霊狐は訳知り顔に勧誘をする

 周りに何人か人はいたが、タンフウ以外の人々は、その狐には気が付いていない様子であった。

 狐はくるり、と宙で体を一回転させ、軽快に彼の周りを飛び回る。


『いい加減、観念してわれと契約せぬか。さすれば、そなたの望みは容易たやすく叶おうぞ』

「何度も言ったろう。僕はあんたと契約する気はない。そっちこそ、いい加減に僕へ付きまとうのを止めてくれないか」

勿体もったいないことよのう。世の中には、狐憑きつねつきに焦がれて止まぬ人間があふれかえっておるというに。酔狂な若僧じゃ』


 先ほどより更に足は速まる。しかし構わず、狐は辺りをまりのように飛び跳ねながらタンフウに着いてきた。視界の隅でその狐を捉えながら、タンフウは悟られぬ程度の微かなため息を漏らす。


「あんたが言うほど、世間は霊狐に寛容じゃないよ。

 確かに物好きもいるけれど、年寄りや頭の固い連中は、霊狐と聞けばたたりだ不吉だと、忌み嫌っている人間は少なくない」

『それもまた真実。しかしながらそなたはかりにもキュシャ、狐憑きとして暮らすのに、なかなかどうして都合の良い身分じゃろうに』

「ぼくの専攻は天文学だ。精霊学せいれいがく専攻ならまだしも、狐憑きとは縁のない学問だよ」

『宇宙を探る、すなわち星と精霊との関連性を探る事。ひいては宇宙と精霊との関わりをも探ろうとするのが天文系列の仕事ではないのかえ。

 末端の天文関係者は否定しようと、中枢はそう思ってはばからないじゃろうに』


 霊狐の言葉に、タンフウは僅かに顔をしかめた。

 公言されているわけではなかったが、近頃、王国が精霊学に傾倒しているのは明らかだったからだ。




 ありとあらゆる場所に存在し、火や水、大地や風などに宿る、自然界のことわりつかさどるもの。

 それが、精霊と呼称されるものである。


 かつて精霊は、人の手の及ばぬ畏怖いふされるべき存在であった。昔は洪水や地震など自然災害の折、人々は精霊たちへ供物を捧げ、怒りを鎮めるよう祈ったという。人知を超えた現象が起こった際は、決まって精霊の所業とされていた。


 しかしながら近年では、人から精霊へ積極的に働きかける術が発見されている。

 精霊から力を借り、人知を超えた物事を人が成す。

 その研究を行うのが、精霊学である。


 タンフウも世間話として聞き及んでいるだけであったが、最近は人に精霊をかせ、ある程度は自在に精霊の力を行使出来るようになったらしい。もっともその代償に、人間の生気と交換する必要があるので、憑かれた人間の負担をかんがみると大した事は出来ないと聞く。

