霊狐は苛立つタンフウに仕返しをされる
「さて。話は逸れましたが」
気を取り直して、ショウセツは快活に言う。
「折角ご近所であることが判明した事ですし。セイジュを保護して頂いたお礼といってはなんですが、一緒にお昼でもしませんか。この時期は研究報告も忙しいでしょうが、息抜きも兼ねて。食事はこのサンに作らせますので」
頬を
「ありがたい。それは実にありがたい」
ショウセツの申し入れを受けて、ユーシュは至極嬉しそうに拳を握った。
タンフウも、一瞬迷ってから、素直に気持ちを述べる。
「それは切実にありがたいです。なにしろ僕たちの食事係は今、倒れているもので」
「倒れてるの?」
「気にしなくていい。いつものことだから」
セイジュの驚いた声に、ユーシュは素早く首を振って真顔で言い含めた。
誤解を招かぬようタンフウが補足する。
「もう一人、うちにはキュシャがいるんだ。そいつが大抵料理を作っているんだけど、この時期になると夜中に無理してばかりだから、昼間はずっと寝てるんだよ」
「そういうこと」
ユーシュは同意して大きく頷いた。
「いつもはその有能な主婦がいるから、料理しないんだよな。だからこういう時には不慣れな作業にあえいで
「不慣れって、それでもお前は一切作らないだろ……」
「細かいことはいいじゃん。
ともあれそういうわけで、どうぞ煮るなり焼くなりフライにするなり、ご自由に好き勝手使っちゃってください」
そう言ってユーシュは、にこやかに炊事場を指し示した。頬から手を放し、サンは紙袋を抱えていそいそと炊事場に向かう。
すると、一瞬の沈黙を経てから。
「すごい! 広いー!」
サンの甲高い声が響いた。その
タンフウがのぞき込むと、サンは目を輝かせながら両手を組み合わせていた。
「すごい、すごいよ! こんなに広いなんて! どこの研究所も大した設備なんかないものだと思ってた。
なんだ、これならもっと食材を持ってくれば良かった。火が使えなかった場合にも大丈夫なように、なんて考える必要なかったのに」
恍惚とした表情でサンは袋の中の食材を広げ始めた。タンフウは改めて炊事場を見回すが、調理台やかまどなど、必要最低限と思われる設備が整っているだけである。
しかしサンの喜びようといったら、まるで初めて火でも目にしたかのようだった。
「お前らのとこ、どんだけひどいの?」
ユーシュの問いに、ショウセツは腕を組みながら答える。
「うん。水は出るよ。洗顔と兼用のだけれど」
「火は?」
「火は、外で焚く」
「おい、流石にこのご時世にそれはないだろ」
「調理場くらい適当でも構わないだろう。ただでさえ貧乏なんだ、そこにかける金はない」
「いくらなんでも程があるっつーの」
呆れ返ったユーシュと、動じないショウセツの会話を聞きながら、タンフウは嬉々として鍋を取り出すサンの姿を横目で見た。
料理に無頓着な人間だって史学会の環境はどうかと思うのに、まして好きな人間にとっては耐え難いものだろう。サンの喜びようも無理はない。
本格的に調理を開始したサンの邪魔にならぬよう、そっと炊事場を出ると、再び居間に戻ってタンフウはソファーに腰を下ろした。
ショウセツはまだ言い訳がましく何かを言っているが、ユーシュに適当にあしらわれている。
セイジュはぼんやりと自らおかわりの紅茶を注ぎながら、合間に二人の会話へ茶々を入れていた。しかし大体の台詞は二人にことごとく両断されている。
まだお互いに出会って間もないというのに自由気ままだな、と人ごとのように思いながら、タンフウは大人しく話に耳を傾け、料理が出来上がるのを待つことにした。
目の前では絶えず騒がしい会話が繰り広げられ、やがて隣の部屋からは香ばしい匂いが漂ってくる。
自然と、彼の口元には笑みがこぼれた。
それからしばらく経って、階段から物音がするのに気づいたタンフウは、視線を上へ伸びる
ユーシュはにやりとして、同じように上を見上げる。
「ああ。珍しく起きてきたな魔王が。匂いにつられたか、どうせあいつもほとんど食ってないんだろうからな」
「ま……魔王?」
セイジュは訝しげに
四人が注目する中、
