一、二天道楽


 京の都の門の下。

 近年までの争いなど知らぬ存ぜぬというように、町人たちは往来を繰りかえす。

 それというのも徳川の世になって以降、大公の令により有力大名の膨大な蓄えが工商人に流れ続けたためである。これにより下々の暮らしは著しく上を向いた。

 故に、冬近しといえど都の活気は衰えることを知らず。陽が傾きかけた今にも、人々はいっときの幸福を思い、泰平(へいわ)を喰い潰すように生活を続けているのである。

 憂き世から、浮き世へ――都の喧騒も形をかえた。

 その喧騒の波の中で、浮き上がるように女が独り。

 何某(だれ)と話すでもなく、翳(かげ)りを含んだ笑みを洩(も)らす。


「帰って、きた……」

 

 下人のような縞木綿(しまもめん)。黒い帯を巻く姿はそこらの町娘とかわらない。だが背負うように大きな荷袋を持った女は今、都についたばかりであった。

 大阪夏の陣からおよそ二年。いかに泰平の世といえど女の一人旅など珍しい。

 都近くには豊臣方の敗残兵があり、山には野盗の類が現れるのが常である。用心棒も連れない女が一人で旅などおかしいことこの上ない。

 されど、女の異様はそれだけには留まらなかった。

 艶のある黒髪は童女のような項(うなじ)までの短髪。結うほどの長さもない。化粧っ気もない小ざっぱりした薄い顔。眸子(ひとみ)は半眼に近く。対して、背だけは辺りの奉公娘より三寸ばかりも大きいのである。

 年齢だけみれば女盛りに花が咲きそうなものだが、以上のような諸々の要因が彼女を娘子の可愛らしさから遠ざけていた。

 即ち―――男のような大女が子どものような髪でふらついていたのである。

 触らぬ神に祟(たた)りなし、と。

 通りをねり歩く物売りたちも、見えぬ者としてこれを扱っている。あるいは豊臣の残党が女の恰好でのがれてきたと見ている者までいる始末。

 町人たちからすれば、それほどまでに近寄りがたい女であった。


「さて……と」


 そんな衆目の奇異の視線など気にもとめず、女は都に踏み出した。


「――まずは、どこか良いところを見つけないと」


 眼前の通りを眺める。夕方が近いにも関わらず、塩小路(しおこうじ)と呼ばれる通りは賑わい、何軒も立ちならぶ平屋建ての前にも出店が疎らながらに開かれていた。

 まだ時勢としては珍しい屋台であるが、少ないだけに多くの人が訪れる。

 女は道の隅を歩きながら、できるだけ貧相で都の闇に通じていそうな店を探した。

 そうして歩くこと半刻ばかり。

 都の端の南の方。東本願寺近く家屋の影にその店はあった。

 風が吹けば飛ぶような、ぽつんと置かれたおんぼろ屋台。

 女が目をつけたのは心底貧相な蕎麦屋である。

 蕎麦を作る簡易の厨房、木目の掠れる薄汚れた仕切り台、四人が座るのがやっとの切り株のような長い椅子しかない店だった。

 店には先客が一人だけ。

 擦れた赤い肩衣を着る三十路(みそじ)余の武士風情のみ。

 野性味の溢れる一口縛りの総髪から、素浪人のように見てとれる。男は薄い半寸ほどの髭を汁で濡らしながら蕎麦を音立てて啜っていた。

 女はこの武士から間を開けて隣に座る。


「親父様。蕎麦を一杯くださいな」


「あいよ」


 応じた親父は齢(よわい)五十過ぎ。深く刻まれた皺には積み重ねてきた年月が滲む。背も小さくて体も細いのだが、貫禄だけは道行く誰よりも持ち合わせている。

喩(たと)えうるならば小さな巨人だろうか。彼の顔はなんとも言いがたい説得力を放っていた。

 そんな小さな男が粉っぽい蕎麦を蒸籠に入れる。

 親父は作業を終えて、背を向けたまま声をかけてきた。


「おめぇさん。名はなんてんだ?」


「私ですか? あー……すずかと申します」


 ほう、と妙に納得したように親父が息を吐く。


「……じゃぁ女か。いやすまねぇ、でけぇ上にその頭だ。傍目にゃ男か女かわらなくってよぉ」


「ははは……」


 背の大きな童女髪の女――すずかは顔を引き攣せる。本人も気にしていることだったのだ。

 

「しかし女にしちゃあでけぇ。一体全体どういうこった?」

 

 巨人の背中はその変化を感じていないのか。まるで気を使う風もなく、心の内に踏み込んでくる。

 それはこの男の良いところなのだろうが――すずかは途端に面倒になってしまった。その事情など、およそ語ったところでわかるものではないのである。

 すずかはいつものように嘘をついた。


「……えと、父親譲りでして」


「父親ぁ? おめぇさんの親父はえらくデカかったみてぇだなぁ。おい玄信(はるのぶ)。もしかして、てめぇの餓鬼か」

 

