二、剣の鬼


「ふ、ふふ、ふふふ。…ちょろいぜ」


 思わず漏れ出した笑み。すずかは予想外にうまくいった悪事に興奮を隠しきれなかった。

 蕎麦屋を出てから全力で走ること数刻、ほんの出来心からであったが、逃げる手順は実に完璧なものであった。

 

 目の前には夕焼けに染まった大橋――方広寺正面橋。

 その橋は京都一の大きさである鴨川の上を通っているいくつかの橋の一つである。

 遠目には明らかに他の寺とは一線を画す巨大な寺院、大仏方広寺の威容が見えた。

 方広寺はそもそも古くから豊臣氏と深い関わりのある寺である。そこには嘗(かつ)ての厳令『刀狩り』によって集められた刀剣の鉄鋼によって金の大仏が造られたと聞く。

 また、そこには大阪の役の契機となったとされる『国家安康、君臣豊楽』の字が彫られた鐘があった。

 豊臣方が関ヶ原の後に造らせた鐘銘は『家と康』を分断することから徳川家に対する呪いである、と解され、謀反を企てていると云う責め立ての口実に使われてしまったという話である。

 ――真実のほどは知らないが現在地をたしかめるのにはちょうど良い目印であった。


「ここまでくれば大丈夫かな」


 辺りをつぶさに観察して、迫る影のないことを確認する。それでようやく安堵の息を吐いた。


(それにしても、こんな大事になっているなんて……)


 ついつい金を盗ってしまったが、すずかの本来の目的は“妖怪”についての情報であった。

 大和国で聞きつけた“妖怪”なる奇怪な噂。そこで生まれた漠然とした不安。それがたしかな怪異として具現した。

 故に今、これに会わんとしている。

 妖怪に会って、たしかめなければならないことがあった。

 思い出すのはあの武士の言葉。


『とりわけ水際は危ねぇだろうて。橋下なんぞは殺す側にとっちゃあ死体の始末が楽だからな』

 

 ―――と。

 果たして本当に正しいのかは判断できない。

 たとえ辻斬りの横行する時代でも、まだ陽のあるうちに殺しが起こりうるのか、という疑惑もあった。


「橋の下……」


 眼前の河原を見て、橋の下に視線を向ける。

 既に、空は暁に覆われている。

 橋の骨組みなどで影になって、その真下は見定めることは叶わない。

 賑わう通りとは対照の、朱の兆した都の陰。

 青草のせいか。じめじめとした湿気に満ちるその空間(やみ)は、やはりどこか隔絶されている。


(……見て、みようかな)


 気になってしまった。それは小悪事を働いたことによる興奮や“妖怪”の情報を手に入れたが故の焦燥とあわさっての行動であった。

  

 ゆっくりと耳を欹(そばだ)てながら、河原に降りていく。陽が傾いているとはいえ、まだ京の賑わいは消えない。否、一部の夜の世界では逆に商いを始める者たちもいるはずだ。今はちょうどその中間(あいだ)。

 喧騒が耳に張り付き、音を聞きわけられない。

 だが目立った音がないのなら、そこには何もないかもしれない。

 そうしている内に橋の骨子に手をかけた。何の準えもなく、何の思考もなく、京の闇を覗き込む。

 

 闇に慣れない目を見開く。

 そこは斜陽に晒された朱の世界。

 薄暗いのに、光はわずかしか射していないのに、朱い。

 朱い。赤いではなく、朱い。

 いくつかの影があった。


 ――河川敷というところには遥か平安の頃から乞食や物取りが屯(たむろ)していたとされている。

 

 誰かに教わった話だ。

 それを今頃になって、想い出した。

 だから沢山の影があることは納得できた。

 ならば、それだと、

 何故こんなにも朱いのか。

 

 ――鬼の仕業だ。

 

 要は、既に事は終わっていたのだ。

 今更になって鼻をつんざくような異臭(におい)に気づく。

 

 腐った肉ではなく、生臭い鉄錆(てつ)の匂い。

 朱い世界の中心で、一つの鋼が耀いていた。誰かが鋼を振り上げていた。

 その誰かが背をすずかに向けたまま、目の前に転がる、まだ蠢き続ける人型の、ちょうど元服まじかの童子ほどの大きさの肉塊に、刃を振り振り下ろし―――


 

 音は聞こえなかった。

 

 

 幸い、何かに夢中の人斬りは後方の存在に気づいていない。

それを理解できたすずかは、できるだけ音を立てないように身を翻そうとして――


「た、…、、すけ……」


 無音の世界に張り付く、掠れ声が向けられた。

 ソレは恐らく、まだ呼吸が続いていた肉塊の。

 音が金縛りのように絡みつく。


(…ま、……まずい……!)


