三、番外同盟Ⅰ

 

 宮本武蔵。

 またの名を、新免玄信(しんめんはるのぶ)だっただろうか。


 その名は知っていた。

 なんとはなしに聴いていた。

 播州(ばんしゅう)出身の二刀の剣豪。

 その勇名、悪名はおよそ北の果てから南の果てまで日の下に知れわたっていた。


 時代としては不要に成りかけた兵法。

 だが家康将軍が武芸を好んだことで、剣による仕官――剣術指南という道が全ての者に与えられた。

 大名に仕えるため、血筋を持たぬ武家の者はこぞって武者修行に出たという。それは名を馳せ、高名を知らしめるための売名のようなものだった。

 

 だが中でも、宮本武蔵は異常であった。

 この男は初めこそ田舎の一剣士に過ぎなかったが、諸国遍歴の過程において他を圧倒するような功績を挙げていった。

 有名なものだけでも数多い。

 

 初めての殺しは十三の時、新当流の有馬喜兵衛。太刀を相手に木刀で挑み、初めての勝ちを獲った。

 十六の折り、播磨の秋山なる怪力の兵法者。勝利のあと、町には喝采が上がったという。

 それだけには留まらない。

 伝説として語られていたものもある。

 大和の国、十字槍術が名門。宝蔵院流の奥蔵院。

 伊賀の国、宍戸と云う鎖鎌使い。

 天下の江戸、夢想流杖術開祖。夢想権之助。

 足利氏の剣術指南、京都名門。吉岡一門との戦い。

 是等(これら)を打破して後、名は天下に轟くこととなる。

 しかし何故か、幾度(いくたび)の果たし合いを終え、幾つかの合戦に加わった後も彼は誰にも仕えなかった。

 引く手は無数であったというのに。

 客分という身で居座ることはあれど、決して腰を落ち着けることはなかったという。

 異様だ。異常とさえ言える。

 それもまた彼の名の広まりの由縁であった。

 ただ、何よりも後世に名を刻んだであろう戦いがもう一つある。

 

 ――巌流島、佐々木小次郎との決闘。

 

 九州の孤島で行われた、天下無双を定める決戦。

 戦がまだ僅かながらにも行われた時世に、私闘が天下に轟くという偉業。

 この時既に、武蔵(かれ)は生きながらに伝説(ものがたり)となっていた。

 

 その名は遠く、私の故郷にまで届いていたのだ。

 

 

*** 

 

 

 チュンチュン、チュンチュンチュン、と。

 ――何かの来訪を告げるような雀の声。

 その雑音に、女――すずか――は意識を覚醒させる。

 

「―――う」

 