 急に振り返った親父が声をかけたのは先客の武士であった。訊かれた男は首を一寸も動かさず言葉を返す。


「……ねぇな。儂の落胤(おとしだね)なら早くとも十五かそこらだ」


 深く、原野に響くような低音。言葉は吐き捨てるようでもあり、また戯れのようでもあった。

 そこですずかは声の主に視線を向け――驚いた。

 改めて見てみれば、玄信なる男の背丈は明らかに常軌を逸していた。

 はじめは座っていたから気づかなかったが、隣に座ればその頭が一つ抜きでていることがよくわかる。

 大女と呼ばれたすずかの背は平均した他の男武士と変わらないほどであるが、玄信はそれよりも頭一つ大きい。

 それはもう熊とか大猿というような形容が相応しいほどの巨漢であった。こんな男が通りにいたのなら、どんな賑わいの中でも見つけられるほどである。

 また、間近に視る男の顔は陰影が明瞭とした、どこか肉食の獣じみた彩(いろ)をみせていた。


「なんだ面白くねぇなぁ。しかし嬢ちゃん。なら、おめぇの親父は――」

 

 そこで親父は皺のある顔でニヤリと笑う。

 何かを思いついた顔である。嫌に間をためて。


「“妖怪”なんかじゃねぇだろうなぁ?」


 おどろおどろしく囁いた。

 まるで女や子どもを脅かすような声色。


 ヨウカイ、というとやはり。


 それがただの子どもだましのことではないことは、すずかも判っていた。故に悩む風もなく返す。

 それは予め用意していた言葉でもあった。


「……まぁ、似たようなものです。私の家系は京の陰陽師(おんみょうじ)

に所縁(ゆかり)がありまして。ようはこの背も陰陽秘術の効用かな、と」


「――陰陽師ぃ? そいつぁまた気色の悪い話だなぁ」


 すずかの言葉もさることながら、驚いた様子もないのが気に障ったのだろう。親父が訝しげに返した。

 一方の玄信は髭を摩(さす)りながら軽い笑みを浮かべている。チラと女を一瞥した。


「なるほど陰陽師か。しかし女を遣(つか)うとは、京の化かし屋も人手が足らねぇようだな」


 その声には皮肉が浮かんでいる。

 一方で――親父は明らかに勘違いしてとってしまったらしい。

 同情や憐憫、人情とも言えるものに打たれた人間の顔になったのだ。そうして弁明の間もなく、親父は勝手知ったるように語る。


「この時世に大変だなぁ。だがまぁ人生なんてそういうもんさな。しかし陰陽師なんて化かし芸に手を染めんのは止よしといたほうがいいぜぇ、ホントによぉ」


「いえ……あの」


 わかってるわかってる、と親父は語る。


「陰陽師だの山伏だのは今の都じゃ禁句にちけぇ。妖怪退治で死んだ奴なら五万五千といっからな。高僧も、現(うつつ)が相手じゃ祈祷もきかねぇ。止めとけ、やめとけ。命を惜しんで金を惜しまず、だぜ」


「……えと」


「しかし女一人で出来るお勤めなんて、なぁ。――色事にでも手ぇ出すか? でもなぁ。おめぇみてぇな大女は男もびびって近づかねぇよなぁ。どうしたもんかね、てぇへんだ」


 中々に酷いことを言う親父である。しかし彼の語りに慣れていない女は荒波にされるがままになってしまった。

 さて、どうしたものか、と悩み始めた時、


「三代目。少し待ったが良かろうて」


 途切れることない親父の勢いを止めたのは玄信。

 これは彼なりの助け舟であったのか――否。


「ここは一つ、陰陽師殿の話を聞くといたそう」


 含みのある言い方であった。忍び笑いで、大男がすずかを見る。その流れで親父の視線も動いた。


「見たところ都周りからきたのだろうて。はてさて――その心は?」


 炯々(けいけい)とした、射抜くような視線。やはり、すずかはこの男に鑑定されている。いつの間にか旅人であることも見破られていた。

 答えによっては、少々面倒なことになるやもしれない。

 すずかは戸惑いながらも懸命に考える。

 そして――無言で見つめる二人の男に、無理に笑って言葉を紡ぐ。


「…よ、……妖怪退治ということで一つ」


「………」

「………」


 一瞬の沈黙、男二人は顔を見合わせ――


「――ぐひ」

「んん――」


 奇声が口から溢れ。途端、


「ひゃはあはははっはは!!!」

「はは、ぐはっ! ハハッハ! はっはっハッ!」


 火薬(たま)の爆ぜるように笑った。


「聞いたか玄信!? この嬢ちゃんが京の“妖怪”を退治してくれるそうだぜぇ? うひひゃこれでてめぇのお勤めもなくなったなぁ?」


「ははっ、ごふっ! そいつぁ儂も困るなぁ! しかし、それほどすごい妖術ならば儂も習うておけばよかったものだ! こりゃ儂の人生は失敗か!」

 

