愛子
ウサギノヴィッチ
愛子
愛子。「愛される子」と書いて愛子。本当は両親に愛されなかった可哀想な女の子。僕が雪のクリスマスに拾ってあげた可愛い女の子。そのときは小学校三年生だった。赤いランドセルを休みの日だったのに背負っていた。白い息を吐きながら、コカコーラの自動販売機の横でちょこんと座って虚ろな目をしていたことを今でも忘れない。僕はレンタルビデオでアダルトビデオを借りた帰りだった。一刻も早く帰ってスッキリしたかった。クリスマス? 糞食らえ。キリストの誕生日になんの意味があるんだ。僕は下半身に溜まった膿を吐き出したいんだと言わんばかりに早歩きで家に向かっていたことを今でも鮮明に覚えている。自動販売機のあるところは家とレンタルビデオ屋の中間地点で、まだ半分もあるかと思った。家から出るときにテレビの天気予報で「今日は今年一番の寒さになるでしょう」とニュースキャスターが言っていた。だから、手袋とかマフラーとか必要だと思ったが、店にいることの方が多いと思って持ってこなかった。行きはよかったのだが、帰りはきつくなった。なので、自動販売機で缶コーヒーを買おうと思った。そのとき、隣にいたのが愛子だった。愛子は僕が近づいても視線は遠くを見ていた。僕は、彼女の姿を不思議に思いながらも自分が欲しいものを買う。ジョージアの缶コーヒー。出るときの音が自動販売機のある商店街中に響く。クリスマスだからなのか田舎なのか、店が閉まるのが早かった。僕はどこか彼女のことが気になった。彼女は僕のことが気にならないらしい。通りには僕たち以外は歩いていなかった。僕は勇気を出して彼女に声をかけた。
「寒くない」
彼女は驚いた表情をした。まさか自分が声をかけられるとは思わなかったという様子だった。ただ、声にも出さないで僕と視線を合わした。
「大丈夫? 何か飲む?」
彼女は首を縦に振った。そのときに揺れた短い癖のない髪の毛が顔にかかっているのが大人っぽい。それから、もう一度彼女の姿全体を見て電撃が走ったように彼女ことが気になった。それは今までどの女性にも感じたことない感情だった。もし、この気持ちがなければ、今の僕たちはなかったかもしれない。彼女は自動販売機の方を向いた。僕がお金を入れてランプが光るとオレンジジュースを押した。寒いのにすごいなと感心した。それから、僕はもう一度勇気を出して彼女に訊いてみた。
「僕と一緒に来ない?」
彼女の目は大きく見開かれた。彼女は、喋らないなりに驚いているみたいだ。そして、彼女は金魚のように数回パクパクさせてから、首を縦に振った。彼女は感情と言葉がうまく連動していないらしかった。僕は周りを確かめてから、彼女に手を差し出す。彼女も僕の意を汲んだらしく、手を繋いだ。僕たちはだれもいないくらい商店街を歩く。
「名前は?」と僕は尋ねた。
「愛子」
彼女はそれだけ言った。僕たちに会話は必要なかった。
愛子と出会ってから十五年が経った。あのときのクリスマス以来、彼女は僕の家を出ることはなかった。彼女の中で奇妙なルールができたのか、ベランダや玄関のたたきですら出ることはなかった。主にはリビングでテレビを見ている。しかし、そのテレビには僕なりの細工をしてあった。それは、テレビのアンテナは抜いてある。映っている番組はビデオだ。彼女は小学校三年生のまま大人になっているので、あまり知能がよろしくない。なので、ビデオを一八〇分の三倍速で録画したものを見ていればことが足りてしまう。見ている番組も僕が見ているものを叩き込んだので僕が面白いといえば、だいたい興味を持って見ている。最近は、九十年代のお笑いについてハマっているようで、お笑い第三世代のビデオをよく見ている。言っておくが、これは監禁ではない。彼女が望んで僕の部屋にいるだけであって僕に罪はない。法律上では、誘拐罪になるらしいが、僕は愛子を傷つけた家族に問題があってこの状態を作りあげているように思う。
僕が昼間なにをしているかなんてどうでもいい話かもしれないが、少し触れておこう。僕は町の海辺に立っている「工場」と呼ばれる場所で働いている。大したことはしていない。ただ、計器を見ているだけだ。それを輪番制で二十四時間体制、三勤三休の体制でやってる。給料はいい。ただ、働いているときは愛子のことをかまってあげられないのが申し訳ないと思ってしまう。
体操着を着てブルマを履いた愛子が大人しくコントを見ている。サラリーマンが朝起きると運ばれてくるはずの食事が運ばれて来ないで、突然検事がやってきて裁判が始まるというナンセンスなコントだった。よくも頭が小学校三年生なのに頭がついていくなと感心してしまう。そのコントは二十分近くあるもので、しばらくはおとなしくしているだろうと思って、洗濯物を取り込んで畳もうと決めた。リビングとは別の部屋にいると時々愛子の笑い声が聞こえてくる。昔からテレビしか興味がなかった。うちには漫画や小説もあったが読まなかった。小三ならある程度の文字が読めるのは当然だが、学校で習っていない文字や語彙はどうしたのだろうか。僕には一切聞いて来なかった。残念ながらうちには辞書がないので調べることがない。雰囲気でわかったのだろうか。彼女と喋っているときは出会ったときそのままの単語力のままなのだが。