 六畳ほどの殺風景な小部屋。

 木目の映える天井を見上げながら目を覚ます。

 障子からの薄く滲んだ陽光(ひかり)からして、時刻は早朝。

 寝ぼけ眼をさすって、体を覆っていた赤い衾(ふすま)を払った。すると体の節々が傷んでいるのに気づく。

 恐らく長くにわたって体を受け入れていた畳のせいであろう。そして、体が痛むという事は――生きているということだった。

 そんなことを思いながら、室内に目を凝らす。

 すると――


「――起きたか」


 低く、岩のひび割れたような声。

 四方何もない部屋の隅、鳥の書かれた掛け軸の下に大きな影がひっそりと座り込んでいた。

 巌のような大男、新免玄信。


「ひ……っ!」


 不意の恐怖に――血濡れの鬼を思いだし、咄嗟に頭を庇ってしまう。脳裏に掠めるは、赤い刀と滴る血。

 漠然とした死より恐ろしい――眼前の狂気。

 何よりも、沢山の、まだ活きている肉塊は………。


「う、うぷ。……うぇうぅェう」


 明瞭に蘇る魔境。

 見て見ぬ振りをしようとした朱の世界。

 だが無理だった。際限なく嘔吐感は込み上がってくる。

それを必死に抑えるようとも――粘つくような汗も眸子(ひとみ)を痛める涙も、全身(からだ)を抱く寒気も消えない。


「……ッハ、、ァはぁはぁ、はぁ」


 喉に上がった物を嚥下し、息を整える。

 その様を顔色一つ変えずに見ていた玄信が機をみて、口を開いた。


「落ち着いたかね?」


「なんで」


 すずがは頭をあげぬようにして、嗚咽じみた音を洩らした。


「ここは…? 私は…、……うッ」


 わからないなりに理解しようとして――再び吐き気を催した。

 元来、すずかは胃が弱い。精神的な苦痛に対して、強く耐えられる女ではないのだ。続けざまに訪れた極度の緊張がその脆さに拍車をかけていた。


「思い出すな。人が肉になるとこなんざ、覚えて得することはねぇさ。人斬りにでもなるなら別としてな」


 玄信の声色は怒りの閻魔のものではなく、無骨な――それでいて柔らかい声だった。

 すずかは口元の汚れを着物で拭い、そこでようやく玄信を直視できた。


「ここは小倉屋という旅籠(はたご)でな。儂があの辻風(つじかぜ)を斬った折に、倒れたお前さんをここまで運んだ」


「…なんで、ですか?」


 ――罪科(とが)ある女を、生きたまま寝床に連れ込む。

 状況だけ見れば危険極まりない。

 彼は血気盛んな大男であり、すずかは大女と言えど、歳若き女であった。しかし、彼女は男の狂気を垣間見ていたが故に酷たらしい死を想像する他はない。

 それが杞憂で終わらぬことは――すぐにわかる。


「そうさなぁ。金を盗られたと気づいたときには斬ってやろうとも考えたがね」


 玄信の表情は徐々に。

 

「物盗りはよくねぇが、見逃してやる」


 快活な、獰猛な笑みにかわっていったのだから。


「お前さんのおかげで果たし合いができたからな」


 鬼気壮絶な彼の歪みを直視して、今度こそ、すずかは恐怖に慄いた。

 

 ――蕎麦屋の親父が言っていたことを思い出す。

 この男は同じ人殺しとして辻斬りに思うところがあるのでは、と。

 あるいは、それは武士としての人殺しの経験などではなく――人斬りとしての在り方の話ではなかろうか。

 要はこの男。

 ただの辻斬りとかわらないのかもしれない。

 そう思えるほどに、彼の笑みは異常。常軌を逸している。何よりも殺しを求める害意があった。

 恐怖を悟られぬように、すずかは深く頭を下げる。


「すいません。実はあの……。私は自分から“妖怪”を探しに出向いたんです。あの辻斬りに会ったのも――注意を逆手にとって、橋の下に行ったからで……」


「気にせんでいい」


 対する玄信は髭を摩りながら、鬼気を消し――少しだけ申し訳なさそうな顔をした。


「……お前さんが河原に下りるのは、何とはなしにわかっておったのよ」


「――?」


「お前さんは辻斬りがどんなモノかもわからずに“妖怪”のことばかり聞いておったろう? だから少し煽ったのだ。万が一には襲われるようにな」


「まさか……辻斬りが、あの橋に出ると知っていたんですか…?」


 恐怖と疑惑は渾然一体となって淀みを生む。

 言いながら、その意図を考えた。


(誰かと果たし合うために、私を辻斬りの餌にした?)


 彼の言葉はそうとも取れる。

 ――そうとしか取れない。


「いやいや違うぞ。ただ、そういう所には物乞いどもがおるだろうて。そも人非人(あやつら)とて生きる存えるに必死なのだ。人が来たら殺しもするさな」


 その言葉に、あぁ、とすずかは唸ってしまった。

 言われて、ようやく気がついた。

 そもそも世の実情を理解したものならば、わざわざ川原に下りるような愚行はしないのだ。それをするかもしれないと判じられたすずかは――彼らにとって奇異の対象であったに相違ない。