 台を叩きながら爆笑する男たち。

 そんな対応がまかり通るほど、今の都で“妖怪退治”はありえぬことだったのか。

 しかしそれにしても笑い過ぎである。蕎麦の破片があたりに散って汚い。一しきり笑って、男たちが落ち着く。


「………?」


 そこでようやく、ムッとしている女に気づいた。

 親父は目を丸くして女を凝視する。


「おいおいまさか、本気だったのかい?」

「本気ですし、正気ですよ」


 すずかは憮然としたまま答えた。

 ここまで笑われては冗談であっても不快になるのは当然である。彼女にしてみれば、蕎麦を顔面に飛ばされて怒らなかったのは僥倖ですらあった。


「妖怪と聞いては放っておけません。ただ大和(やまと)の方には噂も少ないもので、何か聞けないかと思って都まで来たんです。笑われに来たんじゃないんですよ」

 

 親父は押し黙り、玄信は睨みを利かしていた。

 どちらの眼も冷めている。どうも女の真意を測りかねている様子だった。

 往来(まち)の雑踏は遠く、故に、誰かが動かなければ場の空気はかわらない。


「だから……お願いします。何か噂だけでも聞かせてください」


 だから、前につんのめるように――頭を下げたのである。

 それは唯一、彼女が彼らに訴えかける方法だったのだ。

 二人の顔は見えないが、二つの溜息は聞きとれた。


「ふん……三代目。話してやれ。この女には、現(うつつ)を教えてやったほうがいい。それこそ物の怪に憑かれとる」

 

 玄信は諦めたように言う。顔を上げると案の定、彼は想像した通りの表情であった。視線を親父に移すと、そこにもまた同じ顔。

 親父が仕方ねぇやと苦く笑う。笑みには初めと同じ、人情を帯びた優しさがあった。


「そうさなぁ。京の都の“妖怪”といやぁ怪力乱神と思うのが普通かねぇ。しゃあねぇなぁ。都一の噂好き、この三代目が教えてやらぁ!」

 

 カッカ、と木音が鳴りそうな快活さで古舞いのような動きを取る。噂好きを自負するだけあり、親父はどうも語りが楽しいらしい。


「いいかお嬢さん。妖怪は妖怪でも京の“妖怪”は訳が違うってぇ話よ。一度しかいわねぇからよく聞きな!」

 

 コホン、と一つ咳払い。

 そうして親父は語り始める。

 

 それは今、この地で起こる殺しの噂。

 怪異絵巻から這い出たような奇妙で奇怪な奇譚たち。

 現の京に現れる“妖怪”の怪異譚(ものがたり)。

 

 ===


 ――始めちょうどは、昨秋よ。

 申(さる)の名が死に、貍(たぬき)が後追い死んだ折。

 主君(あるじ)を無くした浪人が、あぶれにあぶれちまった訳だ。

 増える増えるは辻斬り下臈(げろう)。

 人斬り、金盗り、大騒ぎよ。

 だがな。ただの辻斬りだけじゃぁねぇ。

 これまた奇っ怪なのがあったのよ。

 

 まるで人の業(わざ)じゃねぇ、そいつぁひでぇ殺しがよぉ。

 刀折られて、肉を喰われる。

 刀はねぇのに、何故か斬られる。

 姿はねぇのに、刀に刺される。

 骨肉髄も、体をまとめて真っ二つ。

 幕府(おかみ)も恐れぬ所業の数々。

 人じゃあねぇ、なら下手人は決まってる。

 

 鬼か獣か、アヤカシよ。

 

 ――だが怪力乱神の類じゃねぇ。

 なぜかって?

 理由は至極単純よ……みんな斬られて死んじまった。

 僧侶も、神主も、陰陽師もな。

 神通力なんざ効きやしねぇ。

 その妖怪どもはどうしようもなく辻斬りなのさ。

 人じゃねぇなら、辻斬りみてぇになるはずがねぇ。

 神仏を怖れねぇ訳がねぇ。

 天下をとらねぇ訳があるめぇ。

 だからよぉ。京都のオレらはアレをこう呼ぶ。

 

 皮肉も込めて“妖怪”とな。

 イカサマ祈祷じゃどうしよもねぇ。

 どうしよもねぇ“妖怪”どもよ。

 


 ===


 