彼女が立ち上がってキッチンに行く気配がした。冷蔵庫が開く独特の音がした。
「おにぃちゃん、オレンジジュースは?」
いつまでたっても子供なんだなと思ってしまう反面、子供にしているのは自分なのかもしれないとも考える。洗濯物がある程度畳み終わったので愛子の声へと行く。その間、愛子はずっと「オレンジジュース、オレンジジュース、オレンジジュース」と言っていた。出会った頃はあまり喋らなかった彼女だが、いつしか喋るようになった。
たしか、彼女の母親が愛子のことを探すようになってからだった。
愛子がいなくなってから五年後、僕が今の「工場」で勤めるようになってから彼女の母親が愛子を探すためにメディアなどに出るようになった。家ではテレビや新聞や雑誌など外界からの情報をシャットダウンしているが、それでも情報が入ってしまうことがあった。それは、「工場」の建て増しの反対デモに彼女の母親が参加していたことだ。地元の駅から工場の建て増し予定地までを練り歩くことになっていた。そのコースに僕の家の前の道も入っていた。基本的には「建て増し反対、建て増し反対」と言いながら歩いていたのだが、たまに母親が同情を誘いたいのか演説をした。
「私の娘は五年前に誘拐されました。私は今も生きていると信じています。だから、こうして声をあげているのです。それもこれもこの町に「工場」があるからだと思っています。この町の半分以上の人たちは「工場」があることに対して仕方ないと思っているかもしれません。でも、もう一度考えてください。それが当然でしょうか? 日本中を探してもある方が稀なんです。あることで、恩恵を得るとおっしゃる人もいるかもしれませんが、それは一部の人だけです。残りの人たちはそれを受けないのです。いいですか、あることは当然ではないのです。みなさん変えようではないでしょうか。私は、今度の町議会選に立候補しようと思っております。公約は「工場」撤廃です!」
愛子はその声を聞いて怯えていたし、過呼吸気味になっていた。僕は彼女を抱きしめるしかなかった。
結局、彼女の母親はそのときは落選した。時代が早すぎたというのが僕なりの結論だった。バブルが弾けたとはいえ、公共事業の受注は県にとっても、町にとってもおいしい話だった。
僕たちの敵は、母親に決まった。そうすることで自然と彼女との結束力が強くなった。それまで体の関係を持っていなかった。それは僕の決めたルールに反すると思った。だから、別々の布団に寝ていた。でも、母親の演説を聞いた日の夜に愛子は僕の布団にやってきた。そして、自ら服を脱ぎ僕と寝た。僕も女性と一夜を過ごすのが久しぶりだったので、緊張をしたし、最初の方は理性が働いたが、彼女がどこで覚えてきたのかわからないが求めてきたので、応じてしまった。行為が終わると、僕は罪悪感に苛まれた。
「オレンジジュースがないの。買い忘れたの?」
そう言ってくる彼女は、初めて身体を重ねたときとは違っていくぶん子供に見えた。いや、子供なのだ。まだ。
僕は、スーパーの袋から紙パックのオレンジジュースを取り出す。彼女が目を見開いて喜んで両手で受け取った。食器棚からコップを取り出し、冷凍庫から氷を出してそれに入れた。
「テレビどうしたんだよ?」
つきっぱなしになっているテレビを指差して言った。愛子は一口で半分以上飲んでから言った。
「うーん、つまらないんだもん。なんか、覆面かぶった人がずっと鞭でお尻打ってるんだもん」
子供には少し刺激が強かったかなと思った。
「なにか別の見る?」
「うん」
愛子は大きく首を縦に振った。オレンジジュースを全部飲みきってしまうとリビングにいそいそ歩いていった。ただ、その姿どう見ても成人した女性だった。
僕は時々わからなくなる。彼女が子供なのか、大人なのか。年齢は二十五歳である。大学も卒業して社会に出ているいい年齢である。そんな彼女は、十五年間ずっとこの家から引きこもっている。与えられているのはお笑いのビデオだけ。それだけでもギリギリ成長しているようで、僕ともコミュニケーションを取れている。だが、セックスをしているときの彼女は違う。二十五歳の女性がそこにいる。時々、拙い日本語とテクニックがあるが、そこには立派な成人女性がいる。僕は騙されているのかもしれない。でも、それならそれでかまわない。
愛子がそばにいてくれるならば……。
愛子 ウサギノヴィッチ @usagisanpyon
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