1章:樹海惑い

ユーシュは迷子の青年をせせら笑う

 暗い夜空に瞬いていたのは満天の星だった。


 いつもは見ることのできない光景が、彼の心を沸き立たせる。山に囲まれた自然豊かな国とはいっても、王都にある家からでは、これほどまでに沢山の星を見ることは叶わない。吸い込まれるような星空に見とれ、首が痛くなるのも構わずに、彼は飽きることなく口を開けて見入っていた。


「降るような星空、と言うのだよ」


 見上げる彼の下より、父親の声がした。首を下に傾けると、幼い彼を肩車するたくましい父の姿がある。

 しかし暗闇のためか、父の姿はぼんやりとしていて、はっきりと見ることは出来ない。


「実際、これほどまでに美しい夜空だと、流星が駆けるのもまれなことではない。あちらこちらで気ままに流れ星は飛び交っているよ。

 お前に見つけられるかな。自由を求めた星の軌跡きせきを」


 思わず彼は両手を父から離し、上空に瞬く幾多の星へ手を伸ばそうとした。あの星が、流星が、今にもこの手に掴めそうな気がしたのだ。

 不安定になった彼の体躯を慌てて支えると、微かに笑って父は言う。


「タンフウ。お前は、この星々に何を願う」


 父は優しげな眼差しで我が子を見遣った。彼もまた下にいる父を見返す。

 父のその瞳は深い、底知れぬ闇の色を湛えていて、見つめているとどこまでも吸い込まれてしまいそうな気がした。


 遠く、遠く、誰も手の届かないところまで。






******



 窓の隙間から差し込んだ光でタンフウは目を覚ました。


 どうやらうたた寝をしてしまったようであった。枕にしていた腕から頭を離し、下敷きにしていた本を緩慢な動作で閉じる。腕は痺れていた。

 硬くなった体をほぐそうと伸びをすると、側にあった書籍の山に肘が当たって崩れる。彼はげんなりとした表情を浮かべ、肩を落とした。


 外を見れば、既によいの気配は山の向こうへ去ってしまい、朝の光と鳥のさえずりが爽やかに戸外に充満している。いい日になりそうだった。

 しかしどうせ今日も外には出ずに過ごすのだから関係はない、とタンフウは寝起きの不機嫌な頭で思う。


 寝直すのを諦めて、彼は椅子から滑るように降りた。カーテンは開けるが窓は開けない。迂闊うかつに窓を開けて風が吹き込もうものなら、書類が散乱し、ただでさえ乱雑な部屋の中が輪をかけて滅茶苦茶になるのが分かり切っているからだ。今の惨状を何とかしない限り、当分、窓を開けることは出来なかった。



 疲れの消え去らないもやもやとした気分で、タンフウはぼんやりと先ほどの夢を思い返した。無意識に視線を上向けるが、瞳に映るのはただ無機質な石の天井ばかりである。


 昔の夢を見るのは随分と久々だった。ここ数年ずっと暮らしてきた天文台での出来事が、彼の脳髄では大半を占めてしまっていて、家族や幼少の時の記憶などずっと片隅の方に追いやられてしまっていると思っていた。