 親父の長い話が終わる。

 語りは饒舌に、されどその内容は惨憺たるものであった。

 話の節々から、都に住まう多くのものが“妖怪”に相対することを諦めたことが察せられる。

 すずかは神妙な表情で親父の語りを聞いていたが、ここで確認するように口を開いた。


「つまり……祈祷でどうにかなるなら、とっくに殺しは終わってるはずなんですね」


 不意の言葉に周りが答える間もなく、小さく続ける。


「そして全員、斬られて死んでいる。とり憑かれて魂を抜かれるような……そんな奇怪な話じゃない」


「お、…おう?」


 親父としては今度こそ女が驚き、震えるところ期待していたのだろう。だから女らしくもないあっさりとした態度に狼狽していた。


「殺され方は奇怪でも、神や仏、霊魂のような見えない世界の話じゃない。たしかに、陰陽師の出る幕はなさそうですね」


「……ぬ」


 凛然とした女の態度に、玄信も訝しげな眸子(ひとみ)を向ける。

 逆に親父は言葉通りにとったのだろう。愚昧な女陰陽師を諭しにかかった。


「そうだそうだ! だからやめとけおめぇ。斬られて死んだ高僧がいったい何人いると思ってんだ!」


「えぇ、そうですね。―――えと――――それで具体的にはどういった殺しが起こってるんですか?」


「んあ。あぁ、そりゃ。なぁ?」

 

 すずかは已然として揺るがず、相手を見つめる。

 困惑した親父は蒸し上がった蕎麦に視線を逃がしてしまった。どうも自分には扱いえないと悟ったらしい。


「おい玄信! てめぇが話してやれ!」


「儂か? 何故かね」


「人斬りならてめぇの専売じゃねぇか? 俺ぁ、死人なんぞ怖くはねぇが辻斬り、落ち武者には会いたくもねぇ。口に出すのも阻まれるってぇもんよ」


「そうかそうか」


 と、玄信はいやらしい顔をする。


「都一の三代目にも怖いものがあるとはなぁ」


 その実、一番怖がっていたのは親父だった。


「うるせぇ」

 

 親父が恥ずかしそうに言って、汁の器と蒸籠に乗せたままの蕎麦を女に差し出す。蒸された蕎麦は、どうみても伸び切っていた。

 わたされるままに、とりあえず一口。細い麺に、もうしわけ程度の薄い醤油の汁。何よりも十割の蕎麦粉でつくられた麺は切れやすくて、粉っぽい。

 ――これは、あまり美味くない。

 と、すずかが眉を寄せた時。


「……まず、一番に名高いのは“雷獣(らいじゅう)”か」


 生ぬるい空気を撥(はじ)くように振粛な呟きが洩れる。

 それは味気もない蕎麦を啜り始めたすずかに対して、玄信が紡いだ言葉であった。

 どうやら妖怪について語る気になってくれたらしい。


「ライジュウ?」


「妖怪の名だ。嵐の夜に地に落ちて、雷鳴と共に辺りを散らす。見つけた奴は殺される。灰色の狗か、もしくは狐の姿とされ、長い尾と尖った爪があるらしい。東国の方が発祥だと聞いている」


 雷を駆る獣。女の脳裏に浮かんだのは、雷鳴轟く嵐の夜に、森林を駆け巡る獣の姿であった。


「いやいや、東国だけの話ではねぇさ。西の戦国最強、立花宗茂が父――道雪が千鳥刀で斬った雷ってのがまた、雷獣だっつう噂もあるぐれぇなもんで」


 と、親父が口を挟む。それは所謂、名刀・雷切の伝説のことだった。

 この道雪は若い頃に雷を受け、その光の中にいた雷の化身を斬り殺したと云う。これを機に道雪は千鳥の愛刀の名を雷切と号したという話である。

 曰く、この『形ある雷』こそが雷獣であるとか。

 すずかは道雪が斬ったのは雷神だと記憶していたが、なるほど獣であるという話の方がわかりやすい。容の在る獣の方が伝説にも現実味がついてくるというものだ。


「でも、どんな獣であれ、都に入り込むなんて考えられませんが……」


 そう洩らしたのは無論、“雷獣”を畜生と仮定してのことだった。

 都は周囲を門やら堀で囲まれている。平安の世ならいざ知らず、野獣が入り込むとは考えにくい。これに玄信はいやいやと手を振った。


「現(うつつ)の方の“雷獣”は、人の容はしているらしい。漠然(ぼんやり)とだが、見たという話があるのだ。雲もねぇのに轟音が鳴り、人影が都を彷徨うことがあるとかな」 


「影……。じゃあ下手人は割れてるんですか?」


 玄信の説明からして、“雷獣”は人間である。

 その姿や時世を考えれば、正体がわかりそうなものだが――物事はそう簡単にはいかないらしい。


「はっきりと見た奴はいねぇのさ。見た奴はみな死ぬからな」


 頬を歪ませて、玄信は冷たい声で言い切った。


「此奴(こいつ)に襲われた者は幾百もの獣に噛みちぎられたような荒々しい傷が残る。この傷がまた塞がらねぇ、と。――切れ目がな。縫合できぬほどに荒れとる。まるで話を聞くどころではねぇのさ」


“雷獣”を見たものは伝説通りに死んでしまうのか。

 しかしその理由は瞬時に察することができた。

 