 短い髪や背丈はどうにもできない。だからこそ言葉遣いや衣裳を注意していたの だが――どうにも上手くなかったようだ。


「……私はそんなことにも気づかずに橋の下まで降りてしまった」


「儂はお前さんがどこまでかわっておるのか、たしかめた訳だ。物乞いか辻斬りにでも襲われたとなりゃ、そいつはどうにも素面(しらふ)じゃねぇとな」


 恬然として嘯(うそぶ)く。反省の色など微塵もない。言い様からして、女の生死については保証する気もなかったのだろう。

 強いて言うならば、彼にとって泣けなしの金を奪われたことのみが想定外だったのだ。


「――私、そんなに変ですかね」


 ただ結果として、すずかは彼に助けられた。

 過程はどうあれ、それが真実である。

 奇異の視線は今なお続く。

 武人の慧眼(けいがん)をもって玄信はしかと女を捉える。


「ただでさえ女陰陽師なんて珍しい上に、都の外から来たというのはおかしい。こいつぁ怪しい」


「……?」


 玄信の言い方が引っかかった。

『変』から――『怪しい』にかわっていた。


「お前さんほどに常識知らずな奴は珍しい。貍が天下を取るよりも珍しいだろうなぁ。喩えば――都の妖怪ぐらいには珍しい」


 男の目がすぅ、と細められた。

 込められた意味は――疑惑か。


「私そんな!」


「いや、辻斬り一人殺せねぇ奴が何十人も殺せるとは思ってねぇさ。お前さんは何かしらの並々ならぬ事情があるのだろうて。とりわけ“妖怪”に関わる話でな」


「――っ」


 ――図星だった。

 その並々ならぬ事情に、この男は察しがあるのだろうか。このまま全ての事情を話すまで、この男は食い下がるのだろうか。

 困惑、憔悴。

 吐き気が戻って来た。

 胃や腸が、そのまま押し上げられる感覚。

 ただでさえ精神が疲弊しているのに、これ以上の圧力に胃は耐えられそうもなかった。


「……気が滅入るなら、話さんで良い」


 見るに見かねたのか――否、憮然として興味もないように、玄信が制止を挟む。追求する素振りもない。

 かわりに少しだけ口元を綻ばせた。獣じみた相貌(かお)をいやらしく、歪める。企むような陰があった。


「蕎麦代は払ってやる。盗んだことも見逃がしてやる。だが、命を拾った恩は返してもらおうかね」


 安心したのも束の間。

 この流れ。命はとらないにしても、何か大切なものを差し出さなければならない流れ。

 されど、無一文の旅の女から奪えるものなど一つしかない。

 ようやく――すずかは貞操の危機を感じ取った。


「な、なにおさせる、おつもりでしょぅ?」


 笑みを完全に引き攣らせて、怒りを買わないように謙(へりくだ)って言葉を返す。

頭の中では、どこぞの女郎屋に売られるか、身売り奉公として従事させられる未来が浮かんでは消えていく。

 赤くなったり。

 青くなったり。

 だが羞恥も恐怖も一瞬――男の様子に気づき、思考は凍りついた。

 対する玄信が浮かべるのは、またしても、あの獣の笑み。

 赤毛交じりの総髪はまるで、燃えるように揺れ、眸子の琥珀もまた強く輝く。


「ただの化かし屋やら、ただの阿呆には用はねぇがな。常識知らずなら、これはおもしろい」

 

 女を哂(わら)っている訳ではない。

 彼はこれから来たる果たし合いを笑っている。


「そら“妖怪退治”に常識なぞは必要あるまいて」


 この笑みを浮かべた刻、この男は殺しのことを考えている。人を斬る未来を愉しんでいる。

 会ったばかりのすずかにも、それは容易に読み取れた。

 そして、これから行う恩返しとはなんなのか。

 徐々に理解が追いつく。

 胸を撫で下ろすと同時に、一抹の不安。


「せっかくだ。志しは同じで在ろう? つき合ってもらうぞ陰陽師」


 堂々と玄信は告げる。二つの視線が、ぶれることなく重なった。

 これから先の展望などまるでなかったすずかにとって、玄信の提案は一つの救いであると同等に――底なしのような地獄であった。


「儂の――宮本武蔵の“妖怪退治”に」


 剣豪武蔵と陰陽師すずか。

 異常者(じょうしきはずれ)と異常者(じょうしきしらず)。

 二人の妖怪退治は、この時にこそ始まった。

 

 

***

 

 

「――という事と次第だったのだ」

 

