祥子とむかで

三津凛

第1話

「むかでが出たよ」

畳の上をざりざりと音を立てて、一匹のむかでが這い出てきた。

夕立のちょうど上がった頃で、床下に潜んでいたのが急な洪水に驚いたのか。

「殺しちまおう」

祥子は怖がるそぶりも見せずにむかでに鋏を向けた。むかではまるで怒ったようにざりざり畳を這い回る。

「ばか、むかでは真っ二つにしても死なないんだ。菜箸で摘んで、瓦斯の火で炙らなけりゃあ駄目だよ」

わたしは得意げになって言った。

「ばか、これは立派な裁ち鋏だよ。これで内臓も甲羅もいっぺんに切っちまえばむかでは死ぬよ」

祥子も譲らなかった。わたしは「じゃあ、やってみな」というように鼻を鳴らした。祥子はざりざり這い回るむかでにさっと鋏の刃をくぐらせて、ためらいなく刃を閉じた。

むかでは真っ二つになった。ひっくり返って苦しそうに足を閉じたり開いたりしている。

「新聞に包んでくずかごに捨てちまわなきゃ」

祥子は忙しなく落ち着きがない。畳の上を駆け回って、古新聞を探し出す。なかなか見つからなくて、祥子は勝手口を開けて隣人に大声で頼む。

「おばちゃん、むかでが出た。包んで捨てたいから古新聞をくださいな」

隣は空き家だ。

「祥子、わざわざ人から貰わなくてもわたしが紙くらいやるよ」

わたしは文庫本の頁を1枚破って祥子に渡した。

「へぇ、随分と良い紙だけど」

「早くむかでを包んでおいで」

祥子は落ち着きなく畳の上をぺたぺたと駆ける。

わたしは破った文庫本を投げ出して、子供っぽい祥子を眺めた。

夏の休暇は、毎年祥子の家で厄介になった。祥子はまだ若い時分に親を亡くして、その遺産だけで仕事もせずに暮らしていた。祥子には少しぼんやりした、あけすけに言えば知恵遅れのようなところがあって、生前の祥子の母親は随分行く末を心配していた。

そんな祥子も、今年で30になった。嫁の貰い手はいない。それでも生前母親が教育した賜物か、家事は一通りできる。だが金勘定は苦手で大雑把で、硬貨や札が裸のまま箪笥や厨のあちこちに置いてあった。見つけるたびにわたしは仏壇の棚に隠してやるが、どうしても金を整理するのが祥子は苦手なようだった。

親戚たちはあまり祥子に近寄りたがらない。わたしの方は根無し草で、仕事もせず学校にも行かずでこれまた両親は近寄りたがらなかった。

夏場は幾分涼しい祥子の家にわたしはこうして逃げて来るのだ。

「大変だ!むかで、むかでがおらん。脚だけ残して消えちまった」

祥子が大騒ぎしてわたしの元に駆け込んで来る。

「頭の方が消えよった。どっかに隠れちまったよ」

「ばか、だから瓦斯の火で炙れって言ったろう」

わたしは腰を上げてむかでが真っ二つにされていた畳を見に行った。確かにむかでは下半分の身体を残して頭の方がなかった。訝しく眺めていると下半分の方もざりざりと動いて縁側に逃げようとする。

「ほら、まだ生きてるんだ。このままにしとくとそのうちくずかごからも出てくるぞ。瓦斯の火で炙るんだ」

「うん」

祥子は素直に頷いて菜箸でむかでの下半分を摘んだ。祥子が青い瓦斯の火でむかでを炙っている間にわたしは頭の方を探し回った。寝ている時にでも噛まれたんじゃたまらない。

だがむかでは一向に見当たらない。

「ちゃんと炙ったよ」

「ほら、もう動いてないだろう」

祥子は菜箸の先で細い炭のようになってしまったむかでを不思議そうに眺めている。

「頭の方はもう山の方へ逃げたかもしれないよ。戸締りをしっかりしときな」

「うん」

本当はまだ家のどこかにいるに違いないむかでの頭と過ごすのは痒い気がしたが、見つからないものは仕方ない。

祥子はむかでを炙ってしまったら安心したのか、夕飯の支度をやり始めた。わたしも厨の音に妙に落ち着いて、畳に寝そべると新聞を広げた。

祥子にはろくに理解もできないだろうに、両親の生きていた時分からの習慣で取り続けているようだった。

「祥子、炙ったむかではどうしたんだい」

「裏の勝手口から捨てちまったよ」

「ふうん。雨が降りゃあふやけてまた悪さをするかもしれないぜ」

「いやだ、本当?」

「ばか、そんなわけあるか」

わたしは笑った。

「意地悪ばっかりいっちゃあ、いやよ」

祥子は妙に女っぽい声色で科を作った。ふん、とわたしは鼻を鳴らして新聞に目を落とす。そのうち厨から味噌をとく音がして、いい匂いが流れてきた。

わたしは首を伸ばして素足のまま厨に立つ祥子を眺めた。祥子には無駄な贅肉がない。首や手足が余計に長いから、一層のっぽに痩せて見える。外にはあまり出かけず縁側で庭ばかり眺めているから、病人のように色も白い。これで頭さえまともならいい嫁になったろうに、とわたしは哀れに思った。