 ぐずぐずに崩れた肉は縫った途端に糸が外れる。縫合ができないということは傷が治らないということ。

 柔らかな肉を割いて、傷がまた膿を生ずるのだ。

 加えて、病源が入り込んだら最後、その傷は呪いや毒のように人を苛むのである。

 

「討たれた者の内には武家もいたそうだが。刀ごと折られているのが常だそうだ。噛み砕かれたように砕けておるらしい。そして血肉もまた、辺りに散っている」


 すずかは息を呑んだ。“妖怪”と呼ばれるだけあってソレは明らかに異常の類であった。

 話を聞く限りこの“妖怪”はただ恐ろしいだけでなく、戦える。

 武術の心得のあるものですら一方的に殺されるならば、何の心得のない女など、出会い頭にやられてしまう。


「刀すら砕く。塞げぬ傷を創る。雷鳴と共に顕れる。

 故に――“雷獣”。

 此奴の殺しが一番多い。だから京の民草は奇怪な轟音を耳にすればすぐに逃げるようになっとる。現れるのは夜。それも晴れに晴れた月夜が多い。

 殺しの場所は、何も普通の辻斬りとかわらねぇらしいが――逆に漠然としとるようだ。なんでも、つい昨月に五十人斬りまで達したという話だったか……豪気なことだ」

 含み笑いで語るあたり、玄信は肝がすわっている。

 しかし、その妖絶無比の異業を聞いて、すずかは完全に怯んでしまった。胃が痛んできた。


「ご、五十人斬りですか……」


「……気に障ったか?」


「い、いえ。まだ大丈夫です」


 既に胃は悪くなっていたが――“妖怪”は“雷獣”だけではない。他にもこれに劣らぬ異業のを行う魔手がいるのだ。それもまた、聞かなくてはならない。

 すずかは視線で続きを促した。


「ふむ。次に殺しが多いのは“窮奇(かまいたち)”。名の由来は唐の妖怪らしい。元々はその姿を風に溶かし、いつの間にか体を切り刻むという異形の獣のことだ。正体は突風で飛んでいった小石などと言われとる」


 カマイタチ。魔風の妖怪。この島の各地では名は違えど、姿なきモノが人を切る話は数多にある。これもその類であろうか。


「だが、京の窮奇は小石ではねぇな。旋風でもありはしねぇ。儂も遠目に見たことがある」

 

「え――見えないんじゃ?」


 すずかはつい思ったままを口にした。見えないから窮奇だというのに、この男は見たことがあると言っている。それは明らかな矛盾である。

 対する玄信は困ったように眉を寄せた。どう説明すべきか逡巡していたのだ。


「……視えるのだ。たしかに視える。だが、刀だけだ。宙に刀が浮いておってな。それが独りでに翻っては人を斬る。だから見えない風で窮奇ということさな」

 

 使い手のない刀。人を斬って去っていく何か。風のように――斬って流れて、消えていく。

 傍から見ればそれは風が刀を動かしているように見えるのだろう。それならば、窮奇と言いえるものである。


「現れるのは白昼堂々。都の至るところだと聞く。この辺りが一番多いらしいが、どこまでが“窮奇”か区別のつけようもないらしい」


「……姿が見えない、でも刀は視える。視えないのは使い手か、あるいは――それを動かす絡繰りかもしれませんね」


 すずかが自らの予想を語ると、玄信は感心したような声を上げた。


「お前さんも儂と同じ考えか。糸か布か、見えにくい何かが此奴の正体だと儂も踏んどる。独りでに動く刀なんてのは村正にもありはしねぇからな」

 

 目下のところ徳川家に妖刀扱いを受ける刀匠の銘を上げて宙を駆ける刀を否定する玄信。

 そこで急に、今まで黙っていた親父が口を挟んだ。


「はっ、あいかわらずだな、てめぇはよぉ。理屈ばかり捏(こ)ねやがって。しかしそれだと近淡海(ちかつあわうみ)の“雪女(ゆきおんな)”は説明できねぇだろ?」


 そこで親父が持ち出したのは“妖怪”――雪女。

 流れからして次の“妖怪”である。

 この名に関しては、すずかも知らない訳ではなかった。


「……雪女。たしか北国の山奥に出る女の妖怪ですよね? 山奥の小屋で休んでいると雪嵐に紛れて氷のような美女がやってくるとか。次の朝には溶けている、みたいな」


 近淡海とはちょうど近江国(おうみのくに)の中心にある日本一の大きさを誇る湖である。一説では、琵琶の形をしているという話もある。それほどの湖だ。

 しかし雪女と言えば奥州の方が有名であろう。それにこのような怪異は山中の幻影と相場が決まっている。

 だが“妖怪”は西国の近江国で、それは尚かつ湖に出ると云う。なのにその名は雪女である。

 すずかの疑問を察してか、玄信は続ける。


「さすがは陰陽師。よく知っとるな。ただ、冬の淡海には時々出るらしいのだ。――白い薄着の女。影は氷面の向こうにあって、此奴を追って湖氷に乗ればたちまち殺されちまう。世にも美しい鬼女の話よ」


