2章:雪白の志

ショウセツは貪欲に知を求める

 翌日。昨日と同じく、うららかな天気の昼下がり。

 一人お茶を楽しんでいたタンフウの静かな時間を遮ったのは、前触れ無しに響いた扉のノックである。

 そこに爽やかな笑みでもって立っていたのは、史学会のショウセツだった。


 綿の白いシャツに、彼の髪色に近い消し炭色のベスト、首には深緋の飾りがついたループタイといった、一見はきちんと身なりを整えた出で立ちだ。しかしよくよく見れば、シャツはくたびれ、ベストには皺が入っており、タイは左右で長さがずれ、よれている。おそらく服を着たまま寝たか、昨日から着替えていないのだろう。


「やあ」

「どうしたの、お前」

「遊びに来た」


 簡潔にショウセツは述べた。呆れ顔でタンフウは切り返す。


「お前、研究報告はどうしたよ」

「とりあえず今はいい。今は部屋に籠もっていたくない気分だ。サンは仕事だし、セイジュはまだ起きやがらないから、向こうには相手をしてくれる奴がいなくて、史学会を出て散歩がてら天文連合まで行き誰かとお茶して話がしたい気分だ」

「物凄く具体的な欲求だな」


 苦笑してタンフウは大きく扉を開く。


「別に良いけどな。僕もちょうど休憩していたところだし。

 入れよ。今は僕しかいないけど」


 ショウセツはその長身の体躯を屈めるようにして中に入った。玄関の入り口はさほど大きく作られていないので、そのままでは頭がぶつかってしまうらしい。

 タンフウは改めてショウセツをまじまじと見つめた。


 ショウセツは、初対面時の印象と、しばらく話してみての印象が少し異なる。

 基本的に喋り方は簡潔かつ事務的で、堅い人物を想像させるのだが、その実は意外と適当であり、良くも悪くも自分を飾らない。歯に物着せぬ物言いや、遠慮ない行動の端々で、子供っぽい面を覗かせた。今日の突然の来訪もそれである。

 とはいえ、大人びた風貌が効いているのか、見た目からではそれを微塵も感じさせない。ショウセツの髪はタンフウのそれよりも色が薄い灰色であり、幾分、大人びて映る。それが彼を落ち着きある人間に見せている一因なのかもしれなかった。


 ここまででタンフウは考察を止めると、大雑把に物をどけ、ソファーに来客の座る場所を確保した。元から散らかった部屋なのでさして片付きはしなかったが、タンフウ一人でくつろいでいた時よりはましである。


「ごちゃごちゃしてるけど適当にくつろいでくれ、ショウセツ」

「セツでいい。ああ、そうさせて貰う」


 言って、ショウセツはソファーに深く沈み、両足を手近な棚の上にどかりと投げ出した。戸棚からカップを取りだした手を止め、タンフウは無言でショウセツを見遣る。


「お前さ、別にいいけどさ……」


 遠慮がちな声でタンフウは呟いた。

 その視線に気付いた彼は、ん? と首を傾げて、悪びれもせずに答える。


「何か、問題でも?」

「いいえ、何でもないです」


 タンフウは肩をすくめた。

 セイジュはそのままだが、ショウセツも大概、自由人である。

 昨日の食事会を経て、タンフウが下した結論だった。


 紅茶とクッキーが前に置かれると、ショウセツは足を床に降ろし、細長い指でそれをつまみ優雅な仕草でクッキーを頬張った。

 反対側のソファーにタンフウも腰を下ろし、飲みかけの紅茶に口を付ける。少々ぬるくなってしまっていた。自分の分の紅茶を入れ直そうか思案していると、紅茶でクッキーを流し込んだショウセツが口を開く。


「そうそう。サンが、俺たちが自由に行き来出来るように目印を付けてくれたよ」

「目印?」


 反射的にタンフウは聞き返した。

 紅茶のカップを片手に、ショウセツは長い足を組む。


「ああ。要所要所で樹木の枝に布を巻いて目印にしてある。森自体は割と開けていて通りやすいし、あの経路を辿れば本当に十分足らずでここまで着く。正規の道だと百分はかかるのにな」