 だがそれでも国や国民がこの新しい学問に夢中なのは、精霊学にかける予算や国民間で流布るふする情報の比率で目に見えていた。




「どちらにせよ僕が末端の研究者である以上、上層部の思惑は知るよしもないよ。そもそも、天文学と精霊学との高尚な結びつきには興味がないんでね」

『なんとも、嘆かわしいことよ。折角生まれ持っての才がありながら』


 大仰に霊狐は落胆してみせた。その様子に若干の苛立ちを覚えながらもタンフウは律儀に言い返す。


「僕が見えるのは、あんたたちだけだよ」


 タンフウは諦観ていかんした眼差しでもって目の前の霊狐を見下ろした。




 一般的に精霊は、風・水・火・土の四大精霊が世界の根幹こんかんを成すものとして、存在を多くに知られている。

 だがそれ以外にも、精霊は数多存在した。

 霊狐もまた、そんな無数に存在する精霊の一種である。


 一般の人々は、基本的に精霊の姿を見ることは出来ない。

 精霊を見られるのは才能を持った一部の人と、精霊学でそのすべを学んだ者だけだ。

 タンフウは一般人だし精霊学のキュシャでもなかったので、精霊の姿を目にすることは出来ない。

 だがどういうわけか、霊狐の姿だけは、生まれつき克明に見ることが出来た。




「それも、意味のない事だけれどね。精霊学を専攻しているわけでもなし」

『議論が堂々巡りじゃぞ。われは何も研究の為にと言っているわけではない。純粋にわれと契約すれば、そなたの願いは叶うと言っているのだ』

「それだって堂々巡りだ。僕はあんたと契約する気はない。自分の願いは自分で叶える」

『なんともまぁ、つれないことよ』


 ぱっと早足で前へ駆けていった霊狐は、先の方でタンフウが追いついてくるのを待ちながら後ろ足でちょいちょいと首筋を掻いた。仕草を見ればただの狐なのに、自分以外の者には姿が見えていないのかと思うと、どうにも奇妙な心持ちがした。




 普通の精霊と霊狐とは、存在は似通っているが事情が少しだけ異なる。

 どちらかといえば、霊狐の類の方が幾分、人間に身近な存在であった。


 大抵の精霊は自然界に存在するだけで、必要以上に人間へ関与しようとはしない。

 そこを何とかして人と共存させ、互いに利益を得ようとするのが精霊学の狙いだ。


 一方、霊狐等の特殊な精霊の一部は、自ら人と接触して契約を結ぼうとする。

 契約を結ぶと、精霊は人から生気を貰い、代わりに人は精霊に願いを叶えて貰うのだ。

 とはいえ必ずしも公平な契約にならないことはままあるらしく、民間伝承には悪さをする霊狐がしばしば登場する。その為、未だに霊狐を『不吉なもの』と見なして眉をひそめる者は少なくない。


 こういった差異があるため、果たして二つを同一のものとみなして良いのかどうかについては見解の相違があった。だが今のところは、普通の精霊も霊狐のような精霊も、一緒くたに『精霊』と定義づけている。




 霊狐に追いついたタンフウは、狐が何かを言う前にじとりと苦言を呈する。


「あと、何度も言っているがその口調は気色が悪い。あんたも狐のくせに猫を被っているのは疲れないか」

『ほほほ、そういってくれるな』


 そう上品に言い、タンフウの肩へひょいと飛び乗った後で、


『仕方ねぇだろう。その辺でばったり同胞はらからに出くわしてみろ。おれの霊狐としての品性が疑われるからな』


 急に横柄な言葉遣いになり、狐は低い声でタンフウへ囁いた。

 その豹変ひょうへんぶりに若干口元を緩ませながらも、うっとおしげな素振りを崩さぬままで、タンフウは肩に乗った狐を振り払おうとした。それを器用に避けながら、狐もまた顔をしかめる。