 不承不承と言う感じで、玄信が長い語りを終えた。

 陽が昇りきってしばらく。

 思わぬ妨害にあい、すずかは一晩過ごした部屋からまだ出られていなかったのだ。

 朝一に食事が届いてはいたが、事の経緯を話し終わるまで、食べることを許されなかったのである。


「なるほどねぇ。うちはてっきり玄(げん)さんが女攫いでも始めたのか、と」


 そう嘯いたのは、灰の着物を艶やかに着こなす妙齢の女――旅籠小倉屋(こくらや)の店主夫人、おつやであった。

 見た目より歳は三十。背は低く、白粉(おしろい)の塗られた肌は雪のように白く、その中で唇が濡れ光る。身振り手振りも雰囲気も、すずかのそれよりも大人びている。

 彼女は前日、気を失った女を肩にかついできた玄信の行動を訝しんでいたのだ。そして機会を図り、朝一番に問いつめたのである。

 当然の如く、すずかは上手く言い訳を返せず、しぶしぶ、玄信が代わりに話すこととなったのだ。

 朝飯を盾にされては、狂気の剣豪も折れる他はなかったらしい。

 聴き終えて――おつやは一応、納得した。しかし、それでもまだ引っかかるところがあるようだった。


「でもまぁ、おすず。あんた、どうも事情は知らないけどさ。こんな男の近くにいると、えぇことが逃げてくよ」


 おつやはすずかに優しく語りかける。これにはただ肯くしかない。まさに母性の圧力である。

 すずかを丸め込んだ店主夫人は今度、玄信の方を睨む。


「何を言っても、この人は人殺しですからねぇ」


 眸子はただの女よりも強く、射抜く。

 特別な性癖(好み)のある男でなければ、竦み上がるような目力。それでも大男は全く動じなかった。

 そも、気にした様子もなく。


「今回ばかりは人ではなく、“妖怪”殺しだがな」


「知らないよ」


 おつやはその言い訳を一蹴して、再びすずかの方を見た。


「妖怪退治なんかやめちまいなよ? どうせ、殺しちまってから気が滅入ることになるんだからさぁ」


 まったく彼女の言うことは道理であった。

 すずかはしかし――そこで、黙っている訳にもいかない。拗ねた童子のような顔で反旗を翻した。


「……私はどうしても“妖怪”に会わなければいけないんです。それに、玄信さんには命を助けてもらった恩がありますし」


「その命だって、本当はこの人でせいで危なくなったんでしょう?」


「……それは、まぁ………そうなんですが」


 覇気のない決意表明に、おつやがキツい眼で返す。

 品定めするような眸子。見目麗しい女性にそんな目で見られては、女であっても緊張してしまう。

 どうあっても勝てる相手ではなかった。

 すずかは動けず、玄信は助け舟を出す気配もない。

 おつやはしばらくそのままで微動もせず。


「まぁ……。貴女がえぇなら、えぇんですけどねぇ」


 意外にも、しらっと振り返ってしまった。

 着物の先がひらひら、と舞う。微かに見えた横顔は――寂しげな色をおびていた。


「膳は後で下げに来るので、置いといてくださいね」


「あ、はい」


 何事もなかったかのように告げて、彼女は部屋を出て行った。声をかける余地はなく、すずかは唖然として見送り、ただ残り香に囚われた。

 ――おつやは何を考えて、あんな表情(かお)をしたのだろうか。

 普通の女のする貌ではない。同情か憐憫か――いや、それだけではないと思う。

 どうも、おつやにも並々ならぬ事情がありそうだった。

 と、そこで耳障りな雑音がすずかの意識に入り込む。

 飯を掻き込む音であった。

 玄信は話も漫ろに朝食を食べ始めていたのだ。手の早い男である。

 すずかよりつき合いが長いこの男ならばあるいは知っているのかもしれない。


「あの方は……何者なんですか? 妙に言葉に実感がこもっていたような気が……」


「…んぐ。細かい事情は知らん」


 玄信は答えるために、麦飯を汁で呑み込んだ。

 存外に律儀な男である。


「だがまぁ、今のご時世に人殺しぐらいは珍しくねぇが」


 なんとも物騒な言葉を吐いた後、本人から聞いただけだが、と前置きをして続ける。


