タンフウは物憂げに過去を思い出す

 夕食後、タンフウは自室に戻って資料を読み込むのに没頭していた。

 外は曇っていて、観測には向かない。それでもやるべきことは山のようにあった。

 そうして資料に囲まれたまま、夜も更けた頃。部屋に響いた扉のノックの音で、彼は我に返る。


「タンフウ、起きてる? 夜食、作ってきたよ」

「ありがとう。そこに置いておいてくれないかな」


 声はサンのものだった。普段の彼であれば、まずはそのこと自体に違和感を感じていたことだろう。けれども上の空だったタンフウは、目線は本に落としたままに口先だけそう答えた。

 すると彼の許可を待たずして、自室の扉は耳障りにきしむ音を立てて開いた。タンフウは驚いて振り返る。


「え……な、何?」

「今のは、いかにも話を聞いていない返事だったからね」


 とりすました表情で肩をすくめ、サンはテーブルの上にパンとスープ、紅茶のカップの置かれたトレイを置く。ベーコンの香が匂い立つ温かいスープと、サンの顔とを見比べながら、タンフウは状況が飲み込みきれずに目を瞬かせた。

 視線に気付くと、サンは腰に手を当てて告げる。


「その調子じゃ、数秒後には夜食のことを忘れて、明日の昼まで放置されそうだったから。数日前にツヅキが倒れたのを忘れたとは言わせないよ。

 研究熱心なのはいいことだけど、休憩は必要なはずでしょう」

「……そのとおりだ」


 穏やかだが有無を言わせぬサンの口調に気圧され、彼は大人しく頷いた。

 根を詰めすぎて、数日前にツヅキが倒れたのはまだ記憶に新しい。一昼夜ほとんど飲まず食わずだったことが原因だ。その時は正体を隠していたサンも、流石に泡を食って看病に奔走していた。

 しかしその看病を受けておいて、今日まで気付かなかったというのだから、よほどツヅキの意識が研究ばかりに向いていたのか、鈍感なのだろう。


 ぼんやりとタンフウは夕食時のやりとりを思い返す。

 ツヅキは望みどおりの道を選べなかった。妥協として選んだキュシャだ。

 けれども、鈍感な場合はともかく、前者の理由であったのならば、キュシャ向きの特性ではある。あながちツヅキにとり悪い選択ではなかったのだろう、とタンフウは思う。


 現実に引き戻されたタンフウは、そのまま大人しくサンの持ってきてくれた夜食に手を伸ばした。気付けば、部屋の中はだいぶ冷え込んでいる。冷えた体に温かいスープがしみ渡った。

 夜食を口にし始めたタンフウを眺めながら、サンはおずおずと申し出る。


「ねえ、タンフウ。もし今から休憩するのなら、少しだけここに居させてもらっていい?」

「別に、構わないけど」


 タンフウは、ようやく違和感に気付いて尋ねる。


「どうしたの? いつもならもう、史学会に戻ってるのに」


 時刻は既に深夜。日付も変わり、朝の早いサンならもう眠っていなければならない時間だった。普段であれば、この時間まで彼女たちが残っていることはない。

 サンは肩をすくめる。


「おたくのユーシュとうちの連中が、現実逃避にカードゲームに興じ始めましてね。帰るに帰れないの。

 で、さっきツヅキに夜食を届けたときに、うっかりそれを言ったら、息巻いて下に降りていったところ。

 私がいくと余計に面倒なことになるでしょう。ほとぼりが冷めるまで戻りたくないのよ」


 呆れ顔でサンはため息をついた。

 なるほど、とタンフウは納得する。夕食時のツヅキの態度を思い返すと、その判断は賢明だろうと思えた。

 パンをちぎりながら、タンフウは気になっていたことを尋ねる。


「名前ってさ。『サン』じゃなく『サンカ』が正しいの?」


 サン、という呼び名は彼女が名乗っていたものだ。

 しかしツヅキは彼女のことを、『サンカお嬢様』と、そう呼んでいた。


「ええ、そうよ。本名は、サンカ・リーリウム」


 サンはそれを認めた。彼女の身元が明るみになってしまった今、隠しておく意味はないのだろう。


「サンカってね、『讃えられる花』の意味なんだ。『花』に関する名を持つのは普通は女性だけだから、万が一を考えて隠してたの。

 ただ、聞かれはしなかったけど、会長は察してたかもしれないね。その点凄いから」


 合点がいって、タンフウは頷いた。以前にショウセツと名前の由来の話になった時、彼はサンの時だけ答えを濁していた。おそらく彼はサンの本名をも察した上で、それを黙っていたのだろう。