『つれねぇなぁ。おれたちも大概長い付き合いだってぇのに』

「霊狐に比べたら、人間の一生なんて些細なものじゃなかったのか? 僕以外にも、あんたの主になりそうな人間だったらその辺にごろごろいるだろう」

『ちぇっ、ますますもってつれねぇや。

 何度も言っているだろう、おれはあんたが気に入ったんだ。他の誰かと契約する気は今のところないね』

「早くあんたの気が変わるのを祈るばかりだよ」


 切実な思いでタンフウはため息混じりに呟いた。

 以前からタンフウはこの霊狐に付きまとわれているのだが、最近では外へ出ると彼が一人になる度に姿を現すので、いい加減に辟易しているのだった。

 タンフウは迷信を信じている訳ではない。だが現在進行形で付きまとわれている以上、霊狐は不吉である前に、充分すぎるくらい厄介な存在であった。



 不本意ながら霊狐を肩に乗せたままで、タンフウはまた細い路地を曲がった。

 もうすぐ日が暮れる。早いところ用事を済ませておきたかった。地図は頭に入れていたが、念のため鞄から紙切れを出し、もう一度確認する。


『おっ、今度はえらく豪華絢爛ごうかけんらんな貴族様の家の並びじゃねぇか。あんた、そんな地域をうろうろして捕まらないのかよ』

「あんたに心配されるようなへまをするほど馬鹿じゃないよ。けど、そろそろ暗くなるから、怪しまれないように早いところ済ませないと」


 紙切れを畳んでまた鞄にしまい込み、タンフウは足早に細い路地を抜けた。路地を抜ければさっきとはうって変わった大通りで、立ち並ぶ建物は豪奢ごうしゃなものばかりである。

 馬車が来ないのを確認して道を渡ると、三軒ほど広大な敷地の屋敷を通りこしてから、タンフウは立ち止まった。


 立ち止まった屋敷はやはり周囲の建物に負けず劣らず豪華で、門の向こう側には整えられた芝生が広がり、更にその向こうで立派な屋敷が煌々と明かりを放っていた。

 固く閉ざされた門の横に書いてある文字をタンフウは読みとろうとした。しかし辺りはすっかり暗く、上手く文字を読みとる事が出来ない。じっと目をこらして、彼は記憶してある名前と書いてある名前とを適合させようとした。


 なかなか反応を見せないタンフウにしびれをきらした霊狐は、落ちつきなく尾を振りながらせき立てる。


『なぁ、どうなんだよ。結局、ここも違ったのか? だからおれと契約すりゃあ、こんな面倒なこと』

「……ここだ」

『え?』


 霊狐の言葉を遮り、タンフウは熱に浮かされたような口調で続ける。


「ここが、……あの子の家だ」


 背後をカタカタと音をたてて馬車が通り過ぎる。

 日は既に落ちていた。暗くなった通りには明かりが灯り、たたずむタンフウの姿をほのかに照らし出す。


 タンフウは呆けた様子で塀の向こう側に広がる屋敷を眺めた。屋敷から漏れる明かりが煌々と庭を照らしているが、彼らのいる場所までは届かない。

 しばらくの間、彼はその場所に立ちすくんだまま、ぴくりとも動けずにいた。


『行こうぜ』


 静寂を破り、霊狐がタンフウの肩から飛び降りた。ぼんやりとしたままタンフウは狐の姿をじっと見つめる。


『ここだと分かったんだ、それで充分じゃねぇか。もう日も暮れた、これ以上長居したら本格的に怪しまれるぜ。

 あんたが怪しまれて、困るのは妹の方だろうがよ』


 最後の言葉に突き動かされて、タンフウは再び歩き出した。

 また細い路地に入ろうというところで、彼は後ろを振り返り、もう一度だけ屋敷を眺める。


 屋敷は大きく遠く、彼の手は届きそうにない。

 薄々感づいてはいたことだったが、それでも改めてその隔たりを感じ、彼はやるせない思いで帰路についた。


『素直に喜べばいいじゃねぇかよ』


 不意に霊狐に言われ、タンフウは思わず立ち止まる。


「それが出来ないから、もどかしいんじゃないか」


 唇を少し噛み締めて、タンフウは顔を歪めた。


「分かっていたんだ。突き止めたところで、僕には何も出来ない。今まで通り、変わらずに無駄な事を続けるしかないんだって」

『だからさ』


 ここぞとばかりに霊狐は高く宙返りした。着地してから狐は真っ直ぐにタンフウを見つめ、静かな声で語りかける。


『おれと契約すればいいじゃないか。何もおれが出来るのは家探しだけじゃない。

 このおれだったら、会う事が出来ないはずのお前と妹とを会わせてやるのだって、簡単なんだ』


 一瞬、心が揺れる。今の彼にとって、その申し出は非常に魅力的だった。

 しかしすぐに浮かんだ邪念をかき消すと、タンフウは首を横に振って霊狐にいなを告げる。悪態をついて霊狐はまたタンフウの肩へ飛び乗り、ちらりと背後を一瞥してから気怠そうに頭を尾の上へ埋めた。