「おつやはこの宿の前の店主の後家でな。夫が死に、店が行きゆかんとなった折、夫――要は、前の男の弟に嫁いだらしい。そんで今も店を続けとる」


 店のために身を差し出したということか。

 この時代、女一人で生きていくのは非常に難しい。

 そして前の主人との思い出ある店を守るためには、誰かに取り入るしかなかったのだろう。そのぐらいは男女の機微に疎いすずかでも理解できた。


「しかし――奇妙なことに、この弟は小倉屋についてはあまり話に噛んでいなくてな。どころか、おつやを抱いたこともねぇらしいのよ」


 死んだ兄の嫁を弟がまた嫁にとり、店の世話もしてやっている。しかし、その体には手を出さない。

 兄に対する敬意か、罪悪感か。

 もしくはもっと別の歪んだ関係であろうか。

 この時世にしてはかわった夫婦の関係に違いない。


「元から根性なしなのか――それともあの女に何かされたか。どちらにしても奇妙な話だな」


 お前さんほどではないがね、と付け加えて飯に戻る玄信。

 この男はここまで深く聞いておいて、その裏までは踏み込まなかったのだろう。

 玄信の語り口から何とはなしに理由を悟る。


(この人は他者に興味がない……んだ)


 すずかの時もそうだった。この殺しを求めるこの剣豪は、関心を向ける部分が常人と違うのだ。知っても実利にならぬことに一寸の関心もないのだろう。

 そういう人間だからこそ、おつやはこの男に身の上話をしたのか。

 奇妙な顔で玄信を覗き込んでいると彼は面倒そうに口を開いた。


「お前さんも早う飯を食え。儂らはこれからのことを話さねばならねぇ」


 そこで無駄話は終わりとばかりに箸を持つ。


「あ……はい」


 たしかにその通り。すずかには他人の身の上など気にしている余裕はない。それを思い出し、まず眼前の食物から始末をつけることにした。

 茶碗一杯の麦飯に青菜汁と焼きにしん。あと漬物。

 すずかには貧相にも感じられるものだったが、断食よりはよほど良い。それに他の町民風情に比べれば割かしマシな食事であった。


「いただきます」


 思いの他、腹が減っていたのだろう。

 気づけば恥も外聞もなく飯を掻き込んでいた。

 

 しばらく二人は無言で朝食を取った。

 茶碗をつつく音が消えたのは数刻後。

 腹七分ほど膨らまし、すずかは壁に寄りかかっていた。

 存外に満足な食事である。

 腹にはいった量も見た目よりは十分であったし、昨日の蕎麦に比べてよほど口に合っていたのだ。

 女の満足そうな様子を見て、同様の体勢だった玄信が半身を起こした。


「どうかね。蕎麦よりか幾分マシだろう?」


 と、どうやら同じことを考えていたらしい。すずかは素直に肯いた。


「ははは――こんな時ばかり正直か。お前さんは」


 そこで玄信は少し微笑んだ。堀深い獣の顔が微笑むと、それはそれで恐い顔である。


「小倉屋はな。素材の割に良い飯が食える。一夜の値も――女を買わねば数文で事足りる。儂らのような流れモノにはなかなか棄てがたい寝床であろうよ」


 小倉屋を褒めるように言う。

 食って寝るだけの宿を褒めるというのは、実に奇妙なことであったが。この男ならむべなるかな。

 無駄がない、というところを推しているのだ。

 その感性はわからないこともない。


「――あ」


 そこで、不意に気づいたことがあった。


「すいません。私の分のお代まで――」


 連れ込まれたのだから仕様のない話だが、またタダ飯を食っては申し訳ない。理智的な癖に厚顔無恥なこの女も、二度目はさすがに心が痛んだ。

 だが玄信はその苦痛を揶揄(からか)うように破顔する。


「いらんいらん。……それに金はもう貰ったぞ」


 むむ――と、すずかは唸る。金はもう貰ったとは?


「……まさか」


 着物の懐に手を滑らせて、探す。

 ない――――なかった。

 わずかとはいえ金の入った巾着の袋がない。


(盗られた! 誰に? ……此奴(こいつ)にっ!)