 あるいは、最期の力で手でも伸ばしていたのか。単純に眸子の先を見て取ったのか。赤く濡れた人斬りは示された道筋に、眼を向けて。


「――ぬぅ、何奴!」


 見つかってしまった。


「――ッ」


 男は殺意の対象をかえ――太刀を拭くこともせず、振り上げる。

 血涙が飛沫となり、赤黒い刀身が翻る。

 血に塗れ、狂気を孕む相貌は人間のソレではない。

 辻斬りの鬼、か。


「……っぅ」


 かつてない死への恐怖。否、人ならざる狂気への恐怖。

 彼女としても、このような時は悲鳴が出るものと考えていたのだが、喉から出るのは生温い空気のみ。

 それでも足は自然に動き出していた。

 精神(こころ)ではなく本能(からだ)が彼女にそうさせた。

 

 思えば――死体は探せば都のどこにでもあったのだ。

 

 川の底。

 橋の下。

 路地の裏。

 

 正しく周りを見れば、

 正しく時世を把握していれば、

 正しく話を聞いていれば、

 あるいは、もう少しは用心していたかもしれない。

 彼女は絶望的なまでに理解が足りていなかった。


 辻斬りは人の理などお構いなしに、

 ただどこにでも現れて、

 ただどこまでも追いかけて、

 そして、ただ単純に人を殺す。

 ――その身が妖怪などではなくとも、辻斬りならばそうなのだ。

 だから女に残された道は一つ。撒いて逃げる他はない。

 草の茂る河原を上る。一心に登る。

 

 追いつかれるよりも早く、先ほどまでの疲れも無視して登り続ける。

 通りの人は疎ら。辺りは必死な形相の女に眼を向ける。

 だがそれも一瞬。彼らは歩みをとめたりはしない。

 そんな人の流れを見て、方広寺がある向き――鴨川を横断する橋の向こう――に走り出した。


「待ぁてぇぇぇぇぇぃ!」


 駆けて橋を越えた刻。割れた叫びが通りに残響する。

 鬼の持つ、血染めの刀が空に晒され――人々が悲鳴を上げ騒ぎ出す。

 通りを行く者たちは近場の家屋に押し入ろうとする。籠持ちたちは籠を捨て、逃げんとする。物売りも身の可愛さに荷を棄てる。

 小さな混沌の渦が都の一角に巻き起っていた。

 すずかの紛れるべき人の石垣は、粉塵(ちり)の如く消え失せた。


「つぅぅ……」


 苦悶の声を漏らすも足は止めない。止めてはいけない。

 だが、瞳は既に閉じられてしまった。

 もう前に進むことしかできていない。

 気配でわかる――鬼は衆目に一瞥もくれず女の背中を目掛けて走る。ただ殺すためだけに追い縋る。

 男の跫音(あしおと)は鋭く、疾く、追いつかれるのは時間の問題であった。

何よりも恐怖が体を鈍らし、体よりも心の方が軋みを上げてしまっている。


「誰か……!」


 どうしようもなくなって。

 思わず、乾いた喉から嘆きを絞り出し。


 途端、重い衝撃。硬い壁にぶつかった。

 

「あっ…」


 ――死んだ。

 死を、覚悟した。

 

 いつの間にか足はあらぬ方向に進み、何かの壁にぶつかったのか。衝撃で体の感覚が吹き飛んだ。

 体勢を立て直すにも――もう足は動きそうもない。

 恐怖。芯を蝕む毒が体の全てを浸していた。

 もう、瞼を開けることすらできない。


(なんで。)


 斬られて死ぬ。


(ようやく、京都まで来たのに……)


(ようやく、帰れると思ったのに……!)