「そもそも、求めたのが間違いだったんだ」


 返答を求めるでもなく、自分に言い聞かせるようにしてタンフウは訥々とつとつと呟く。


「深入りしないのが僕のやり方だったのに。こればっかりは特別だと、思ってしまった僕が馬鹿だった。

 やっぱり、僕は今までどおりにして、こんなことをすべきじゃなかった」

『……そうだったな。あんたの流儀は』


 狐は顔を埋めたままで、すらすらと答える。


『あんたが目指すものは、無。

 なんでもないもの、だ。

 他の何からも重要にされるでもない、他の何からも疎まれるでもない、周りに影響を与える事のないなにか。

 ただそこにいて、眺めているだけのもの』


 自嘲の笑みを浮かべながら、タンフウは狐の尾を突いた。ぴくりと狐は微かに尾を震わせる。


「よく知っているじゃないか」

『人間時間では、そこそこに長いつきあいだしな』


 まるでため息のようなあくびを漏らしながら、霊狐は深く顔を尾に埋めた。

 それから天文台にたどり着くまでの長い帰路の間、彼らは始終、黙りこくったままだった。






 王都から天文台へ戻ると、すっかり夜が更けていた。夕食時はとうに過ぎている。精神的なものも手伝って、非常に空腹だった。妙な充足感と徒労感、そして埋められない虚無感とを伴って、タンフウは重い足を天文台の入り口まで運ぶ。


 扉に手をかけようとしたところで、大人しくしていた霊狐はぴょんとタンフウの肩から飛び降りる。勢いよく草の原へ飛び込んで、月明かりの中で飛び上がった。

 あんたは元気だよな、と独り言のように口走ってから、タンフウは室内へ帰ろうとした。それを見とがめ、霊狐は去り際に一言、言葉を投げかける。


『じゃあな小僧、次こそは必ずわれのものに』

「ならねぇよ」

『つれねぇなぁ』


 ククク、と笑みをこぼし、狐はくるりと回転して消えた。

 霊狐が去るのを見届けてから、タンフウはため息を漏らすと、自分もまた天文台の中へ消えていった。






******



 静まりかえった夜更け。不気味なまでに森はしんと闇を湛えて眠っていた。

 ただそこに唯一響くのは、砂利と小枝を踏む小さな音。


 やがて木々がまばらになり森が終わると、視界の開けた先には月に照らし出された草原が広がっていた。さくさくと草を踏み分ける足音と共に、濃い影が地面に映る。


 夜闇に紛れて姿を現したのは、一人の男だった。


 彼以外に動く人影はなく、月と星とが辺りの草むらを照らすばかりである。足下からは微かに虫の音が響き、風が渡り草はらをさやさやと鳴らした。

 明るい月夜の今夜は闇に紛れる為の黒いコートも役には立たないが、彼の姿を見る者もいなかったので問題はなかった。 


 男の傍らには、一匹の狐が背筋をぴんと伸ばしてたたずんでいる。しかしその輪郭は曖昧にぼやけ、闇と混じり合って判然としない。それはただ単に暗闇だから、という理由によるものだけではないようだった。

 草原にしゃがみ込み、男は何事かを狐へ囁く。微動だにせずそれを聞いていた狐は、男が話し終え立ち上がってしまってから、ようやくゆるりと尾を振った。


『御意』


 狐は緩慢な仕草でもって、ゆるやかに尾で空を撫でる。すると狐はにわかに飛び上がってくるりと宙で回転し、姿を消した。


 狐の去った後には男だけが残された。狐の消えたのを見届けてから、男は感慨深い面持ちで天を仰ぐ。



「ようやく、……かえってきた」



 頭上には、満天の星空が広がっている。

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