「百分って、まさか調べたのか?」

「まさか。地図上の計算だよ。

 ともあれこれでうちのセイジュが迷子になる心配もなくなったって訳だ。ひとまずは心配ないだろう。そして、だ」


 組んだ足を早々に戻し、体勢を整えてからショウセツは口火を切る。


「さて、まずは本題に入ろう。我々から提案なんだが」


 やってきた時の言い草からして、暇つぶしに本題も何もあったのか、と思うが、黙ってタンフウはショウセツの話を聞くことにする。


「もしそちらがよろしければだが、今度から我々と天文連合で食事を合同にしないか。朝昼は時間帯がお互いに不規則だろうから、夕食だけでも。

 互いに忙しい時期ではあるが、その程度の時間なら息抜きにもなるだろう。昨日の食事も本当に楽しかったしな。どうだろうか」


 一息に言って、ショウセツはタンフウをじっと覗き込んだ。

 意外な申し入れに、タンフウは目を瞬かせる。顔なじみだったサンはともかく、互いに昨日出会ったばかりだというのに、なかなかどうして唐突なショウセツの提案は彼を驚かせた。

 タンフウは黙り込んで、ショウセツの提案を吟味した。とはいえ、天文連合の側からすればたいして懸念事項は見あたらない。むしろツヅキが研究にかかりきりな現状では、ありがたい話ですらあった。


 脳裏にちらりと、昨日の霊狐の姿がかすめる。だが、霊孤の言うことなど知ったことではないと、すぐにタンフウは頭からそれをかき消した。


 考え込むタンフウから目を離し、ショウセツは脱力してソファーの背に寄りかかった。腕を頭の後ろにまわして、ショウセツは先ほどとはうって変わった適当な口調で付け加える。


「うちの小動物の要求だ。どうも奴は、うちの設備が気にくわないらしい」


 小動物。というのはつまり、サンのことらしかった。ショウセツの言い草を聞き、サンに同情しながら彼は苦笑する。


「そりゃ、誰だってそうだろう」

「いや、俺は気にしない。必要最低限、行動出来るだけの熱量が摂取出来ればそれでいい」

「なんとなく、サンの苦労が伺い知れたよ」


 史学会では、湯を沸かすことすらままならない。どうしてそれでやっていけるのかと思うが、きっとそこには並々ならぬサンの苦労があるのだろう。

 タンフウは一口、紅茶を飲む。ぬるくなってはいたが、それでも温かい紅茶に感謝を覚えながら告げる。


「今は他の奴らがいないから僕の一存になるけど、構わないよ。あいつらだって反対はしないと思うし。むしろありがたいよ、是非お願いしたいな」

「そうか。ならばよかった」


 唇を引き結んだまま笑みを浮かべてショウセツは頷き、身を起こす。これで必要な相談事項は終わった、とばかりに彼は再びクッキーをつまんで、ソファーの上に胡座をかいた。

 タンフウは席を立ち、自分の紅茶を淹れ直しに炊事場へ向かった。ここならば、すぐにお茶を淹れることも出来る。今のように、ぬるくなったら温かい紅茶を入れ直すことも容易なのだ。