 遥か氷上の彼方。視線の先、薄く霞む白布(はくふ)の女。

 淡雪の薄膜の向こうで、その女が微笑んだなら。

 例え妖怪でなくても――この世ならざる妖美であろう。

 

 すずかには追いかけてしまう者たちの気持ちが理解できるような気がした。その幻想が北の雪女と混じってしまうのも無理もないことなのだろう。


「体がまるで浮いてるみてぇに動くらしい。徒歩(かち)とは思えぬ速さでな。そして近づいた奴を斬っちまう、と。――姿は視える。だが刀がねぇ。その噂から“雪女”などと呼ばれとる」


 姿は見えるが、刀は視えない。風のように人を斬る“窮奇”とは対称の凶器。

 明らかに人の姿をしていても、“雪女”の業も人外の妖妙には相違ない。

 しかし聞く限り、“雪女”は“妖怪”の中で唯一人だけ場所が割れている。割れていても、昨年にはこれをどうにかできる者が現れなかったということなのか。

 

 雷獣、窮奇、雪女。

 

 都とその周りに現れる異業の辻斬り――“妖怪”たち。

 玄信や親父の口ぶりから、多くの者が返り討ちになったということが察せられた。

 それこそこの一年の間、祈祷師の類も含めて、誰もこの怪異をとめられなかったのだろう。

 一通りの語りを終えて、親父は真摯な眸子で、すずかを見た。


「どうだい? これでわかったろうよ。どんなに奇怪でも、どんなに奇っ怪でもよ。相手は現の辻斬りに違げぇねぇのさ。女一人で立ち向かうのは、浅はかってぇもんだぜ」

 

 子どもを諭すように言う。

 言葉の意味を、すずかはもう理解できていた。

 どの“妖怪”も奇怪ではあるが、夢幻(ゆめまぼろし)には少し遠い。玄信の言うように何かしらの作意ある存在なのだと感じられる。

 ならばこそ怪力乱神ではありえない。

 だからこそ退治するには現の力で抗するに他はない。

 心の奥底で、すずかは嘆息した。


「ここだけの話だけどな」


 と、そこで親父は急に声を低くする。


「この“妖怪”どもが都にいるってんで、二代目の将軍様は二条の城に来なかったつう噂があるのよ」


 秘事を語るように言う。

 二代将軍――家康の三男、徳川秀忠。その御方と二条の城と“妖怪”と―――一見して繋がりがあるようには思えない。


「え、あ、すいません。どういう意味ですか?」


「あぁん? おめぇさん知らねぇのか? 二代将軍様が六月(みなづき)から、この京都の南方まで来てるんだぜ。少し前までは、上洛上洛と馬鹿みてぇに騒いだだろうが」


 騒いだ――というよりは将軍上洛とあれば今も尚、騒いでいる人々はいるはずだ。しかしこの事実は、すずかの知らぬことであった。


「言われてみれば結構な賑わいだったような……そうでもなかったような……」


「まぁ下々の俺らにゃ、あまり関わりのねぇこったからな。興味がねぇのも仕方ねぇか」


 親父はこれに苦い顔をした。時世が時世だけに、すずかの無知も致し方ない、という態度である。そして、とっておきであろう話のネタが通じないことが残念で仕様がなかったらしい。