 何しろ、家族というものと無縁な暮らしを始めてから、既に人生の半分が過ぎてしまったのだ。そのうち物心つかない時も含めれば、彼のそれは更に短いことになる。


 父の顔を思い出そうとしてみたが、それは叶わなかった。僅かな面影は辛うじてまだ彼の記憶に留められているが、それは霞がかってぼんやりとしたものでしかない。

 彼が父親の姿を最後に見たのは、十数年も前なのである。

 今更、夢に父を見たところで、感傷に浸る余地はなかった。既に親も家族も温かい家庭も、彼にとっては全く無関係の遠いところまで来てしまっていたのだ。


 けれど、と魔が差したような考えが不意に浮かぶ。

 夢に見たということは、完全に忘れてはいないということだ。心のどこかで、自分はそれを望んでいるのだろうか。



 ――……馬鹿馬鹿しい。



 そう思ってしまってから、彼はすぐにそれをかき消して自嘲気味に笑んだ。


 ふとタンフウの脳裏に、ユーシュに付き添い王都に行った日の事が思い出される。

 貴族の家が建ち並ぶ通りで立ちつくしたあの日、日の暮れた街で感じた隔たり。


 彼は慌ててそれを記憶の奥へ封じ込める。

 あれから既に、半年が経過していた。




 夢の残像を追い払うように首を振ると、タンフウは顔を洗って部屋を出た。きしむ木製の扉と彼の靴音のみが辺りに響く。早朝の天文台には静けさが充満していた。

 螺旋らせんの階段をつたって階下に降りると、共有の場所である居間には先客がいた。ソファーの背から覗き込むと、灰色の毛布に埋もれた金色の髪が見える。


 毛布にくるまりながら手慰みに天球儀てんきゅうぎをいじくりまわしていたのは、半年前に仮登録を済ませたばかりのユーシュである。

 ユーシュは細い体躯を怠惰にソファーへ投げ出し、優雅に寝転がっていたが、目線を上げてタンフウの姿を認めると、軽く片手を挙げる。


「よう、タンフウ。おはよう」

「早いな、ユーシュ」


 ユーシュにならってタンフウは片手を挙げた。ユーシュは天球儀をテーブルの上へ放ると、気怠げにゆっくりと起きあがる。


「ああ、寝てないよ。けどもう朝だし、お前が起きて来るのを待ってた」

「そんなことだろうと思ったけどな。お茶でも飲む?」

「飲む」


 即答したユーシュに苦笑しながら、タンフウは居間の窓を開け放った。淀んだ空気が流れ、新鮮な朝の空気が入り込む。

 タンフウは壁に備え付けてある硝子がらす張りの戸棚からティーポットを取り出すと、居間から続く炊事場へ向かった。湯を沸かし茶の準備をしながら、彼はユーシュへ尋ねる。


「ツヅキは? まだ起きてこないか」

「あいつは起きてこないだろ。この修羅場が終わらない限り、きっちり昼夜逆転生活は変わらないよ。昼間にゃ絶対起きてこない」


 あくびをしながら胡座あぐらをかき、体重を背もたれにあずけて、ユーシュがちらりと階段を見遣る。

 ツヅキの部屋は二階にあったが、起き出してくる気配はない。ここ最近は毎日のことなので、二人とも気に留めなかった。おそらく眠ったのも明け方に違いない。

 もっとも彼らにしたって、人のことを言えたものではなかった。ユーシュが自室でなく居間のソファーで寝転がっていたのも、タンフウがうたた寝をしていたのも、ツヅキのそれと同じ理由だ。

 そろそろ、国への研究報告の期限が近づいていたのだ。




 王立研究ギルドはその名の通り、王家の支援を受けて成り立っている。研究費用や施設維持費はもちろん、キュシャの給料も国から出されていた。

 その代わりとして、キュシャは研究成果を国へ還元すること、また外部へその知識や技術を漏らさないことが義務づけられている。


 彼らが現在追われているのは、提出期限が約二ヶ月後に迫った国への研究報告の作成である。

 基本的に二年に一度の提出が義務付けられている研究報告の期日前は、どこの研究所も殺伐として論文作成にかかり切りになる。現時点ではまだ期限まで間があったが、そろそろ本腰を入れないと危うい時期だ。その為、タンフウも他の二人も、今から各々の研究に夜遅くまで勤しんでいるのだった。

 特に天文連合の場合、学問の特質上、どうしても夜に活動することが多くなる。昼夜逆転や徹夜は、さして珍しいことではない。




 炊事場から戻り、二人分のカップに紅茶を注ぎ始めたタンフウに、ユーシュは怠惰にぼやく。


「ついでだからさー、軽く朝めしにしようぜ。何でも良いから、作ってよ」

「いや、正直作る気力がないんだけど……。僕だってほとんど寝てないし」


 ユーシュの言葉を受け、疲れ切った表情でタンフウは苦笑いした。

 おそらくユーシュが起きていたのは、タンフウが食事をとるのを見越して、それにあやかりたかったためであろう。それもいつものことであった。


 料理の担当はもっぱらツヅキだ。だから彼が切羽詰まっている時は、今のように食事にきゅうすることになる。タンフウは余力があれば作ることもあるが、ユーシュは基本的に料理をしないのだ。

