離別

大森

1

 父が死んだというのを、妹からの電話で聞いた。実家に寄った妹が第一発見者で、死因は急性の心筋梗塞だったらしい。二月の寒い日だったこともあって、発見が死後二日経ってからだったにも関わらず、かなり綺麗な状態だったと聞いた。


 僕はそれを聞いて「あいつに相応しい、惨めな最後だ」と毒づいた。僕は、彼が僕と母にした仕打ちを忘れてはいないし、三十になった今でも、その時の憎しみを消し去ることはできずにいた。

 憎しみというのは、時間と共に薄れていくような、生易しいものではない。むしろ、冷めるほど苦みが強くなっていく、コーヒーのようなものだと思う。



 葬式の喪主は、長男である僕が務めることになった。細かな葬式の内容は全て葬儀屋に任せきりにして、僕は金を出すだけで、何かに関与しようとは考えなかった。



 通夜当日、親族だけでなく、父の友人や職場の同僚が大勢訪れた。家庭内では毎日のように酔っぱらって暴力をふるい続け、若い女と不倫をし、不徳を極めてきた、最低で最悪な人間だと僕は思っていたから、父の思いがけない人脈、人徳に僕は驚いた。


「この度は……」

そう父の友人たちから言われる度に、僕は苦虫を嚙み潰したように、嫌な顔をしていたかもしれない。「死んでくれて清々してますよ。」そう言えたなら、どれだけ僕は救われたのだろう。


 

 

 父に初めて暴力を振るわれたのは、小学二年生の時だった。些細なことで父に怒られ、僕はそれに対し

「そんなのおかしいじゃん」

と、子どもながらに反論をした。次の瞬間、僕は地面に横たわっていた。父が僕の顔に回し蹴りを食らわせたのだと気が付いたのは、父の右足が、さっきまで僕の顔があった部分で、綺麗に静止しているのが横目に見えたからだった。


 その後も家庭内暴力は増えていく一方で、食事の時に僕の皿が親父に投げられるのはいつものことだったし、酷い時は包丁を腹部に突き付けられながら「殺すぞお前」と脅された。

 母はそれに対して、いつも泣きながら僕をかばってくれたが、それも気に入らないのか、父はよく母のことも殴っていた。僕と母の体には、いつもどこかに青あざが居座っていた。妹だけが、家族で唯一、父から愛されていた。


 高校生になっても、体の細かった僕は父の暴力に対抗することはできず、いつも殴られていた。

 大学生になったら一人暮らしをしようと決めていたのだが、一人暮らしをするのなら、学費も含めて、金銭的な援助をする気はない。と言われ、僕は実家から出るのを断念することになった。結局、大学で落ちこぼれた僕は中退し、フリーターとして生計を立てていくことになった。そのタイミングで逃げるように実家を飛び出した。


 母を置いていく心苦しさはあったが、それでも、この家に居続けてしまったら、自分が壊れてしまうことは容易に想像することができた。否、もしかしたら、その時には既に壊れていたのかもしれない。

 結局、母も妹の大学卒業と同時に家を出ることになり、僕と母と妹は三人で暮らし始めた。そのタイミングで、父と母は離婚した。




 それから今に至るまでの父が、どのような暮らしをしていたかはよく知らない。妹だけは、僕たちの中で唯一、父と対等に話ができたから、たまに実家に帰る彼女から聞く父が、僕の知る父のほとんどだった。

「年取ったからか、かなり丸くなったよ」「君のことを心配してたよ」「君に会いたがってたよ」

そう言ってくる妹の言葉がどうしても信じられずに、僕は父に会おうとはしなかった。正社員にもならず、細々と個人でライターをやって日銭を稼いでいるだけの僕を、父が許し、認めてくれるとは思えなかった。

 

父は僕のやることを全て否定し続けてきた。「勉強をしろ」と言ったかと思えば、勉強をしている僕を見て「勉強ばかりしてないで運動しろ」と怒り、ではと運動をしている僕を見て「勉強もしないで、馬鹿なんだから運動なんかしてんじゃねぇ!」

なら僕は何をすればよかったのだろうかと、今でも考える。僕はただ、父から愛されたかっただけなのに。



 

 父の知り合いは粗方酔っ払いはじめ、僕のことを気にしていないように見受けられたので、僕はそっと外に出て、タバコに火をつけた。

ウィンストン。父が好きだった銘柄。僕からせめてもの、父への手向けと復讐。

 


 タバコの半分が灰になったところで、見知らぬ女性が僕の横までやって来た。

「……ご一緒しても?」

「……ええ、どうぞ」

 彼女はありがとうと言って、ポケットから未開封のタバコを取り出した。彼女のそれも、ウィンストンだった。


 ソフトパッケージのそれを、不慣れな手つきで開封し、火をつけるのにも苦労している振る彼女を見て、少なくともヘビースモーカーではないなと察した。

「……息を吸いながらじゃないと、上手く火はつきませんよ」

見かねた僕は、タバコを灰皿に押し付けながら、彼女に伝える。彼女は少し顔を赤くしながら「流石、吸いなれているのね」と笑顔を向けてきた。

「親父がヘビースモーカーだったから、タバコは嫌いなんですけどね」

「あら、じゃあなんでタバコを吸っているの?」

「別に……見ず知らずの人に話すほどのことでは無いですし、ましてや女性に話すようなことでも無いですから」

「そう……私は、あなたのお父様がいつも吸っているのを見てたから、あの人への手向けにって、今日だけは吸ってみようかと思ったのよ」

どうにも自分のペースで話を進めるこの女性が、僕は心底苦手だと思った。

「そもそもあんた。親父と付き合ってた方ですよね。僕が良い気分で話をすると思ってるんですか」

「……よく知っているわね。お会いしたことはあったかしら」

「親父が一時期借りていたアパートに、あなたの写真があったので。それに、親父への手向けで今日だけウィンストンを吸う女性だなんて、親父とは並々ならない関係でした。って自分から言ってるようなものじゃないですか」