 サンは少し翳った笑顔で呟く。


「セツには感謝してるよ。普通、私の家が分かったら連絡して引き渡すでしょう。もう終わりだと思った。他の人間にばれたら、立場が危ないのはセツの方なのに」

「そうだね。……けど、あいつらは普通じゃないから」

「……うん、そうね。だったら私だって、普通じゃないことをやるしかないわ」


 サンは力強い光を目に宿し、唇を引き結んだ。

 彼女の横顔を見つめ、タンフウは史学会の人々に思いを巡らす。


 事が露見した場合。史学会の立場は、この上なく危うい。下手をすれば、ギルドが解体される可能性すらあった。

 けれど、もしもの時には、今度はサンが全力で史学会を守ろうとするのだろう。さっきショウセツがサンを守ったのと同じように。


 容易についたその想像に、何故か胸の奥がうずいて、タンフウは表情を曇らせる。

 史学会の面々を見ていると、時折こうしてぎりりと心中が軋む音をたてた。しかしタンフウはそれを無視し、そっと自分の内部に押し込める。

 おそらく、それは深入りしてはならないものだと悟っていた。今の自分を貫くためには、向き合ってはいけないものなのだ。


「ねえ。これ、何?」


 内側に入り込んだ思考を引き戻したのは、またもやサンの問いかけだった。はっとしてタンフウは顔を上げる。

 彼女が指さしていたのは、本棚の片隅で埃をかぶっている円形の平たい石だ。くすんだ藍色をしたその滑らかな表面には、目盛や幾何学模様が刻まれている。

 実家から持ち出してきたきり、無造作に放置されていたものだった。自分の部屋にそれがあること自体、タンフウは今まで忘れていた。


「アストロラーベだよ。けど、それは実用じゃない。ただ模様が掘ってあるだけだ。本物は、星の高度や方位を調べるのに使うんだよ」

「これは、サファイアなの?」

「さあ。どうだったかな、気にしたことがないから」


 サンは惹かれたようにじっと石を見つめている。見かねたタンフウが石を手に取り、軽く埃を払って彼女に持たせた。

 サンは恐る恐る受け取り、手のひらにおさまったそれを、そっと指でなぞる。色がくすんでいたのは、埃をかぶっていたせいらしかった。下から現れたのは、美しく深い青だ。

 目を輝かせて嘆息するサンを微笑ましく見つめながら、タンフウはふと思い出して呟く。


「双子石、なんだそうだ」

「双子石?」


 タンフウは自分のループタイをつまみ上げた。

 タイに付いている飾りは、サンの持つ石と同様、夜空のように澄んだ青をした石だ。


「元々は同じ石だったものから、作られたものらしい。それで一緒にしてあったから、実家を引き払って来る時に両方持ってきたんだけど。そっちはずっと忘れてた」


 ループタイの方は実用品であるため毎日のように身につけていたが、ただの飾りとしてしか用のない石は、本棚に置かれたままになっていた。一応、アストロラーベを模していたためにとっておいたが、彼の専攻が天文学でなければ捨ててしまっていたかもしれない。


「不思議ね。どうしてこの二つなのかしら。双子石なら、同じ種類の装飾品とか、そういったものに使われることが多いのに」


 タンフウも同じ疑問を抱いたことはあったが、考えても答えは出なかった。作らせた者の趣味という単純な理由なのかもしれない。

 サンはそれを天井に掲げて、魅入られたように見つめ続けていた。これがもしサファイアだとして、彼女の実家であればもっと綺麗な細工の装飾品が手に入るだろうに、とタンフウは少しおかしくなる。


