シイラオヤジ

 暑い。今の俺に陸は暑すぎる。

 石垣島で謎の囲み取材を受け、足止めを食らった俺の意識は朦朧としていた。いわゆる熱中症ってやつだ。野次馬の質問にこたえるだけ答えた挙句、かりゆしウェアを貰い損ねた俺はすんでのところで海に飛び込み、一命をとりとめた。

 危うく、野次馬達に命を奪われるとこだった。

 

 半日ぶりの海は、最高に心地がよい。塩が染み込んで照った身体を冷ます。体温が下がるにつれて、顔がほころんでいくのがわかる。

 ああ、やっぱり俺は海が好きなんだ。


 沖縄に来るという当初の目的はすでに果たした。しかし案外、スムーズに来れたもんだ。途中、サメに食べられたけど。

 それにしても、海は本当に気持ちがいい。深く潜るとひんやりとしていて、太陽はずっと遠い。ここはよい避暑地だ。


 さて、これからどうしようか。沖縄の綺麗な海も堪能したし、特に行く宛もない......。これ以上、この海域に面白そうな所はないかな......。 いや、まてよ。

 そういえばあのシイラ、言ってたっけ......。


 一期一会の出会いの記憶が、新たな目的地をあたえる。

 俺は太平洋横断中に出会った魚のことを思い出しながら、両手をピッタリと太ももに付けて身体を上下にうねらせ、緩やかに外洋を目指した。


 漁港から少しばかり進み外洋に出ると、海は青さを増し、深くなった。獰猛なイタチザメは漁業組合に駆除されたようで、姿がみえない。


 竹富島を通り過ぎ右手に小浜島が見えてきた頃、海は夕日に照らされていた。今はもう、目に入るものは月と星と、月光に照らされた海原くらいのものだ。このまま星を頼りに南下を進めるという手もあったが、夜も遅かったので休むことにした。俺は脱力し、なだらかでやさしい潮の満ち引きに身体を預けた。


 夜の海は暗かったから、波のうねる音がよく聞こえた。日中とは違ってとても静かで穏やかだった。海原に浮かび、波に揺られながら星を数えていると、気持ちよくて眠たくなる。

 波に揺られ、何に抗うこともなくウトウトしていると、色々なことを思い出す。宮古島の海域でサメに食べられたことや、荒れ狂う嵐との遭遇。そして、優しい海の生き物たち。


 俺は一ヶ月ほど前、相模湾から土佐湾を海遊中に一匹の魚に出会った。


「おい人間、こんなとこで何してんだ? つーかお前、人間か?」

 群れから距離をとり、身を寄せてきた魚が尋ねてきた。彼はシイラで、声色からは若さと老いが感じとれた。

 推測するにシイラのオヤジは人間で言うところの三十代半ばといったところで、シャイで可憐な奥さんと、人見知りの子供と一緒に泳いでいた。


「ああ、南目指してる。あったかいところ。俺は人間だよ」

 シイラオヤジの飾り気のない態度に、俺も変に気取らずに答えることができた。

「そうか! やっぱお前人間か! でも人間ってこんなに泳げ、、まあいいや」

「ん? なに?」

「いや、お前みたいなのも珍しいと思っただけよ! それより、気をつけろよ」

「そうか、やっぱり俺って珍しいのか。なんか、そんな気はしてたんだよな。だって海の中、人間全然いないから。何か危ないことあるの?」

「まあ、一言で言うと危ないことあるな! まず、俺たちは漁師に釣られるからな! たいして美味くないのに! あそこ脂のった魚いねえから、普通に俺らのこと食うんだよね!」

「えっ、おじさんたちって食べられるの?」

「あたりめえだろ! 俺たち毒持ってねえし、見た目に反して結構しなやかな筋肉持って......って、まさか、おまえ......」

「あ、いや、俺は食べないよ! 安心して! っていうかシイラ食べる人ってあんまりいないと思う、まず食べる機会ないよ! スーパーとかにも置いてないし......」

「お、おお、そうかそうか。だよな、やっぱそうだよな。おまえの俺たちを見る目は漁師達のそれとは違うって思ったんだよ。なんとなく。 あーそうそう、こっから先はだいぶ暖かくなるから大型の魚類がでるからね」