「なるほど。ま、それもそうね。じゃあ改めて、初めまして。あなたのお父様と付き合ってた、新谷って言うわ。あなたから見ると、お父様の不倫相手、ってことになるのかしらね」

「かしらね。じゃなくて、なるんですよ、実際に。……よく葬式に顔を出せましたね」

「あら、好きだった男性の葬式に来たいと思うのは、ごく自然な感情ではなくて? それに、あなたのお母様は私の顔を知らないでしょう?」

「それはそうですけれど……」

僕は新しいタバコに火をつけながら、言葉を失う。確かに、何も言いさえしなければ、新谷さんは「ただの参拝者」で終わるのだ。

深いため息とともに紫煙を吐き出す僕に、彼女は続ける。

「あの人から、息子さんのことをよく聞いていたから、一度お話してみたかったのよ」

「親父が僕のことを? 嘘も大概にしてくださいよ。あいつに僕がどれだけ嫌われていたかは、多分新谷さんもごぞんじでしょう?」

「あの人ね、いつも私にあなたのことを自慢してたわよ」

 嘘だ。なら、なんで僕に対してそれを言ってくれなかったんだ。

「あの人が口下手なのは、息子のあなたの方が私よりも解っているんじゃないかしら」


 確かに、親父は口下手な人だった。一度だけ、父が僕のことを褒めてくれたことがあった。褒めてくれたとは言っても、中学受験に受かった僕に対して、何も言わずに頭をポンと叩いただけだ。多分あれが親父の、精一杯の褒め方だったのだろう。

親父の幼少期を僕は詳しく知らないが、両親、つまり僕の祖父母たちは仕事が忙しく、ほとんど家にいなかったらしい。親父は、いつも両親の愛に飢えていたのだと思う。過去の僕がそうだったように。


「確かに親父が口下手なのは認めますが、それでも、僕や母が受けた仕打ちは別問題です。僕はただ……」

言葉が続かなかった。僕はただどうありたかった? 親父にどのように愛されれば、僕は満足できたのだろう。


「あの人はあの人なりに、あなたのことを愛していたのよ。ただ、その表現方法がちょっと解らなかっただけ。だって、両親に愛されていたという実感のない人間が、自分の息子をどう愛すればいいかなんて、解るわけがないでしょう?」

僕は何も言わずタバコを揉み消し、新しいタバコに火をつける。少し手が震えていた。

「あなたは多分、よくある理想的な家庭、みたいな感じでお父様に愛されたかったんだよね。でもね、多分そんな家庭でも当たり前のようにいざこざがあるのよ。外では幸せな家庭を演じているだけで。あなたが思う理想的な家庭、なんていうものは、端からこの世に存在しないと思うわよ」

タバコの灰がポトリと落ちた。

「人同士の付き合いってね、互いが尊重し合って、妥協と許し合いを続けることで何とか成立するのよ。少なくとも、家庭は特に、ね。あなたは、お父様に無償の愛情を求めすぎたんじゃあないかしら。あの人にそれは無理よ」



「私はそろそろお暇するわ。あの人の顔も見れたし、息子君と話すこともできたし、もう十分よ」


 新谷さんはそう言って、出口に向かう。

「新谷さん!」

彼女は僕を振り返る。その顔は穏やかで、父親が惚れるのも無理はないと思えるくらい、慈愛に満ちた表情だった。

「その……親父は僕のことをなんと言っていましたか」

新谷さんは、うーんと少し考える素振りを見せた。

「そうね、よく言っていたのは、あいつは俺なんかよりも良くできたヤツだ。ただ、良いヤツ過ぎて心配だから、俺は厳しめに接してやらないと、将来悪い人間に出会った時が不安なんだ。って」

「ありがとうございます。聞きたかったのはそれだけです……本日は父の為に御足労いただき、ありがとうございました。父も喜びます」

「そうだったら私も報われるわ。ありがとう」


父は僕に対して、彼なりに精一杯愛してくれていたのだ。ただ、僕がそれに気づかなかっただけだったのだ。きっかけは、ほんの少しのすれ違いだったのかもしれない。それが、長い年月のうちに、深く広い溝になってしまっていたのだ。




 しみじみとした空気を微塵も感じさせず、騒がしく進行する飲みの場を見て、これは本当に通夜なのかと苦笑する。ただ、これだけの人が集まってくれるような人間性を、親父は持っていたのだろう。


 僕はそっと、父の棺桶の前に立った。安らかな顔をしていた。僕はこの顔を、生前に向けてほしかっただけなのだと、今更気が付いた。

単純な、しかしどうしようもないすれ違いが、僕と父の関係を狂わせてしまったのだろう。僕の人生を蝕んでいた彼への憎悪は薄れていた。


 僕は、棺桶の横にウィンストンを置き、外へ出た。

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