「あげるよ、それ」

「いいの?」


 目に見えてぱっと顔を輝かせ、サンがタンフウを見上げる。


「でも、大切なものなんでしょう」

「大切なものなら、もっときちんと管理しているよ。僕には不要だから、サンが持っていた方がその石も喜ぶだろう」

「本当に? ありがとう!」


 サンは大事そうにそれをぎゅっと手の平で包み込んだ。その喜びようを見て、タンフウもまた穏やかに笑んだ。


「もしかして。サンは天文学にも興味があるの? 史学会に行ったところをみると、元々は文系なんだろうけどさ」


 大きく頷いて、サンは肯定する。


「うん、勿論。ただ天文学だけじゃないよ。完全に興味を絞り切れてはいないんだ。

 セツには申し訳ないけど、私は便宜上の理由で史学会を選んだの。特区の研究所だとすぐに連れ戻されると思ったから。特区外で人数の少ない研究所を探したら史学会にいきあたったんだよ。正解だったけどね。史学会でよかった」


 満面の笑みで、サンは両の指を組み合わせた。


「これでも大学だと史学は首席なんだよ。けど、ただ起きた事象を暗記するだけの勉強はいつももどかしかった。もっと歴史を細かく紐解いていけば、いろいろな世界が見られるのだろうにって、ずっと思ってたの。だから私は史学会の門を叩いたんだ。

 会長のやってる研究は、大変だけどすごく素敵だと思う。少しでもその片鱗に触れられて幸せだわ。

 実を言えば、天文連合も候補ではあったんだよ。でも数学や他の理系科目は、さわりだけで専門的なところをほとんど勉強できてないの。興味は凄くあったんだけど、天文連合に来ても、居候の分際で基礎から一々教えて貰うのは気が引けたし。

 大学ではそこまで教えてくれないから。女が学ぶことは理系学問じゃなく、もっと他に色々とあるんだってさ」


 サンの言に圧倒されて、タンフウはしばらく何も言えずに彼女を見つめた。

 彼女の姿は、いつかショウセツから聞いた『アカデミカ』に生きるキュシャそのものだった。

 そして同時に、それは自分とは無縁のものだ、とタンフウは胸元で拳を握る。

 一体、彼女たちのエネルギーはどこから湧いてくるのだろう。タンフウにはそれが理解しかねた。自分と違いすぎて、なにやら目眩めまいのする思いだった。


 彼の思いを知るよしもなく、サンは無垢な瞳で問いかける。


「タンフウはどうなの?」

「……え」

「あなたは何故キュシャになろうと思ったかなって。大学で天文学に興味を持ってここに来たの?」


 ついに、という思いがタンフウの頭をよぎった。


 これまで彼は史学会の人々に対し、自分に焦点を当てた話が振られないよう立ち回ってきたつもりだった。

 いつも基本的にタンフウは聞き手に徹する。自分のことは、話の流れで多少、流す程度。とり立てて話題にはしないし、させない。



 ――自分は表に立つべきじゃない。その方が無難なんだ。



 と。

 実際、その試みは上手くいっていたはずだった。

 けれども。


 彼の沈黙に、サンは遠慮がちに顔を覗き込む。


「言いたくないのなら別に良いよ。あまり詮索するのも悪いよね、ごめんなさい」

「いや、そういう訳じゃないよ。天文連合の奴らは知っていることだしね。ただ話しても面白くないと思うけど」


 サンに余計なことを言わせる前に、素早く喋った。

 こうなってしまったら、手早く済ますしかない。隠すほうが不自然だ、とタンフウは気を取り直す。


「僕は義務教育しか出てないよ。キュシャ養成専門の中等・高等学院まで。それに実質、高等過程は研修でほとんど天文連合にいたから、学校にはあまり通わなかった」


 じっとサンは耳を傾けて彼の話を聞いた。

 慣れないことに、やりにくい、と気まずさを感じながら、タンフウは続ける。


「僕には、両親がいないから。父はまだ僕が幼い頃に死んで、母も小さい時に病死した。幸い成績は悪くなかったから、キュシャ養成専門学院の試験に受かって入学出来たんだ。そこなら寮と奨学金とでなんとか生きて行けた。頭さえ何とかなれば、孤児が生きていくにはこの道が一番楽で確実な方法なんだよ。