 若いハリのある額に深い皺が刻まれる。

 恨めしさ顔で訴えるが、玄信はそしらぬ風である。


「そのまさかだろうなぁ」


 飄々と言って懐からすずかの巾着を取り出す。そして、何か悪罵を返されるよりも早く、それ自体を投げてきた。

 ――無論、昨日よりも軽い。


「……酷い!」


「お互いにな」


 玄信の言に間違いはない。先に物を盗ったのはすずかの方であり、その上、彼には命の恩もある。

 持ち金ぐらいは渡すのが道理かもしれないが――かもしれないが頭にきた。

 逆恨みに相手を睨む。

 すると、男は憮然として押し黙り、


「少しは頭を醒せ。どうせ――蕎麦三杯の金では泊まれるところもあるまいて」


 静かに諭した。それもまた道理。……無一文であったからこそ、ふって沸いた幸運の小悪事に心惹かれてしまったのだ。


「むむぅぅ」


 すずかは唸りに唸った。僧侶の誦経のような音。およそ、うら若き女が出す声ではない。

 見かねた訳ではあるまいが、玄信がそこで一つ、救いの手を差し伸べた。


「さほど気にすることはねぇさ。ここに居る間は、儂が金の都合をつけよう」


「え、……いいんですか」


 呟きは相手の欺瞞を疑っていた。

 己で貶めて己の手で救い上げる。恩を売る時に、ならず者が往々にして使う手である。


(これは……何かよからぬ男にひっかかったかも)


 と――またしても、自分を棚にあげて浅慮に走る。

 ――さて。この男、何を考えているのか。

 瞳を半眼にして、玄信を見る。

 彼はそれに呆れた視線を投げ返した。


「お前さんも――余計なことばかり考えるものよなぁ」


 理だの何だのを突き詰めたい気はわかるがね、と付け足す。そして顎に手をあてて、片頬を吊り上げた。

 場の空気はそれだけで少し暗い熱をおびた気がした。


「何も金が欲しくば、“妖怪退治”に力を貸せ、とは言わねぇさ。本音を言えば、どうせお前さんは役に立たねぇと踏んでおる」


 協力してもらおう、などと語りながら――期待はしていないと過小に見る。すずかには反発の心はあったが、反論の余裕はなかった。

 失礼千万の言葉を吐きながらも、玄信は慧眼を光らせていたのだ。軽挙妄動の許される相手ではない。


「そうさな。着のみ着のまま。よくもそれで、“妖怪退治”などと嘯いたものよ。そこを儂は買っている」


 玄信の言葉を受けて、肚の底で舌を鳴らした。

 あれは方便だった――などということは既に、見透かされているに違いない。

 蕎麦屋での騙りは噂の拾集ありきのものだったのだ。

 それを見透かした上で女を助け、女を持ち上げようとする男の真意は未だに謎。

 笑っているが哂っていない。

 覗き込む琥珀は、刀匠(たくみ)の鑑定眼であった。


「さて、ではもう一度、訊くがね―――お前さんは何ができる? 何がしたい?」

 

 覚悟の程を訊ねる問い。

 唐突なようでいて、今更な気がしないでもない。

 そして、さらに、一つ。

 玄信は訊ねる。


「現に巣食う“妖怪”を知り、お前さんはどうすることにしたのかね」


 言葉には答えねばならぬ圧があった。その魔力に打たれ、すずかは大きく息を吸い――項垂れる。

 表情が陰る。精神が曇る。

 続く思考は霞がかかったように、あやふやだった。

 きっとそれは、覚悟がないからだろう。

 選択の先にどんな利益があったとしても、苦痛を感じてしまうからなのだろう。


「今は――“妖怪”との対話を望んでいます」


 ようやく搾りだした言葉もまた漠然としたままであった。

 視線を上げると玄信は少し考える風をしている。笑みは消え、熟慮に耽る顔であった。


「……“妖怪”に弁など通じぬだろうて」


 静かな否定。

 考えて語っている分、それが正当な判断であることを暗示していた。

 それは“妖怪”の話を訊いた時点で、すずか自身が考えてしまっていたことでもあった。


(それでも、私にできることなんて………)