 それを思って、また同時に昨日のサンの喜びようを思い出し、なんとなくタンフウは一人で笑んだのだった。






 史学会は新しい組織である。

 まだ設立より二年が経過していない。去年の春に研究所を構えたばかりの、歴史も何もない組織だった。

 史学会に所属しているキュシャは、ショウセツとセイジュの二人だけだ。サンはその数には含まれない。今年の春に弟子入りという名目で史学会にやってきたのだという。


「元々、俺は特区の史学研究所にいたんだ」


 いつの間にか二杯目になった紅茶をすすりながら、仏頂面でショウセツは語る。


「それなりに歴史も伝統もある大きな研究所だったよ。それこそ吐き気がするくらいにね。ああいう風潮、大嫌いだ」


 ショウセツの言葉に、歴史も伝統もある研究所である天文連合のタンフウとしては苦笑するしかなかった。

 だがショウセツは首を振り、「そうじゃない」とテーブルに肘をついて手を組む。


「歴史と伝統があるのが悪い訳じゃない。ただ、そこにある嫌らしい風潮や封建的な制度が、反吐へどが出るほど嫌いだった。

 知っているか、史学は王立研究ギルドでありながら、未だに家柄を重んじる風潮が根強いんだ。年齢が上だから偉いだとか、家柄が良いから偉いだとか、そういうの本当に嫌いだ。実力も相応にない人間が何を言ってるんだか。

 都会育ちの頭が空っぽな金持ちは優遇されて、田舎出の庶民な俺たちは隅の方で書簡しょかんの整理でもしてればいいんだとさ。

 お偉い年配の方々の崇高なお言葉だよ膨大な書籍の山に埋もれて死ねばいいのに」


 段々後半から毒を含んできたショウセツの言葉は鬼気迫るものがあった。おそらく史学研究所にいた頃は、散々嫌な思いをしてきたのだろう。

 彼のことである、きっと目上の人間にたてついて、立場はかなり悪かったのだろう。もしかしたら史学会がわざわざ山の中に設立されたのは、以前の確執や厄介な争いから遠ざかりたかったからなのかもしれない。




 世間一般からみれば、キュシャはかなり恵まれた職種である。

 身分の高低関係無く、男なら誰でも実力さえあればキュシャになれた。贅沢は出来ないが生活はある程度保証されており、そこそこの社会的立場が約束される。

 それでもキュシャの希望者が大挙して押し寄せてこないのは、ひとえにその試験が多少なりとも難関であることと。

 そしてキュシャとなった時に、一定の権利が剥奪はくだつされることに起因した。


 キュシャは試験に通り、仮登録期間を終えて各々の研究所に配属される際に、姓を剥奪される。


 これは『学問に家柄は関係ない』という観点から、家系を鑑みず個の能力を評価し、研究を発展させていくためである。

 その為、キュシャは特例として徴兵は免除されたが、それ以外の『家』に関する事項についてほとんど権利を失うことになった。例え貴族出身であろうと特権は与えられないし、遺産相続の権利も失う。

 婚姻は可能であったが、キュシャに姓が再度与えられることはなく、相手方の姓が変わることもない。子が生まれた場合にはその養育権等、全てが配偶者に帰属することになる。


 それらの事情もあってか、キュシャの婚姻は非常に少なかった。女はキュシャになれないため、相手が見つからず一生独身を貫く者も珍しくはない。

 それでも学問の研究を行いたいという志のある人間のみが、王立研究ギルドに集ってくるのだ。


 そのためキュシャは、それまでの生まれや育ち関係無しに、自分の能力次第でやっていくことが出来る数少ない職種なのである。

 しかし中には、ショウセツのいた史学研究所のように家柄による贔屓ひいきや差別が残っているところもあるという。なるほど、史学という特性上、昔から連綿と続く伝統や家柄などに固執する人間は、他のそれより多いのかもしれない。




 ともあれ、そういう経緯で史学研究所に嫌気が差したショウセツは、同じ研究所にいて唯一気心の知れたセイジュと共に研究所を出、自分たちの手で新たに史学会を設立したのだという。


「どこの研究所にいっても史学系は総じてそういう風潮だというなら、自分で作るしかないだろう」


 とショウセツは言う。

 だが言うほどそれは容易いことではない。

 独立するには当然、国への申請が必要で、審査を通るのは熟練のキュシャであっても相当に困難である。それを僅か数年の経験で研究所を持つに至るとは、余程ショウセツが優秀なのであろう。