 波が引くように勢いを失くして、親父は萎んだ。


「……いや、そうでもないぞ三代目」


 そこに玄信が口を挟む。学者の如くに眉根を寄せた顔であった。


「此度(こたび)の上洛はいわば世襲の証立てだ。泰平とはいえ、駿府の大御所(徳川家康)が死んだ今、諸国の城主は肚裏(はら)に何を抱えているか知れたものじゃねぇ。

 徳川は西国の有力者を集め、誰の天下かを示そうとしているのだろうて――至極当然の流れだ。しかし逆に、この会合にて世の流れがまたかわるやもしれねぇ、と」


 玄信は浪人風情であるが故に少々時世に心得があるのか。天下の移り変わりが起こりつつあることを正確に捉えていた。

 ただし町人の親父や流れ者の女にはその意義さえも良くわらないのが実情である。


「どうかねぇ。武人ならいざ知らず、俺は世の中がかわったところで細々と蕎麦を売るしかねぇからなぁ」


 自分の手の皺を見つめながら親父がしみじみと言う。玄信はそうもいかん趨勢だぞ、と嗜めるように返す。

 すずかにしてみれば――しかし、そんな天下の流れに興味はなかった。

 それに話が脇道にそれている。


「あの……結局、将軍上洛と“妖怪”。何か関係あるんですか?」


「おぉう。その話だったな」


 親父は一度、咳払いした。


「いいか。二代将軍様は京都とはいっても、ここから少し南に離れた伏見の城にきなすってる。都の中心には、あの二条の城があるってのにな」


 言って、暖簾の向こうに目を向けた。すずかも釣られて、目線を移す。

 ここからでも、その一端を見ることはできた。

 京都の中心にそびえ立つ天守閣。

 堂々とした権威の象徴。京都二条の城。

 親父は活き活きとその概要を語ってくれた。

 この城は天下分け目の大戦、関ヶ原の合戦のすぐ後に家康の命で建てられた城であり、二条堀川通りに建てられたが故に、そのまま二条の城と呼ばれている。

 過去にも二条通りに城や聚楽第を築き、権威の象徴(しるし)とした有力者は数多くいたが――徳川の城は考え方が他とは一線を画していた。

 現にこの城は徳川家康が『獲られても獲り返せる』ようにと、大した軍備も付けなかった平城なのである。

 獲った獲られたの城ではなく休息を旨とした造形で、その実、築かれて数年。家康も秀忠もわずかしか居座った事のない。空城同然であるという話だ。

 正に城であって城でない、という奇妙な意義を背負った城なのである。

 その上、この城を管轄するのは――京都所司代。

 都の治安を司るお役所であるという。


「まぁ、実際は玄信のいうように政事(まつりごと)も関わりあるんだろうがよ。しかし、この辺りには辻斬りが多いのも事実だぜ」


「そして都の辻斬りは――奉行所も扱いかねる“妖怪”までいる。万が一にも将軍を近づける訳にはいかねぇのだろうて」


 玄信が短い顎鬚をさすりながら言う。彼の視線は虚空の何かをしっかりと捉えていた。


「恐らくは同心、与力を取り仕切る所司代が裏で手を回し、うまく隠しておるのだろうよ。この地で粗相があっては腹切りでは済まされねぇからな」


 つまり、所司代の諌言(かんげん)によって将軍の駐屯先がかえらたのかもしれないのだと云う。


 それはすずかの予想を酷く上回る“妖怪”の影響力であった。


(――ただ異常なだけじゃない。“妖怪”は、あまりに世の中に影を落としすぎている……)


 親父たちの推測が真実であれば――“妖怪”は天下の趨勢に関わるモノになってしまっているということ。

 胃の痛みに呼応して、心の臓腑が嫌な高鳴りを覚えた。


「……意外と大事なんですね」


 苦渋の顔で呟くと、玄信はまるで表情をかえずに。


「大事……いやさ些事だろうて。人殺しなどどこにでも湧いている。将軍上洛と同じほどには。儂らに関わりねぇことだろうよ」

 

 気楽に、またしても冗談のように彼は言う。琥珀の眸子は彼がどこまで本気なのかを教えてはくれない。


「いえ……私が思っていたよりは、という意味です」


 すずかは立ち上がった。

 情報は想像以上に潤沢になった。潤沢すぎるほどであった。相対に顔を青くしてはいたが、味気ない蕎麦もしっかりと食べ終えていた。


「ご馳走になりました。蕎麦、美味しかったです」


 嘘を吐く。

 話の重大さに蕎麦の味など感じる余裕はなかったから。


「なんでぇ、もぅ帰るのか?」


「はい。話を聞いていたら少し恐ろしくなってしまって…早めに宿を探そうかと。えっと、お代はいくらですか?」


 懐から紫の巾着袋を取り出す。あまりに軽い布の袋。

 実は都に来た時点で彼女の金子(かね)はほとんどなかったのだが、それでも、蕎麦だけは辛うじて払えるだけはある。

 対する親父は溜息を吐いて手をひらひらと振る。受け取れないという態度であった。


「――いらねぇよ。初めての客からは金はとらねぇ主義なのさ。それとは別に若ぇ女を死なせるのも主義じゃねぇ」

 

 細い瞼の隙間から見える小さな黒瞳。

 それが、すずかを捉えて動けなくした。


「だから、“妖怪退治”なんてやめてくれや。蕎麦代はその手前金ってことで一つ。……な?」


「そんな……」


 女の嘘などこの老人には見抜かれていたのだ。どうやら重ねてきた労苦は伊達ではないらしい。そして、その上で、親父は情をかけてくれたのであった。

 長い沈黙を肯定ととったのか、親父の表情が不意に緩む。


「よし! つぅことで玄信」


 ククッと子どものように笑っていた。


「おすずの蕎麦代はてめぇが払え」


「――儂か?」


 途中から黙って蕎麦を食っていただけの玄信を急な出費が襲う。親父のすずかに対する善意はそのまま、玄信に対する悪意にもなっていた。


「てめぇ、この前の大阪でガッポリ扶持(ふち)を貰ったろうが? ならいいじゃねぇか」


「なるほど。……………なるほど……?」

 