 俺に捕食される心配がなくなったからなのか、シイラオヤジは話しながら更に近づいてきた。彼の顔にはもはや警戒の色はなく、俺達はよりフレンドリーな距離を保持しながら海中を進んだ。


 彼は不思議な魚だった。

 変に人懐っこい性格は魅力的で、いつの間にかシイラオヤジに心を許している自分がいた。

 こんなに心地よく、当たり前のように他人と話したことはいつぶりだろうと、過去を振り返った。だけど海に潜る前の自分に関する記憶は、何一つ思い出せなかった。

 

「大型って、もしかしてサメ?」

「ああ、サメだ」

「出るって言ってもハンマーヘッドとかイタチでしょ?」

 この時の俺は「海遊童貞」を捨てたばかりで、海の怖さというものをまるで知らなかった。

「いや、イタチでしょ? って、お前海舐めてるだろ。あいつらマジでなんでも食うからな、マジで」

「確かにサメってそんなイメージあるかなぁ、何でも喰いそうなイメージ」

「本当に、なんでも喰うぞ。って言うかなんでも噛む。とりあえずなんでも。お前、あまり海を甘く見んほうがいいぜ」

「うん。俺たしかにまだ怖い思いしてない。なんか、忠告ありがとう。ごめん、気をつけるよ」

 俺は出会ったばかりの人間の身を案じ、危険を知らせてくれる優しい彼の親切心を蔑ろにしている気がしたから、詫ながら礼を言った。

「わかりゃあいい。親切ついでに教えといてやるよ。あの海域にはイタチよりでかいのもいる」

「ホホジロか?」

「もちろん、そいつも特定の海域にはいる。だが、そんなもんじゃねえ。まあだけど、普通の人間は出会うことはねえ。だけどあんた普通じゃなさそうだからもしかしてって思ってよ。いいか、お前さんがどこを目指すかは知らんが、このまま南に進むなら西表と小浜の間は避けろよ」

「......危ないの?」

 シイラオヤジがあまりに凄むもんだから、俺はちょっとだけ怖くなった。

 ああ、危ない。2つの島の沖合には深い海溝がある。そこにはイタチはもちろん他の危険生物、ときにはホホジロもでる。だが危険なのは生物だけじゃねえ。あそこには特殊な海流があるんだ」

「海流......」

 俺はシイラオヤジの言う、海流の危険性とやらがあまりピンとこなかった。

 相模湾に来るまでに激しい嵐や流れにも遭遇していたが、命の危険を感じたことなどなかったからだ。

 正直、俺の泳ぎは謙遜するにはデキが良すぎた。


 いつだったか、嵐にうねり狂う海域に遭遇した俺は、脱出するために本気でドルフィンキックを繰り出した事があった。海中を縫うように進む俺。うねる海よりも身体をうねらせ進む俺。俺、俺、俺。

 そう、あれは、あの時は、世界は俺一色だった。

 あの瞬間の、羨望の眼差しで俺を見る魚群。そして、メスイルカのりんちゃん。

 俺は、あのときの俺の記憶を俺は決して、俺は忘れない。俺は。

 そう、これは臨終のときに絶対に思い出さねばならぬ程の、人生における黄金の記憶なのである。あの時の、なにものにも変えられぬ圧倒的優越感がもたらすカタルシス! ああ、たまらない! たまらん!!