 タンフウとて天文連合の代表だが、彼の場合は自ら働きかけた訳ではなかった。他に上の人間がいなくなって、役職の方から勝手に転がり込んできただけなのである。

 その差を思って、彼は密かに自嘲の笑みを唇に浮かべた。




 身の上話が一通り済み、ショウセツは紅茶を飲み干して空になったカップを受け皿に戻した。それを見てタンフウは自分も同様に紅茶を飲み干す。いつの間にかお茶請けのクッキーは食べ尽くされていた。


「ところで余談だが。タンフウ、というのは『薫る風』でいいのかな?」


 唐突に言われ、タンフウは困惑して顔を上げた。一瞬考えた後で、意図を理解したタンフウは、それを肯定する。


「うん。そうだよ。僕の名の意味はそれで合ってる」

「やはりそうか。当たった」


 嬉しそうにショウセツは頷いた。続けて彼はまた問いかける。


「ツヅキは、『海辺の月』ないしは『都を照らす月』?」

「そうだよ。確か後者の方だった。よく分かるな、セツ」


 感心してタンフウは言った。


 ヒズリア王国では、生まれた子供に古代語から意味を取って名付けるのが習わしだった。

 ただ、ほとんどの人間は自分の名の意味を把握しているだけで、一般人で古代語に精通する者はあまりいない。

 一応、義務教育で多少は習うが、それもほんのさわりに有名な単語の意味を覚える程度である。それこそ考古学や言語学を専攻したキュシャでない限り、古代語の読み書きや、今ショウセツがやってみせたように言葉の音から意味を推測することなど出来ないのだ。


 ショウセツは楽しそうに笑んで腕を組む。


「当然だ。一時期は古代語について相当調べていたし、今の研究とも関係が深いからな。ただ、ユーシュだけはいまいち掴めない。『ユーシュ』は何という意味なんだ?」

「あいつは確か、『優なる宝珠』だよ」

「ああ、なるほど。聞けば分かるんだが。悔しいな」


 唇を噛んでショウセツは眉をひそめた。

 今度は逆にタンフウが尋ねる。


「『ショウセツ』は? お前の名前の意味は、何なんだ」

「俺は『澄んだ輝ける雪』。つまりは、雪の結晶だ。俺は多雪地方の出身だからな」


 穏やかな表情に戻りショウセツが答えた。タンフウが問う前に、続けて彼は告げる。


「セイジュは『聖なる樹木』だ。相当に仰々しい名前だがな」

「その名を背負うにしては、森で迷いまくってるな」

「まったくだ」


 顔を見合わせて二人は笑う。しかし迷いはしたものの、遭難することなく天文連合に辿り着けたことを思えば、やはりセイジュは木々の加護を受けているのかもしれない、とタンフウはひっそり思った。

 無駄に霊狐に好かれる人間もいるくらいだ。木々の精霊に好かれる人間とているのかもしれない。


 笑いが収まってから、話の流れでタンフウは何気なく尋ねる。


「サンは?」


 先ほどのようにすぐ答えが返ってくると踏んでいたが、予想に反してショウセツからの返答はない。彼はタンフウの問いに詰まって、一瞬、黙り込んだ。

 ややあって、静かにショウセツは答える。


「……さぁ。俺も考えた事はあるがよく分からない。きっと、俺たちと別の系統の古代語から取っているんじゃないか? それならば、きっと『輝けるもの』だ」


 ふうん、と頷きつつも、どこか釈然としないままタンフウは俯き加減のセツを見つめる。

 確かに、異なった地方からの出身者や異国好みの貴族などが、稀に異国の古代語から名を付けることはあった。だがそれはごく少数だ。

 もしやサンは他地方の出身だろうか、とタンフウは勘繰かんぐった。ヒズリア王国は過去に様々な民族が混じり合った国なので、あり得ない話ではない。


 しかしそれにしても、古代語についてこの熱量をもって語っていたショウセツが、今の今までサン本人に尋ねていないのはおかしな話だとタンフウは密かに思った。

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