3章:月影暗影

霊狐は親切に警告をする

 タンフウは一人、横たわって空を見上げていた。


 丁寧に刈り込んである芝生は、寝転んでいて心地いい。夜露に濡れた草の香りが彼の鼻孔をくすぐる。

 昼ではなく、夜だ。目の前には、星の瞬く夜空が広がっている。けれども星の数は少なく、ひときわ明るい一等星と、欠けた三日月がそっと空の端に浮かんでいるばかりだった。暗い星々はなりをひそめている。街の灯りに邪魔されているのだ。

 いつもは森の端まで広がる星空は、狭く四角に切り取られていた。その縁取りに視線をやれば、煉瓦れんが造りの堅牢な建物が目に入る。

 街中である。天文台ではない。


 はたと、タンフウは気が付いた。



 ――これは、現実じゃない。



 目を瞬かせ、そのままの体勢で辺りを見回す。彼の周りは、煉瓦の建物に四方をぐるりと囲まれていた。開けてはいたが、さほど広い場所ではない。みっしりと隙間を惜しむようにして建築されるこういった家の並びは、王都でよく見られるものだ。

 この場所には、見覚えがあった。


『おい。起きてるか? いや、この場合は、寝てるのが正しいのか』


 不意に彼の思考を打ち破る声が聞こえ、タンフウは身を起こした。

 いい加減に聞き飽きたその声の主、霊狐は、彼の背後で得意げに尻尾を振っている。


『気付いたな。どうだい、俺様にかかれば、人の夢の中に入ることだって容易なんだぜ』

「悪趣味極まりないな。少しは休ませろよ」

『休んでるだろうが。現在進行形で、すやすやとな』

「そういう問題じゃない」


 渋面を浮かべ、タンフウは胡坐あぐらをかいて霊狐に向き直った。


「お前、最近めっきり現れないかと思ったら、何をしでかしているんだよ」

『俺様が現れないんじゃない、お前が外に出ていないんだろうが』


 霊狐は拗ねたように、尻尾を地面にぺしぺしと叩きつける。


『知っているだろう、俺様は契約前じゃ室内にはいけない。だからこんな面倒な手段を使って、お前に会いに来てやったんだろうが。この引きこもりめ』

「そんなことまでして来なくていい。しかも、よりによってこんな場所にしやがって」

『場所までは指定してないぞ。俺様はただ、夢の中に入り込んだだけだ。

 つまりこの光景は、お前が勝手に見てるだけだな』

「……うるさい」


 タンフウは半ば八つ当たり気味に霊狐を睨んだ。おお怖、と笑い混じりに言いながら、彼の視線から隠れるかのように、霊狐は尻尾にくるまる。


『つれないねぇ。せっかく俺様が警告しに来てやったってのに』

「警告?」


 聞き返すと、霊狐はぶわりと尻尾を広げて緩やかにそれを振った。一本だけだったはずの白い尾は、輪郭がじわりとにじんでぶれて見え、幾本も生えているようだった。夢の中だからか、それとも霊狐が意図してそうしているのかは、分からない。