 

 人生のベスト3に入るであろう桃源郷の世界に囚われ、メスイルカとの思い出に悶える俺を、シイラオヤジの念仏のような説法が容赦なく現実に引き戻す。


「あそこの沖合には、異常に流れの強い場所がある。仲間に聞いた話だと、何気なく泳いでいると不思議と身体が流されていることがあるそうだ。若くて生きのいい成魚なら流れの緩やかな段階で、危険を察知して離れることもできる。だけど年寄りや幼魚は抗うことができず、流されるんだ。そうなったらもうおしまいで、入り乱れた海流の壁に囲まれて、脱出は不可能。激流がタコの吸盤のように絡み、流れの集まる場所まで吸い込まれて、そして引きずり込まれる」

「そして、、、、引きずり込まれる?」

 おどろおどろしい語りに喉がひっつき、声がうわずる。


「そして海流に運ばれた先には、強力なダウンカレントが存在している。言うなれば、さながら海の底なし沼ってとこよ。どれだけ深く発生しているのかは知らんが、おそらくは海底までだろう。ちなみに、海底までの深さは2000m。たとえ底まで続いていなかったとしても、海流の檻にとじ込められて身体の自由はきかない、終わりさ」

 シイラオヤジは満足そうに話を終えると、俺の顔を覗いた。そしてビビる俺を確認して、気持ちよさそうに笑った。

 笑い顔ときたらまるで、新人に社会の厳しさを教えている時の上司さながらである。


 2000m......。

 おそらく、底まで到達する前に俺の身体は水圧でぺちゃんこになるだろう。

 自分で想像を膨らましてゾッとする。

(そんな死に方はごめんだ。)

 

「この海でお前みたいに気持ちよさそうに泳ぐやつはいない。ひと目見て、出てきて日が浅いってわかったよ。まあ、だいぶ脅かしたけど、海は危険な分、同じくらいの魅力も持ってる。もし南下を続けるのなら、さっき言ったポイントをずらして、波照間近辺を泳いでみるのもいいぜ。あそこの海は、天国の青色よ」

 

 土佐湾に近づいたとき、俺とシイラの群れはルートを変えることになった。

 別れの際、俺はシイラオヤジに漁師に気をつけてと伝えた。彼は「この地域じゃシイラは獲らないよ、あんたも海には気をつけろよ」と気遣ってくれた。

 俺は色々と助言をくれたやさしいシイラオヤジに礼を言い、彼の自慢の妻子に一瞥した。奥さんは会釈する度に、同じように頭を下げて返した。


 美人で気立ての良いお嫁さんに、かわいい子供。群れに合流し、遠のいていくシイラの家族の後ろ姿を眺めていると、なぜか寂しい気持ちになった。

 シイラの魚群が去って行き、小さくなると、寂しさは大きくなり孤独に変わった。

 心臓をきつく締め付ける感情を抱えながら泳いでいると、悲しみが訪れた。

 

 潜る前のことは、何も思い出せない。だけど、こんなにも悲しいということは、俺にも幸せがあったのだろうか。シイラの家族のような、幸せが......。

 

 シイラの群れと離れてから数日後のある日。

 海の噂に俺は涙を流した。どうやら、シイラの家族は水揚げされたらしい。


 群れが目指し、辿り着いた土佐湾。そこにはシイラを食す文化があり、高知の幾人かの漁師たちはシイラ漁で生計をたてていた。

 俺は悲しかった。只々、悲しかった。だから、祈った。神か万物か、とにかく、その類に。

 彼らが、幸せな家族たちの最後が、安らかであったことを。

 

 そして、理解した。たとえこの先、俺がどこに行こうと、世界の秩序は普遍だということを。

 この地球上の生きとし生けるものにとって安寧の地は存在せず、住む世界が陸上だろうが海中だろうが、結局のところ今も昔も世の中は、弱肉強食なのだ。

 

 この世界は場所を問わず無慈悲で、無情なのだ。


 俺の暗くなった心は太陽の光をはねのけ、海全体を喪に服しているかのようにどんよりとさせた。

 太陽を感じない海はとても寒く、冷たかった。


(この海は嫌いだ)


 つぶやき、救いのない世界に苛立ちを覚えると、「畜生!」と吐き捨てると同時に強く海を蹴った。


 涙とともに悲しみの海を離れるために、俺は進む。


 目指すは、暖かな沖縄の海だ。

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