥の扉が開き、彼らより上の階級と思しき騎士が現れ、まっすぐにサンの元へ駆けてくる。
「……タンフウ」
やってくる騎士から視線を逸らさぬまま、サンは小声で言う。
「今までありがとう。ユーシュにも、助かったセツとセイジュにも、どうかそう伝えてね。
私は、本当に幸せだった。
……さようなら」
彼女はふわりと髪をなびかせて、前へ進み出た。丁重にサンへ敬礼した騎士は、彼女を連れ中へ導く。
やがて砦の中に消えていった彼女の姿は、見えなくなった。
タンフウは、ただ立ちつくしていることしかできなかった。
遅れてやってきた騎士に伴われるまで、まるで現実味のない出来事のように、ただぼんやりと成り行きを見ていることしかできなかった。
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