 僕は、単に生きていくために一番効率が良かったからキュシャになったんだ。君みたいな学問への憧憬や、セツやセイジュみたいな志があるわけじゃない」


 自分には志などないのだ、とタンフウは話しながら改めて思う。

 その場その場で最善の選択をしてきた。ただ、それだけだ。


 そっか、と口の中で呟いてから、サンは再び尋ねる。


「けど、その中でも天文学を選んだのには理由があるんでしょう?」

「それは……」


 タンフウはいつか見た夢のことを思い出した。

 星空、流れ星。

 そして、父の姿。


「……僕の父が」


 言ってしまってから後悔した。しかし、ここまで言ったら引き返せない。言わない方がやはり不自然である。

 一瞬だけ躊躇してから、静かに続ける。


「父に、星を観に連れていってもらったことがあるんだ。忙しい人だったのか滅多に遊んでもらったことはなかったみたいで、その時は凄く嬉しかったのを覚えてる。

 僕が覚えている父親の記憶は、それだけだから。馬鹿馬鹿しいほど感傷的な理由だけれどね」


 最後の言葉と共にため息を吐き出した。

 伏し目がちになっていたサンは、ごめんね、と呟いてから顔を上げる。


「でも、ありがとう」

「……何で?」


 礼を言われる覚えはない。タンフウはきょとんとして聞き返した。


「だって、話してくれたから。

 いつもならあなたは、あまり自分のことを話さないでしょう」


 思わず彼は苦笑した。

 何のことはない、見抜かれていたのだ。


「僕はね、当事者になりたくないんだよ」


 部屋の中はますます冷え込んでいく。

 話すうちに、いつの間にか食べきってしまったスープとパンの食器をまとめ、代わりに毛布をたぐり寄せた。タンフウは僅かに目を細める。


「輪の中にいるんじゃなく、常にそれを外から眺めている第三者でいたいんだ。当たり障りないように立ち回って、深く立ち入ることのない様にする。

 それが僕の生き方だよ」


 タンフウはサンへ毛布を渡し、自分は少しでも暖をとろうと紅茶の入ったカップを手にとった。

 山の中にある天文連合は、夜中になると冷え込みがきつい。石造りの建物はじわりじわりと寒さを伝える。研究に没頭している時ならそれも忘れられるが、今はひときわ寒さが身にしみた。


「……第三者」


 ぽつりとサンが呟いた。その呟きに自嘲の笑みを浮かべながら彼は頷く。

 自分でもそれと気付かないうちに、今のタンフウはやけに饒舌だった。


「そう。もう随分色々なものを僕は捨ててきたから。

 だから新しく何かを抱えるのが嫌なんだよ。背負いたくないんだ。大切なものだとか、そういうものは要らない。ただ外で眺めているだけでいい」


 伏した視線を手の平で包み込んだカップにおとして、タンフウはぽつりと言う。


「僕は、失うのが怖いんだよ」


 そして、彼はいつものようににこやかに笑んだ。


 それもまた、生きる術。笑顔は世の中の流れを潤滑にする。

 当たり障り無い言動と、嫌みを感じさせない笑顔は、彼とその周囲とを円満に動かした。


 サンはじっとタンフウを眺める。

 しばらくそうして二人とも黙ったままだった。


「……あ」


 しばらく経ってからサンが声をあげる。彼女の目線の先を追えば、窓の外には星明かりが見えた。晴れたのだ。

 サンは慌てて弾かれたように立ち上がった。


「ごめんね、長居しちゃって。忙しい時期だっていうのに、邪魔しちゃった」

「いいよ、別に。どうせ休憩中だったし」

「ありがとう。研究頑張ってね」


 そう言ってサンは毛布をタンフウに掛けると、そっと部屋を出て行った。

 深夜の天文台は、扉の開閉の音もよく響く。しかし彼女はほとんど音もなく、上手いこと部屋を抜け出し下へ降りていった。

 セツたちは何をしているだろうか。まだツヅキに説教でもされているだろうか、とタンフウはぼんやり思う。


 しばらくの間、タンフウはサンの去っていく気配を感じながらじっとしていた。静寂に包まれた部屋の中で、自分の息づかい以外に聞こえるものはない。

 やがて自分しかいなくなった空間で脱力し、彼は静かにベッドへ横たわった。


「……なんで、あんな事を言ったんだろう」


 呟き、頭から毛布にくるまって縮こまる。空は雲が切れ、季節外れの星座が瞬くのが見えたが、観測する気にはなれなかった。




――だから、いけないのだ。

 自分が当事者になると碌な事がない。第三者でいるのが一番だった。

 きっと眠いのがいけないのだ。睡眠不足は良くない。もしくは、深夜だからいけなかったのか。


 このまま寝てしまおう。

 夢の中であれば、多少の甘えは許されるはずだから。

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