間章、雷鳴落ちる。
二人の剣鬼による果し合いがあった――その日の夜のことである。
真円に近づき始めていた月は今日に限って、薄暗い靄(もや)に隠されている。
それにあわせように風は緩やかに凪いでいた。
静謐とした夜の都。
ちょうど武蔵と辻風が果たしあった正面通りを二人の歳若い同心が歩いていく。
彼らの一人が持つ提灯が黒羽織を揺れるように照らしていた。
「いやさ、聞いたか戸四郎(としろう)殿」
「何かね、正之進(しょうのしん)殿」
夜の見廻り。
普段ならば、都の“妖怪”を恐れて気乗りしない彼らであっても、今日ばかりは満面に喜色を浮かべている。
「今日の暮れのことだ。正にこの場所で、剣豪同士の果し合いがあったというぞ。それも、かの狂気の剣豪・宮本武蔵と浪狼の辻風幸之助であったとか」
「聞いた。聞いたぞ。さぞ、恐ろしい剣戟(けんげき)の嵐だったに相違ない。両雄、名の聞こえた剣豪なれば。某も見れなんだが口惜しい!」
彼らが昂揚するのは、正にこの場での狂乱騒ぎを知るが故であった。
泰平に加担する者たちとはいえ、戦国の英傑たちの物語を寝枕に聞かされ続けた若者たちだ。血風の闘争に快楽するのも無理からぬことであった。
と、そこで同心の一方――正之進が通りの土に何かを見つけた。
「ほら見ろ。まだ、血の轍(わだち)が残っておる。アレは武蔵か、それとも幸之助か」
「ほぅほぅ。闇の内では見にくいがたしかに――道に沿って続いておるな」
思わぬ決闘の痕跡(なごり)に、童子のように喜ぶ男たち。
無論、その血は切り裂かれた辻風の黒ずんだ血の跡であった。だけでなく、血の線は辻風が手にしていた血刀からこぼれ落ちたものである。
決闘の後、すぐに日が暮れたが故に、決闘の始末をする者もなかったのだ。
「では――いってみるか」
これまた正之進が好奇に憑かれて言う。戸四郎もまた、同じ顔をして従っていく。
二人はゆっくりと、地にこびりついた小さな黒点だけを見て歩いていった。
喜々として決闘の噂を語り合いながら、二人が行き着いた先はやはり件(くだん)の正面橋である。
血の跡は橋の向こう側――さらに、橋下の闇へと続いていた。
夢中の内に歩いていた彼らだが、そこでようやく戸四郎が違和感に気づいた。
「はてな。何故、橋の下まで血跡ありきや? 剣豪同士の果し合い。白昼堂々と行われたというが……」
その疑問にたしかに、と正之進も首をかしげた。
辻風の死体はたしかに回収されたという話だったのだ。
瞬時にして、彼らは同心の相貌(かお)に戻る。素早く、目配せをした。
「何やら匂うな。怪しい。……では、儂が見てくる」
「うむ……任せた」
毅然と肯き、正之進は川原の斜面に足をかけた。
片手に提灯。そして、もう片手を腰の一刀にかけて降りていく。途端に鼻を突いた異臭(におい)は嗅ぎなれた血の臭気であったことは言うもでもない。
さらなる警戒を以て、彼は都の闇を覗き込む。
提灯の朦(もう)とした灯りが橋下を照らし――、すずかが見たのとかわらない、惨たらしい斬殺の魔境が顕(あらわ)になる。
これで正之進の眼は一気に醒めた。
数えるに九つ。
いずれも川原に巣食う人非人(ならずもの)であろうが、老若男女問わず、刀で二つに割られていた。
「また辻斬りか……おのれ!」
と、正之進が怨嗟を洩らし、さらに魔境に踏み出した時、
――あっ。
間抜け声が、上から聞こえた。
刹那、鉄を引き潰したような異音が響く。
ギギィギギギィィィ――――!