 首を傾げながらも、小さく叛意を示したようだが、親父は受け付けない。

 結局、玄信は巾着袋を出してしまっていた。

 何を言ってもこの男は三代目に頭が上がらない様子。

 それを見てとって、すずかは思わず笑んでしまった。――なるほど、“妖怪”の情報だけでなく、思わぬ拾い物があったものだと。


「――ところで親父さん。次に“妖怪”が出るのなら、どこに出ると思いますか? 用心するに越したことはないですよね」


「知るかよ。玄信、てめぇなら同じ人殺しだろ。何か思うところがあるんじゃねぇか?」


 殺しの話は殺しの専門家――武士に聞くのが一番という判断か。

 訊かれた男は律儀にも、天を仰いで逡巡している。

 ありがたいことだ。ありがたすぎて、すずかは大きく身を乗り出していた。強く、拳を握る。

 そっと、引いた。


「で、どうなんでしょうか」


「……そうさなぁ。まず日が落ちたら外には出るな。日が登ってても陰にはいくな。とりわけ水際は危ねぇだろうて。橋下なんぞは殺す側にとっちゃあ死体の始末が楽だからな」

 

 都の陰に、水際か。


「まぁきぃつけろよ? “妖怪”でなくても、女一人は危ねぇからな」


 二人の助言を聴き終えて、すずかは無理に丁寧に頭を下げる。


「御恩賜りまして、ありがたく」

 

 親父は禿げかけた頭をさすりながら、少し照れたように笑う。玄信は憮然として、不動の如く動かない。


「ハッ、気にするこたねぇからよ」


「――縁があればまた」


 親父の暖かい視線と、玄信の冷たい視線。

 その二つから逃げるように、すずかは蕎麦屋を後にした。

 店を離れるとき、自然と足早になっていた。



====


 

 女が去って数刻の後。

 二杯目の蕎麦を食べ終えた玄信が不意に会話を切り出した。それは親父が何かを我慢するように黙り続けていたからである。


「……三代目。あの女、退治をやめる気はなさそうだぞ。何か隠しておるのが丸わかりだろうて」


「やっぱりてめぇもそう思ったか。あの目と態度。ただ事じゃねぇのはすぐにわかったぜ」


 親父がうなずく。――あの女は義務や使命感というよりも、後がないから急いているように見えた。

 どう見ても落ち着きが足りていない。イカサマで金を毟り取る悪徳陰陽師にしては、どうも冷血さが欠けている。


「だがまぁ。あれで止まらねぇならどうしようもねぇだろ」

 

 そこで親父はチラリと玄信を横目に見る。その目には期待、あるいは難色が滲んでいた。


「てめぇには早くしてもらわねぇとな。若ぇ女を死なせるのは俺の主義じゃねぇ。――知ってるだろ?」

 

 言葉を受けて三代目の意図を察したのか。残りの汁を一度にあおり、玄信は緩慢に立ち上がった。


「なら、儂もそろそろ行こう。三代目。生きていればまた」


 簡素な言葉。冗談のようにも、死出の別れのようにも聞こえる。それは幾度となく交わされた約束だった。

 明日死ぬかも知れない男。見送る男。

 二人の間の誓いのようなものだった。そして、それは血の起請文よりも価値がある。


「おうよ。蕎麦代は三杯合わせて十五文でぇ」


「ふむ」


 軽く笑って、玄信は懐に手を入れて――先ほど巾着を出したばかりであったと気づく。

 金を払うの払わないのと問答があったときに、台の上で投げ出していたのである。

 目線を下げると――ない。

 見当たらない。

 

「ん? ここにおいた儂の巾着袋がねぇんだが」


「落としたか?」


 玄信は言われて足元を見てみる。砂しかない。

 辺りを探してみる。見つからない。

 砂を足で弄ってみる。徒らにシャリシャリと音が鳴る。

 ――なかった。


「ねぇな」

「ねぇか」


 それこそ妖怪に化かされたような珍事。

 不思議そうな顔をする二人の男。

 そこで親父がぽん、と手を叩く。

 玄信もそのとき、ちょうど思い出した。

 

 ――つまり筋道立てて考えうるに。

 

「盗られたみてぇだな」


 苦く笑いながら、親父が言う。


「ぐ、ぐぐうううう――――おおおおおおッ!!!」


 響き渡る咆哮。総髪が天を衝くかのように跳ねた。

 彼にとっては些事ではなかったのだ。


「うるせぇ黙れこの猿! 少しは俺の耳も考えろ!」


 親父の怒鳴り声が聞こえないのか、玄信の勢いはとまらない。その声が鼓膜を震わした時には既に立ち上がり、身を翻していた。


「儂の金を盗るとはいい度胸しとる……!」


 地獄の鬼もかくや、という形相で飛び出していく大男。その様に三代目は止めることを諦めた。


「そいつぁたしかに同感だが……、殺すんじゃねぇぞー」

「知らぬ!」


 蒼空が暁に侵され始めた頃。

 玄信は大通りに、跳ねるように飛び出した。

 眸子こそ血走っていなかったが――その猛然とした姿はまるで辻斬りの如くであった。

 

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