 悔しさに唇を噛む。

 走馬灯のように流れる記憶は、全て辛かったものばかり。

 数え切れないほどの苦痛の日々。京都(ここ)に至るまでの――、そして希望を知る前の、独り投げ出された絶望の数々。

 

「………あれ―――――?」


 しかし。

 どれだけ経っても、覚悟した死が訪れなかった。

 どころか、肩を支えられていた。腰をついてさえいなかった。自然と支えてくれた手を掴む。

 これは人の手。無骨な手。ぶつかったのは人の体。

 そして、つまりこれは救いの手――

 希望の光にすずかは瞳を大きく見開く。

 

「……お前さん。人様の金盗るたぁ、いい度胸しとる」


 一瞬で―――希望は、絶望にすり替わった。

 体を支えていたのは大男。

 後門が血塗られた鬼ならば、前門は地獄の獄卒――或いは閻魔王に相違ない。

 この大女が見上げねばならぬほどの大男が、狂気に笑っている。それは獣よりもなお獰猛な笑み。

 男は先ほど金を掠め取った玄信という武士だった。

 

 ――死んだ。

 また死んだ……!


 あまりの事態に、咄嗟には頭が働かない。

 思考よりも先に、口元は下手な薄ら笑いを紡いでいる。


「えと。――すイません」

 

 上ずった声を洩らし、


「退け」

 

 と、声をかけられたのもつかの間、

「て、……えっ――!?」

 途端にすずかは、放られていた。

 柔術のように流麗に、男の背後に投げられたのである。

 地を転がって、へたりこむ。そして、本当に足が動かなくなってしまった。腰が抜けたのだ。

 もう、男の背を見あげることしかできていない。


「そこで待っとれ」


 一方の玄信は最早、女を見ていなかった。

 大男は眼前、道の真ん中に立つ浪人風情の男――辻斬りを観る。まるで刀匠が鉄を鑑みるように。

 辻斬りの鬼は黒ずんだ刀を青眼に構えて、悪鬼の形相のままに玄信を睨んだ。


「おめぇ、何故にその阿女(あま)を庇う? それとも、おめぇも試し斬りか?」


 しかし踏み込んでは来ない。突如現れた相手の真意が読めずに動けないというのが正しいか。

 対する玄信は不動。短い髭を摩りながら言う。


「いや、今はこの女にゃ用はねぇ。儂はお主に用がある」


 そして虚のない堂々たる態度で、辺りに響く大声をうちはなった。


「――儂はお主に果し合いを申し込む。刻は今、場所は此処だ……!」


 無人となった通り。風が、その宣言を運ぶ。

 途端。

 周囲の人々が家屋から顔を出し始めた。


 一人。二人――三人、四人、有象無象の人々。

 徐々に。だが確実に。その数を増していく見物人。


(な、何が……起こってるの…?)


 驚愕は、すずか独りから発している。

 彼女には状況が理解できなかった。人々が現れることだけでなく、何より人々の表情が理解できなかった。

 現れた人々の顔は笑っていたのだ。

 男も女も大旦那も屋台屋も童子も老人も、さらに言うなら巡礼の僧でさえも。

玄信たちを近くで見ようと道に出る者もいた。一部ではどちらが死ぬか賭け事まで始める輩もいる。

 およそ辻斬りを前にした対応ではない。

 狂気と恐怖の無音は、ただ祭りじみた興奮に呑まれていた。混乱が深まる女とは反対に、当事者達はまるで意に返さない。


「なるほど残党狩りか。そいつぁ、精が出るこったなぁ」


「なに。これは儂の果し合いだ。――幕府(おかみ)の意向など儂は知らぬし、存ぜぬわ」

 

 言って、玄信は地に向け下げられた鞘口から、滑らすように太刀を引き抜く。右に煌く一刀。

 小気味良い間隔。起き上がるように脇差しを引き抜く。左に閃く一刀。

 即ち―――二刀流。

 切っ先を敵の顔面に向けたまま、二刀は胸ほどまで上げられる。

 二刀中段の構えであった。

 眸子に刃の光を受けて、辻斬りもまた一つの獣として――高揚の中で吼えた。


「よかろう。ならば、おめぇを殺して名を挙げやるわ。新當流、辻風幸之助ェッ! さぁ、おめぇも名乗りを上げろ!」

 

 高らかに、自らの名を誇示する辻斬り。名に込められ威力(ちから)は絶大であり。衆目は息を呑み、緊張する。

 対して、この場の玄信だけは相手の精神の唸りを見て、肉食の獣のように喉を鳴らした。

 そして一歩。力強く。

 其の名を此の地に刻み込む。


「二刀一流、開祖。新免玄信――いや、だ」


 静かに、だが不動の圧をもって。

 彼の言葉は万象(すべて)を呑む。

 一瞬をはさみ、湧き上がる歓声。興奮の絶叫、野次、奇声を交えた狂気が舞う。

 すずかはまた一人、その中に取り残されていた。


(……武蔵? 宮本武蔵――ッ!?)