眠そうな眼をこすり、ふらふらと歩く彼の印象をなによりも際だたせるのは、やはりその髪の蒼である。ショウセツとセイジュも驚いた様子で眉を上げた。
その存在感のある髪色に、険しい表情で鋭い眼光を湛えたツヅキは、確かに魔王という形容が似合うかもしれなかった。
居間が見渡せるところまで降りてから、まだ覚醒しきらぬ顔色でもって、ツヅキは黙って四人を見渡す。
「……あれ。人多い?」
ぼんやりとした口調でようやくツヅキは呟いた。見た目に反して気の抜けた暢気な言葉に、一瞬でショウセツとセイジュは毒気が抜かれたようである。
「倍いるな」
「倍いるね」
思わず二人して小声で軽口を叩いた。
四人に遅れてツヅキの足音に気づいたサンが、炊事場から顔を出す。彼の姿を見、サンはぎょっとして僅かにたじろいだ。
サンと目が合い、ようやくツヅキははっとして目を見開く。
「ああ、すみません。お客様でしたか。醜態をさらして申し訳ありませんでした」
きびきびと礼をし、ツヅキは回れ右をした。
その後ろ姿にユーシュが待ったをかける。
「おい、どこに行く気だツヅキ」
「いや、お客様がいらっしゃっているなら部屋に戻ろうかと」
「大丈夫だよ。どっちかっていうと俺たちの方が客なんだから。ま、お前は何もしてないから分からないだろうけど」
瞬きをして、呆けた表情でツヅキは振り返る。状況が飲み込めずにいるツヅキへ、タンフウは事情を手短に説明した。
ようやく事情を理解したツヅキは、改めてセイジュたちに一礼をする。
「申し遅れました。天文連合のツヅキと申します」
「お噂は、かねがね」
笑みを浮かべながらセイジュが返した。
その反応に、怪訝にツヅキは顔を上げる。
「え、この短い期間で噂?」
「食事係で、昼間は倒れている
「主婦って……」
複雑そうな表情でツヅキはぼやいた。
ユーシュはツヅキの肩を組み、にこやかに史学会の面々へ紹介する。
「そうそう。几帳面で家事全般に長けた上、知力も体力も申し分ない、有能な主婦だよ。ちょっと見た目が怖くて思想と趣味も怖いけど」
「初対面の人にいきなり言うなよユーシュ」
ばつが悪そうにツヅキはユーシュを引きはがした。セイジュが興味を示して首を傾げる。
「思想?」
「超絶愛国主義者だよ、怖いくらいに」
「おお……まあ、いいんじゃないの。俺らもキュシャなわけだし。趣味は?」
「ナイフや銃が大好きだけど、花やぬいぐるみも大好きだ」
「何それ怖! なんだその対極なやつ」
「部屋がやばいぞ」
「すげえ気になる」
ユーシュとセイジュとが二人で盛り上がっていると、流石にツヅキが苦言を呈する。
「あのね、初対面でも失礼じゃないの……名前も知らないけど、そこの人」
「おう。俺はセイジュだ。よろしくな!」
全く悪びれず言ったセイジュに、ツヅキは笑顔を浮かべたまま、拳を反対側の手へ打ち付けてみせる。
「よし。セイジュとユーシュ、ちょっと表へ出ようか」
「やべえぞセイジュ、魔王がお怒りだ」
「これがそうか……うおお怖え」
三人で盛り上がるさまをショウセツは傍観している。高みの見物で楽しむつもりなのだろう。
タンフウもショウセツと同じく静観していると、視界の隅に無言で炊事場に引っ込んでいるサンの姿が見えた。タンフウはそっと席を立ち、サンに話しかける。
「びっくりした?」
手は動かしたまま、サンは少し視線を泳がせる。
「え、いやあの、うん。……びっくりした」
微笑んでみせるが、表情は強張っている。
無理もない、とタンフウは思った。性格はともかく、ツヅキは
居間のツヅキを一瞥し、苦笑しながらタンフウは彼を擁護する。
「確かに外見は怖いけど。ツヅキは見た目と違って、中身は可愛い奴だから大丈夫だよ」
「……ツヅキ?」
料理していた手を止めて、サンが振り返る。
「ああ、さっき名乗った時に聞いてなかった? あいつの名前だよ」
「あ、ああ……」
曖昧にそう答えてから、サンは居間のツヅキをちらりとうかがった。じっとツヅキを見つめるサンの手は、やはり止まったままだ。
「どうかしたの?」
タンフウの声で我に返り、サンは慌てて鍋の蓋を手に取った。もわりと湯気の立ち上った鍋の中を覗き込んで味見をすると、小さく頷いてからサンはタンフウを仰ぎ見る。