『ワケあり人間を、厄介な輩が嗅ぎつけているぞ。俺の嫌いな匂いがぷんぷん充満してやがる。

 早晩、動く。

 お前にゃ直接、関係はないだろうが、近所だから巻き込まれるかもしれん。精々、怪我でもしないよう気をつけろ』


 普段と異なる、重々しい霊狐の口調にタンフウは面食らう。

 近所、という言い方からすると、それは天文連合ではなく史学会のことを指しているのだろう。だが霊狐の言葉は遠回しで、今ひとつ何を警告しているのかはっきりしない。


「サンのことか?」

『あのお嬢様も大概、ワケありだが』


 しばし黙り込んでから、やがて我慢出来ないといったように、霊狐はクククと笑いを漏らす。


『タンフウ。お前、あんたの嫌いな厄介事を、随分とそっくり引き受けちまったもんだな』

「どういう意味だよ」

『そのままの意味だよ』


 はぐらかすように言った霊狐へ聞き返そうとするが、突然、視界がぐらりと歪んだ。


『ああ、しまった時間切れだな。許せよタンフウ。俺はお前と契約してないから、これぐらいしか言えないんだ。

 気をつけろ。それは、だ。

 これからもお前の信条を貫くつもりでいるなら、関わるな。

 けどな。もしあんたが、それを返上するつもりなんだったら、』


 暗転した世界で、ただ霊狐の声だけが響き渡る。

 しかしその声も途中で聞こえなくなり、彼の意識は一旦、そこで途絶えた。






******



 自室の机に突っ伏した状態で、タンフウは目を覚ます。

 頭を振りながら、彼は気怠げに身を起こした。夢見のせいか、眠った姿勢のせいか、頭が妙に重い。

 扉が半開きのままだったせいで、階下からの騒がしい会話が聞こえてくる。現実に引き戻されたのは、これが原因だろう。

 だが間もなく夕刻だ。ちょうど良かったのかもしれない。


 強張った身体をほぐしながら立ち上がり、部屋を出ようとすると、扉の下に手紙が差し入れられているのを見つけた。

 何気なく拾い上げて封筒を確認し、彼は顔をしかめる。封蝋ふうろうに刻まれていたのが、見覚えのある紋章だったからだ。タンフウは小さく舌打ちする。


 これまで、気にしたことはなかった。けれども今は事情が違う。

 おそらく手紙をタンフウの部屋に届けたのはサンだろう。少なくとも、天文連合まで運んできたのは彼女だ。

 彼女は、それがを知っている可能性がある。


 見られただろうか、と彼は危ぶむ。しかし封蝋の紋章は小さい。気付いていない可能性も十分に考えられる。

 ひとまず無理矢理に懸念を押し込めて、彼は部屋の外に出た。




 階段を降りるにつれ、会話の声量が大きくなる。


「お嬢様。私がやりますから、どうかお嬢様は休んでいて下さい」

「いいの。ツヅキは自分の研究で疲れているでしょう。もうすぐ夕食が出来るから、それまで休んでいて」

「お嬢様を働かせて、自分だけ休んでいるわけには参りません」

「つべこべ言わずに休んでなさい。すぐに終わるから」


 タンフウの部屋にまで聞こえてきた声の主は、サンとツヅキである。

 最近では、もはや恒例になりつつあるやりとりだ。

 彼女の正体が知れて以来、ずっとツヅキはこの調子だった。サンに言い含められ、彼なりに普通に接する努力はしているようだが、そもそも彼女が働いているという状況自体が許せないらしい。だが最終的には、いつも彼が言いくるめられている。

 それにしても、毎日似たようなやり取りを繰り返して飽きないものかと、少しばかりタンフウは呆れる。


 居間が見渡せるところまで階段を降りると、せわしなく動き回るサンと、それを追いかけるツヅキの姿が見えた。


「それではお聞きしますが」


 深く息をついて、ツヅキは低い声で尋ねる。


「お嬢様。今日は、ここで何の作業をしましたか?」

「昼過ぎに来て、ひととおり居間と炊事場の掃除をしてから書架を片付けて夕食の準備をしているけれど」

「働きすぎです」


 ツヅキは、答えながらなおも動き回るサンの手首をつかんだ。彼はサンを引き寄せ、真剣な眼差しで言い募る。


「ただでさえ早朝から配達をして、史学会の事務をこなしてからの今でしょう。お嬢様こそ休むべきです」

「その言葉、そっくりあなたにお返しするわ。あなた、昨日の睡眠時間は何時間?」

「……それとこれとは関係ないでしょう」

「おおありよ」


 掴まれた手を振り払い、サンはツヅキの鼻面に指を突きつけた。


「ツヅキは仕事だから、夜遅くまで研究をしているのよね。私だってこれが仕事よ」

「けれど。事務仕事はともかく、家事全般まで引き受けずともよいでしょう。女性だからといって、お嬢様が押し付けられる筋合いはありません」

「女だからじゃないわ」


 更にサンはツヅキに詰め寄る。彼女の気迫に押され、ツヅキは一歩、後ずさった。


「史学会においての私の役割が、この仕事をこなす立場だからよ。ギルドの弟子とはそういうものでしょう。

 もし私がただの配達員の少年だったら、ただの町娘だったら、あなたはそれを疑問に思った?」


 二の句が告げられずにツヅキは黙り込む。


「だからこれは立派な私の仕事なの。とやかく言わないで頂戴。この私の助力で史学会が評価されるなら、それは私の誉れでもあるんだ」

「……分かりました」


 堂々と告げるサンに、遂にツヅキが折れた。


「ですがくれぐれも、無理だけはなさらないでください。万一お身体を壊されては、私の方が参ってしまいます。

 それに、あくまでお嬢様の所属は史学会でしょう。うちの書架の整理はやりすぎです」

「だったら、居間に本の山を積み上げないでくれる? 場所を使わせてもらっている立場でとやかく言うのもなんだけど、食事ができないでしょう」

「分かりました。ユーシュを締め上げます」

「おい。やめろ。暴力はよくない」


 寝転んでいたユーシュが危機感を感じて起き上がった。

 ツヅキは彼をじっと睨みつける。


「何度も言ってるだろう。部屋でやれよ」

「嫌だよ。寒いだろ」

「なら随時それを片付けろ」

「嫌だよ。面倒臭い」

「仕方ない。お前は切り捨てるしかないようだな」

「待てよ結論が横暴だろ脳筋め」


 弾かれたように立ち上がり、ユーシュはセイジュを盾にして隠れた。慌てたセイジュは、彼を背中に張り付けたまま階段を駆けあがり、ツヅキから逃げ出す。

 それを追って、タンフウと入れ替わりにツヅキも上の階へ登っていった。


 彼らを見送ってから視線を戻すと、サンと目が合った。先ほどの手紙の件と、図らずも会話を立ち聞きしてしまったことで、タンフウは気まずさを覚える。彼は焦って彼女から目を反らし、何食わぬ顔で居間まで降りた。


 居間の隅ではセツがソファに座り、足を投げ出し本を読み耽っていた。背表紙を見るに、史料ではなく、余暇で読んでいる書籍らしい。

 思わずタンフウは彼に声をかける。


「セツ」

「どうした、タンフウ」

「『本丸』って、なんだ」


 唐突なタンフウの問いに、ショウセツは顔を上げて目を瞬かせる。


「本丸は。城の中で一番大事な中核部分を指す、昔の言葉だが。

 いきなり、どうしたんだ?」

「いや……ちょっと、気になって」


 聞いたことを少し後悔しながら、タンフウは曖昧に濁し、自分も空いたソファに座り込んだ。

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