 驚愕は先ほどを遥かに凌ぐ。

 ただ、その衝撃も歓声の中に呑まれてしまう。

 いつの間にか、かなり近くまで人が集まっていた。

 最早、衆目は一塊となり血走った目で両雄を見守る。

 既にそこは、ただの道ではなくなっていた。

 血湧き肉踊る殺しの舞台。

 この場に、人殺しを責める者はいない。殺しを愉しまない者などいない。


『いざ、尋常に――』


 暁の中で誰かが言った。

 血塗られた咎人と獄卒の鬼。

 相會する狂気と脅威。

 音が止まる。風が消える。空間が静止する。

 

 騒がしさはナリをひそめ、

 …。

 …。

 …。

 ちょうど三拍の空隙の後。


『――勝負っ!』


 咆哮は辻風と武蔵、双方から挙げられた。

 無音が爆ぜる。

 辻風に掲げられた黒朱の太刀。

 その刀身の軌跡をなぞるように血が舞う。赤い水滴から開放された刃は漆黒の輝きで空を駆ける。

 これぞ剣豪の絶技。辻風は間合い二間をわずか二歩で縮め、全身を駆動した一刀を振り下ろす。


「キェェェェィ!」


 まるで猿叫(エンキョウ)。殺すことに憑かれた者は人の言葉など忘れてしまったのか。恐るべきは気合、そして速度。


(速い――!)


 すずかは驚愕する。

 二尺五寸を越える長大な鉄塊を持っての跳躍。だが辻風の動きは事実に反して異様なほど早かった。

 動きは猛る波。

 重く、鋭く、敵を呑み込む勢いがある。

 それは避けられぬ必殺の割刀。鉄では防ぐこと叶わぬ、敵対者を刀ごと断ち切るであろう魔刃である。

 

(こんなの、片手の力で受け止められる訳が…!)

 

 すずかの視界に、一刀の地獄見えんとした刹那。

 

「――ッ!」


 武蔵は交叉する二刀を――相手の顔面に突き出した。のみならず、その先端に掴んだ相手の太刀を――流るるままに挟み込む。

 響く金属音、一瞬のみ。

 後に流れるは、鉄の擦れる快音であった。


「――喝ァッ!!」


 爆ぜる咆哮――武蔵は脇差し、左手左足を、半月を描くように大きく曳く。この後退に、好機とばかりに辻風は前身し、


「……、――!?」


 顔が歪む、違和感に支配される。

 両の手で振り上げた太刀。全てを断ち切るはずの漆黒の刃。それが封じられていた。

 吸い付くように挙げられた光――武蔵の太刀。

 黒白は噛み合い、根張り離れず。振り下ろすことを阻害する。

 

 これでは――

 

 逡巡は僅かに一拍もなし。されど致命。

 或(ある)いは先の咆哮こそが、ある種の誘いであったか。

 引いた波が、遥かな勢いをもって猛威を振るうように。

 

 武蔵の体がうねり。

 脇差しの刀尖(きっさき)が真っ直ぐに、


「―――死ね」


 辻風の喉に刺し込まれた。


「ガ、、――な、……ギギ」

 

 刃が抜ける。血が、血の華が路地に咲く。

 それであっさりと、ソレは終わった。


「辻風幸之助、敗れたり」


 辻風の手から、太刀が離れる。

 足が崩れた。

 ヒュ――喉から漏れるは風笛の音。

 呼吸ができていない。もう命は助からない。

 

 介錯でもするかのように、眼前の武蔵は刀を振るい。

 それで動かなくなった。鬼はただの塊になった。

 

「……っ、……な……」


 殺しを喝采する喧騒の中、すずかはこの一瞬の出来事に呆けるしかなかった。

 辻斬りを目撃し、のがれ、一人死ぬまで僅か数刻。

 陽光の傾きが変わらぬほどの間しかなかった。


「さて……次は」


 最早、死体に興味はないのか。

 何ともなく呟いて、血濡れの大男が振り返る。

 

 地獄の閻魔が笑みを見せ―――そこですずかの意識は途絶えた。

 

 

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