ともすれ+ば悲鳴のような、夜の魔鳥(ぬえ)の嘆きのような――聞いたこともない奇怪な轟音。
或いは――雷鳴。
続いて、鉄がはじけ飛ぶ快音がなり、――壮絶な、阿鼻叫喚の声が放たれる。
正之進の朱を差した顔が、真逆の青に染まる。
紛れもなく、声の主は戸四郎であった。
「これは……もしや!」
正之進が提灯を川に投げ捨てて、坂に戻る。
一足二足。
鍛えられた健脚が跳ねるように坂を駆け上る。
すると、すぐに耳に届く異音は色をかえた。
びちゃ、びちゃ、と。
湿りおびた、肉をすり潰す音。正之進の顔に小さく柔らかな何かが跳ねた。一つではなく、夥(おびただ)しく、同時に温かな液体が雨のように黒羽織を濡らす。
飛来物の出処を見上げると――。
赤い欄干にかけられた、なお、朱い肉塊。
添えられる無数の耀き。吐き出される獣の唸り。
その胴から塵か霞の如く、肉粒が地へと溢れ落ちる。
それが坂から見上げる彼のところまで散っていたのだ。
数瞬前の魔境の姿など、容易く塗り潰すほどの狂気の光景であった。
「…ッッ」
同胞の亡骸。先ほどまで笑い合っていた男の、壮絶な死の相。
正にこの世の地獄のような光景に慄くより強く、正之進は己に迫るであろう凶刃にこそ戦慄した。
轟音雷鳴―――今、最もこの地を震撼させる、雷を駆る都の“妖怪”。
「ら、――“雷獣”!」
欄干の死体の上に、さらに立つ影の輪郭。
角度からして姿は見えない。
だが、死肉を喰む牙が僅かな光に輝いていた。
爛(らん)とした、無数の輝きを持つナニカ。
牙――それは無数の牙であった。幾匹の獣の大群の如く唸りを撒き散らし、蠢いて肉を喰む。
「おのれ――! バケモノめッ!」
気をやられていたのは一瞬か永遠か。
正之進が自我を取り戻し、足が跳ねた。
そこにシシィ――と歯から空気の洩れるような音が聞こえたかと思うや。
途端、身体の上に投げ出された重い肉片がのしかかった。
足を取られ、正之進は坂に手をついてしまう。
反射的に振り返る。
ここでその重りに気づいたことが、彼の命運を頒(わ)かった。
「……と、、戸四郎……?」
それが戸四郎の死体であれば彼は正気のままで死ねたはずだろうに。
だが、彼の身体に飛びついたソレは――肉塊。
二つに千切られた上半分。
水気をおびた肚の中身こそが、妄念のように足に絡みつく。
「あ。あぁ――…!! アァぁぁあぁぁッァ――」
阿鼻叫喚の絶叫は、今度は正之進の喉から洩れる。
恐怖と恐慌の檻に囚われた彼はもう思考が働いていなかった。死体を蹴り飛ばし、憐れ。虫の這うようにして坂を登る。
その無防備な背に―――一片の容赦なく雷光の閃きが襲いかかった。
天から墜ちる雷(いかづち)に、矮小な人は為す術なく。
――シシィ。
その音が愉しげな哄笑だと気づいた時すでに遅く。
正之進だった肉塊が万の牙に喰(は)まれていた。
それから幾拍の間もなく――坂に転がる二つの肉に一つの“雷獣”が群がっていた。
寂(じゃく)とした夜に、死肉を漁る音のみが鳴る。
獣はたしかに、肉に顔を填(うず)めていた。
満開の月夜でもあれば、それは虎狼のように映えただろう。しかし薄暗闇に唸る“妖怪”の姿は――外道畜生に相違ない。
シシィ、と歪んで笑う。
愉しくて仕様のないとでも言うように。
或いは――己が喰らうべき本当の剣豪(てき)がこの都に現われたことを、肚の底から悦ぶかの如くに。
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