「ご飯に、しようか」
ぎこちなく笑って、サンは戸棚から食器を取り出した。その様子が気にはなったものの、まあいいか、と深くは考えず、タンフウもそれを手伝い始める。
朝食からさほど間を開けない食事だったが、その匂いを嗅ぐなり途端に腹は空いた。それは他の人間も同じだったようで、テーブルに運んだ皿の周りへわらわらと人が集まる。
初対面の人間と囲む食卓は、不思議と懐かしい味がした。
******
三人の姿を見送り、そのままタンフウは天文台の外で森を眺めた。
ユーシュとツヅキは既に天文台の中に戻っている。タンフウも戻って研究にとりかからなくてはと思うが、なんとなくすぐには仕事をする気になれず、ぼうっと立ち尽くしていたのだ。
天文台の外は開けた広場になっている。ツヅキ以外は手入れする人間がいないので、街へ繋がる石畳の道以外、青々とした植物が好き放題に伸びていた。
さして大きくない広場は、すぐ側に森が広がっている。
しかしサンたちは、易々とその森を抜けて行った。
清々しく晴れ渡った今日は、空の青と地の緑が目に眩しく、気分がいい。通り抜けた風がさやさやと生い茂る草原を揺らす。
風に吹かれた心地よさに、思わずタンフウは目を細めた。
『なんともまあ、臭うのう』
と、不意に近くの草むらから、聞き慣れた声がした。
爽やかな心持ちに水をさされたタンフウは、げんなりして、ため息交じりに言葉をこぼす。
「
『またとはなんじゃ、またとは。少しはわれとの
「だから、その口調は気色が悪い」
『ケケケ、相変わらずつれないねぇ』
霊狐は草原の中からぴょんと飛び上がり、タンフウの前に姿を現す。
軽やかに彼の前まで駆け寄ってから、霊狐は森を振り返った。
『……臭うな』
「何が」
早く室内へ戻りたくて、わざと冷淡な口ぶりで言った。だが霊狐は構わず、今し方セイジュたちの去っていった方角を凝視するばかりだ。
タンフウは訝しんで霊狐へ尋ねる。
「何が臭うって、まさか体臭じゃないんだろう」
『そんなどうでもいいことを言う俺様だとでも思うのかよ。まぁいい、気のせいかもしれないしな』
呆れた様子で、ようやく霊狐はタンフウに向き直った。
霊狐は後ろ足で首をかいて、一つ大きくあくびをする。
『しかしあれだな。人と狐とじゃあ、接する態度に差があるよな。
狐に対しては辛辣でも、人間には柔和で優しく穏やかなタンフウくんか』
「黙れ」
タンフウは霊狐をじろりと睨んだ。構わずに狐は、ぴょい、と高く飛び上がってタンフウの肩に乗る。
『しかし面倒だなぁ、タンフウ? 折角、厄介払いが出来て、上手いこと息が出来るようになった
「別に。関係ないさ」
『へえ?』
「これから付き合いが続こうと続くまいと、所詮は他人。たまたま知り合ったお隣さんに過ぎないだろう。同じ組織にいるユーシュとツヅキはまだしも、たかが近くに住んでいるだけの人間にそこまで深入りされるとも思えない」
『さぁて、ね』
霊狐は意味深長ににやりと笑む。
『俺としては、無を貫くタンフウくんにとって、なかなかケッタイな巡り合わせだと思うのだけどねぇ』
「何を根拠に言うんだよ」
『霊狐としての勘、だな』
けたけたと声を立てて霊狐は笑う。苛立ったタンフウは、霊狐の尻尾を掴んで逆さに釣り上げた。
『あっ、こら何しやがるんだ。降ろせよ、おれを何だと思ってるんだ』
「霊狐だろ。しつこくてうるさい霊狐だ」
『何だよ、俺様に
タンフウの手を振り払い、霊狐は地面に着地すると、少しタンフウから距離をとったところで不服そうに座り込んだ。
『とにかく、おれは注意してやったからな』
「何をだよ」
『さあて、ね。自分で考えな。まあ、俺様のケネンが当たったところで、別に俺ぁ悪くないと思うぜ』
霊狐は緩慢に長い尻尾を揺らす。
『果たして幾数回の月が巡った後には、そなたはそなたのまま、在り続けることが叶うじゃろうかのう?』
最後に妖しげな声色でそう言い捨てて、霊狐はくるりと一回転し、草の影に消えた。
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