 何か食べるものがないかタンフウは辺りを探索した。食料棚と大きめの鍋とを探り、安堵して彼はユーシュに報告する。


「パンとリンゴと、それからトマトのスープがある。ツヅキが夜食にでも作ったやつじゃないかな」

「ツヅキさまさまだな」


 にやりと笑みを浮かべてユーシュは頬杖をついた。

 鍋を火にかけてスープを温める。部屋には鶏肉や野菜の入り混じった芳しい香りが広がり、嫌でも空腹を思い出させた。夕食以来、彼は食べ物を口にしていない。

 数切れパンを切りリンゴをむいていると、スープは丁度いい頃合いに温まる。スープを火から下ろし、タンフウは切ったパンを皿にのせて居間に戻った。


 その時である。

 突如、コンコンと堅い音が静かな室内に響き渡った。扉がノックされた音だ。

 驚いて、タンフウは扉を振り返った。


 天文連合は街から離れた山の中にあるため、滅多に来客はない。訪れるのは手紙の配達ぐらいのものであり、配達員以外の人間がここを訪れることなど皆無に等しかった。

 同じく音に反応して、ユーシュが扉へちらりと視線を向ける。


「あれ、手紙の配達? それにしては少し早くないか」


 言って彼は首を傾げた。

 まだ朝は早い。街中ならまだしも、天文連合は奥地にあるため、手紙が配達されるのは一番最後だ。普段ならばもっと日が高くならないと手紙が届くことはなかった。

 緊急の知らせだろうか、と訝しがりながら、タンフウはゆっくりと鍵を外し扉を開ける。


 目に入ったのは、扉の外にたたずむ一人の青年だった。

 青年は先ほどノックした時のままの体勢で、ぼんやりと立ちつくしている。手ぶらであったので、やはり配達員ではないらしい。無造作な赤毛には寝癖と思しき癖があり、心なしか疲弊しているように見える。

 青年はタンフウの姿を認めると、安堵の表情を浮かべた。


「あ。えっと、すみません。……ここって、どこですか?」

「はい?」


 思わずタンフウは上ずった声をあげてしまう。二人のやりとりを聞いて、ユーシュも扉の所まで歩み寄ってきた。


「何でしょう? ここは天文連合ですけど」


 ユーシュの言葉を聞くと、困ったような表情を浮かべ青年は頭をかいた。心許こころもとなさげに灰色の瞳を彷徨さまよわせながら、おずおずと彼は告げる。



「ちょっと歩いていたらいつの間にか道がなくなっていて。つまりその……。

 どうやら、迷子になったみたいです」






******



「それはどこからどう考えても迷子だろ」


 事情を聞き、笑い半分、呆れ半分の声色でユーシュは言い放った。


 あの後、赤毛の青年を中へ招き入れたタンフウたちは、彼からこれまでの経緯を聞いていた。

 一通り青年の話を黙って聞いた後で発されたのが、ユーシュのその言葉である。


「要は、珍しく朝早く起きたし天気も良いからたまにはその辺でも散歩してみようかなと外に出たけど、ぼーっとその辺を歩いてるうちに知らない道に迷い込んで、うろうろ徘徊はいかいした挙げ句、最終的にここへ行き着いたって訳だろ」

「その言い方だと身もフタもないな……その通りなんだけど」


 ユーシュの言いぐさに苦笑いして、彼はまた頭をかく。

 青年はセイジュと名乗った。


 カップをもう一つ戸棚から取り出し、来客に温かい紅茶を注ぐ。湯気の立った紅茶を手に取ると、セイジュは心底ほっとしたような笑みを見せた。

 ミルクと砂糖を紅茶へ入れ、出された紅茶を一口すすると、ようやく少しばかりの余裕が生まれたようで、セイジュは深く息をつく。


「ああ。冷えてたんだ、本当ありがたい。

 やっぱり温かい紅茶は落ち着くな。俺のギルドじゃ、紅茶もろくに飲めやしないんだ」

「ギルド? じゃあもしかして、お前もキュシャなのか」


 ユーシュの問いかけに頷いて、紅茶を飲み下しながらセイジュは答える。


「そうだよ。俺のギルドは、史学会しがくかいだ」

「史学会?」


 馴染みのないギルド名に、内心タンフウは首を傾げた。彼の心情を代弁するかのように、ユーシュは怪訝な声をあげる。


「史学会なんてとこ、あったっけ?」

「確かに知名度の低さは自覚してるけどな。一応は公認されてるんだぜ。本当にまだ最近出来たばっかりだけどな」


 口を尖らせてセイジュが反論した。

 疑問に思い、タンフウが尋ねる。


「でも、だったら尚更どうしてこの山の中に? 普通は特区にあるはずだろう」

「だよな。文系ギルドがどうしてこんなところをほっつき歩いてるんだよ。辺鄙へんぴな山奥にギルドを構えるなんて、天文や植物や地味ーな学問に興じる酔狂な連中くらいだぜ」