 話が通じなくとも、それしかできることがないのだ。

 着のみ着のまま金もなく、小悪事一つできない――これは相手が悪かったのかもしれないが――まして、“妖怪”を斬る力もない。できることなど限られている。

 どうしようもない現状に沸々と怒りがこみ上がってきた。それは八つ当たりめいた言葉にかわる。


「そういう玄信さんはどうなんですか……」


 言外に込められた怒気。

 しかし言葉通りにだけ聞き取って玄信は、


「儂か。あぁ……話しておらなんだか」


 流れるように続ける。迷いも悩みも――一寸もありはしない。彼はもう決めているのだ。

 凝固毅然とした、巌(いわお)の如き在り方(覚悟)を以て。

 その涼しげな対応が――覚悟のなさを否定するように感じたのは、すずかの錯覚である。


「儂は斬るべき的(てき)を探して果たし合うのみよ。斬って、殺して、終わらせる。それしか出来ぬし、それ以外に興味もない」


 的とは無論、“妖怪”のこと。

 言うまでもなく――この男は剣豪であり、殺しを愉しむ者であった。そしておそらく、この地平に彼の敵にまでなれるモノが不足しているのだ。

 否、ただの人ではもう足りないのか。

 天下無双の剣豪にとって妖異壮絶の“妖怪”はそれに足るモノなのだろう。この男が血の決闘を求める獣である

 ことは最早、疑いようもない真実であった。

 宮本武蔵――この男がソレであったことを、すずかはここで思い出したのだ。


「どれにしても、“妖怪”に遭(あ)わんことにはどうしようもあるまいて。その上で、お前さんは対話を望めば良い。その上で――儂はソレを斬り殺すがね」


 何ともない風に言う。欠片の諧謔も交えずに語る。

 すずかにとっては彼の提案はまったく矛盾するようでいて、その実、これ以上ない保険であった。

 対話の失敗が前提となるなら、身を守る術がいる。そして、玄信の剣は一人の人間が持ちうる戦力、防衛力として最高位に値しうるのだ。この眼で見た辻斬りとの果し合いの様子がそれを如実に物語っていた。

 だから、すずかが苦渋の表情をしたのは実利を秤ってのことではなく。


(この……人殺し……!)


 人を殺すことに対する――嫌悪に依るものだった。


「それで、お前は困ろうかね?」


 玄信はそれもまた汲み取る。語るまでもなく、すずかの感情の機微は筒抜けなのだろう。

 だから隠すことはしなかった。


「えぇ、人殺しは苦手です」


 凛とした表情を取り戻して、素直に気持ちを告げた。


「よし。では仔細問題あるまいな」


 玄信はそれで、クククとこもった声を洩らす。今の問答こそ、最後の確認であったのだ。

 人は実利に生きようとも、感情を消すことはできない――否、感情もまた利の一つである。

 すずかが人殺しを認めることができぬのなら――それは利益が損なわれるということなのだ。

 その上で、嫌悪ではなく苦手と表したのは、損なわれたとしても実利が上回ると判断したからであった。

 だから結局、すずかはこの男に頼ることを選択したのである。

 同盟は成った。

 玄信はそれで満足したように肯く。


「ふむ。しかし。お前さんが命を慮(おもんばか)るというのなら、これからくる男の方がもう少しマシかもしれねぇな」


 天を仰ぎ、何某(だれ)かを想う男。


「ただ、アレは少々難儀な気質(ヤマイ)を持っているからな。難しいところか」


「え……とぉ? 他にも、仲間の方がいるんですか?」


 それも話していなかったかね、と玄信は嘯く。


「向こうはそうは思ってねぇがな。そいつには、“妖怪”について少し調べるように言うておいたのよ。安心しろ。事を調べることに関しては、アレほど信用に足る男はいねぇほどだろう」


 仲間――意外と言えば意外であった。

 すずかを同志にするほどなのだから、よほど人力が足りないのだろうと踏んでいたのだ。

 この時勢、物を調べることに長ける、“妖怪退治”の同志。この都はまさに、本邦の中心であり政事(まつりごと)の要地。

 暗躍、隠密。

 闇に生きる、黒き疾風(かぜ)。


(それはもしや……噂に聞く!)


 都の闇をひた走る正義の忍び――その様を夢想した。

 すずかは己の状況も忘れて、心の内のみではしゃぐ。玄信はこれを阿呆を見る目で見つめ、


「それ。虎を談ずれば、虎に至るぞ」


 と呟いた。

 その言葉が『噂をすれば陰が差す』と同じ意味だと察した矢先――ドタドタ、と。遠くから喧しい跫音(あしおと)が近づいてきたのだ。

 

 察するにその男――ニンジャであろうか。

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