 ユーシュは自らを揶揄やゆしながら微笑する。




 王立研究ギルドは通常、国が指定したギルド特区にまとまって存在している。

 王都から見て東のギルド特区には、大半のギルドの研究施設が集っており、王都、交易が盛んな南西部、と並んで大きな街を形成しているのだ。


 だが天文連合の場合は、天体の観測を目的とする為、光が少なく空気の澄んだ山の中に置かれていた。他にもいくつか天文学を専門とするギルドは存在するが、基本的にどれもが街の郊外に拠点を置いている。


 こうした特殊な理由がない限りは、利便性の面からみても特区に研究施設を作るのが常だった。

 ましてや分野が史学である。郊外にギルドを構える理由はないように思えた。




 セイジュは一瞬、間を置いて、視線を空に泳がせる。


「俺の相方が、人があまりいない静かな環境がいいって言ってここに来たんだよ。俺もあいつも田舎育ちだし、自然の中の方が好きだから。

 ……まあ、大概不便だけどな」

「お前ら物好きだなー。何でわざわざこんなとこに来るんだよ」

「天文関係者に言われたくはないね」


 ユーシュへ言い返すセイジュの言葉に、タンフウは苦笑いした。セイジュの言う通り、天文を専攻するのは大分物好きの部類に当たるからだ。


 天文学は過去に隆盛を極めた学問であるものの、花型の役目を精霊学に奪われて久しい。

 もちろん、今でも暦や天文測量など必要不可欠な要素を担ってはいるが、地味で物好きが好む学問という印象が強かった。特区の王立天文台で働くキュシャ以外は、国との関わりは最低限で出世とは無縁だ。


 だから少なくとも出世を望む人間は、まず間違いなく天文学は選ばない。上を狙う者ならほとんどが精霊学を専攻するだろう。だからこそタンフウは天文学を専攻したのだ。

 もっともそれを言うなら、史学だって天文学同様、物好きの分野ではあったのだが。


 眉を寄せてセイジュはまた紅茶をすする。


「知らないか……そうだよなぁ。じゃあ、史学会がどこかも分かるはずないよな」

「最近出来たばかりなら、地図で探すのも無理だな。うちにある地図は十年前のだ」


 ユーシュの言葉にため息をつき、セイジュは口元に手を当てて考え込んだ。おかわりの紅茶を注ぎながらタンフウは助言する。


「一旦、街に降りてから、史学会への道を探すしかないだろうな。

 どれくらい離れているか分からないけど、街に降りれば地図も買えるし。うちに徒歩で来られたことを考えればそこまで遠くはないんだろうけど、森でまた迷ったら洒落にならないだろ」


 正論に頷きつつ、どこかセイジュは煮え切らない表情でうなった。

 やがてぽつりとセイジュは呟く。


「お金ないんだよな」


 一瞬、部屋に沈黙が漂った。

 音をたてずにセイジュがそっと紅茶を皿に戻すまでの間を置いてから、ユーシュがその沈黙を破る。


「お前、家に帰るの諦めた方が良いよ」

「いやそれくらいで諦めねぇよ!」


 思わずむせ返りそうになったが、何とかセイジュは堪えた。ユーシュはけらけらとおかしそうに笑い声をたてる。

 二人の様子を横目にタンフウは席を立つと、一度は炊事場に戻したパンとリンゴの皿とを持ってきてテーブルに並べた。


「とりあえず、せっかくだし食べていけよ。このまま行ったら、どこかで行き倒れるぞ」

「ああ、ありがたい」


 両手を合わせて拝む体勢になり、素直にセイジュは喜ぶ。スープを温めなおし、三人は少し遅めの朝食をとりはじめた。

 食べながらセイジュはタンフウに尋ねる。


「ここから街まで、どれくらい?」

「そうだな。大体、街までは歩いて三十分近くかかるよ」

「くあー……やっぱりそれぐらいするか……。おれのところも同じくらいかかるもんなー。街まで行きたくないな……」


 心底、憂鬱な面持ちでセイジュはパンにかじりついた。

 キュシャには出不精も多い。どうやらセイジュもそのようであった。


「それなら無理してこんな辺鄙な場所に住むことないのに」

「引き籠もるなら街も森も同じだろ。どの道、俺は変わらなかった。

 それに引き籠もるにしても、騒がしい街よりは静かな森の方が幾分マシだ」


 セイジュの返答に、タンフウは再び苦笑いを浮かべるしかなかった。

 本当に物好きだな、とまたしてもけたけた笑いながら、ユーシュは朝食のスープを飲み干した。

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