健康そうに伸びるアキレス腱のはっきりした線に彫刻のような美しさを感じてしばらく見ていた。

「祥子、そういえばお前は誰か好いた奴はいるのかい」

「好いた奴?」

「男のことだよ」

「はぁ」

祥子は誤魔化すように笑った。美人だけれど、祥子には人を不安にさせる幼さがあった。

「お前には分かんないだろう。まあいいわ」

祥子は味噌をとく手を止めて、わたしを見た。

「あんたは好いた奴いたのかい」

思わぬことを聞かれて、わたしは押し黙った。まさか経験がないのを祥子に悟られることはないだろう。

「いたにはいたよ」

「へぇ、いい女だった?」

「まあね」

「ふうん」

わたしは怒ったふりをして、早く飯を作れと合図した。祥子の方もそれ以上は何も言わなかった。理解できなかったに違いない。

しばらく静かにしていると、祥子はまた騒ぎ出した。

「痒い、痒い。足がたまらなく痒い」

「どうしたんだ」

駆け込んで来た祥子の踝を見ると、何か小さな針のようなものがうねうねとしていた。

目を細めて眺めると、それはむかでの小さな足に違いなかった。ぎょっとして躊躇いなく祥子の着物の裾をまくると、いるわいるわ真っ白な脹脛にまで隊列を組んでむかでの足が食いついている。祥子は一向に恥ずかしがる様子もなく搔きむしりたがる。特に痒がる踝をよく見てみると、小さなむかでの頭がちょうど皮の薄い辺りにめり込んでいた。

「ばか、掻くな。毒が回るぞ」

食いつく頭を摘んで外そうとしてもなかなか取れない。

「だからすぐに捕まえて瓦斯で炙ってりゃあよかったんだ」

「痒い、痒い、痒い」

祥子は大騒ぎして脚を振り上げる。真っ白な内腿まで露わにして痒がる様は滑稽で、わたしは思わず笑いそうになった。

「がっちり食いついてやがる。熱い風呂にでも入らなけりゃ、こいつは本当に死なないぜ」

「じゃあ沸かして来るよ」

言うが早いが、韋駄天のように祥子は風呂場に駆け込んで湯を沸かし始めた。

大した女だよ、とわたしは呆気に取られてそれを眺めた。



祥子が風呂に入っている時にも、事件が起こった。

「むかでだ、むかでがでたよ」

ちょうどわたしは飯を食べている時だったから、箸を持ったまま風呂場に行くと、確かに大きなむかでが湯の中を泳いでいた。それが不思議なことに、しきりに祥子の方へ向かって泳ぐ。濡れた縁から上がろうとするけれど、湯の小波に邪魔されてなかなか辿り着けない。

祥子は素っ裸のまま、それを凝視している。ふと脹脛をみると、赤い斑点が散らばるばかりで食いついていた足は綺麗に落ちていた。

「踝を食ってた頭の方も死んだかい」

「死んだ、死んだ。柿の実が落ちるように落っこちてった」

祥子がこたえる。

「こいつは瓦斯の火で炙らなけりゃあ」

わたしは湯の中で暴れるむかでを箸で摘んで、そのまま瓦斯で炙った。

むかでは綺麗に体を丸めてそのまま死んだ。



祥子は風呂から上がって来ると、不思議そうに聞いてきた。

「なんで2匹も出たんだろう」

わたしは少し考えてから教えてやった。

「むかでってのは夫婦でいるもんだ。1匹でたらもう1匹いるもんだ。迂闊だったな。風呂場に出た方がでかかったろう」

「うん」

「多分あいつが亭主だな。お前が殺したのが多分女房だ。女房の仇を取りに来たのさ」

「へえ」

わたしはでたらめを言ってみたが、祥子の方では信じているらしかった。

「じゃあ、私たちはむかでの夫婦を殺しちまったのかい。可哀想なことをしたよ」

「ばか、足を食われたくせに何言ってんだ」

わたしは祥子を嗤ってやった。

祥子は妙に深刻な顔をして俯いている。

その日は寝るまで祥子はそんな顔をしていた。



わたしは夜中に揶揄うつもりで、祥子の布団に潜り込んでみた。風呂場で見た祥子の裸が、これまで想像してきたどの女の裸よりも綺麗だったことに驚いていた。真っ白な内腿や、研いだ鋒を思わせる祥子の横顔なんかが瞼に騒いで寝つけなかった。

祥子は半分寝ぼけているようだった。

「……どうした、寝られないの」

「そんなところさ」

半分はお遊びで、わたしは祥子の緩くしまった帯に手をかけて解いてみた。すると祥子は思わぬことを口走った。

「……なんだい、父さんみたいなことするなぁ」

「どういうことだ」

祥子は目を閉じたまま喋り続けた。

「父さんは生きてる時に、夜こんな風にしたもんだ。いい嫁になるためってなぁ……。母さんには内緒だって、そこだけ怖かった」

祥子は無意識なのか、股を開くと脚でわたしの腰を探り当ててぐいと自分の方に押し込んだ。女の生温かい体温がして、わたしはぞっとした。

裾をまくって前をはだければあとはいいだけなのに、わたしは途端に萎えた。

「お前も父ちゃんも、大馬鹿者だな」

わたしはそう言って、祥子の布団から這い出た。



翌朝早くに目がさめると、庭の方で物音がしていた。

縁側に出てみると、祥子が庭に何かを埋めるところだった。

「なにしてんだい」

祥子が振り返る。昨日となにも変わっていなかった。

こんな女でも一応は男の味を知っているのだと、わたしは勝手に絶望した。

「むかでの夫婦を埋めてやってるのさ、一緒に」

「ふうん。足を食われたくせに優しいもんだな」

祥子は笑った。

妙に伸びやかで艶かしい笑い声だった。祥子の色気は不快だ。

虫のような気配がする。そう思うと、妙に長い首や手足はどこか蜘蛛を思わせてきた。

「まだ早いから、寝といでな」

祥子が優しげに言った。以前ならそれに救われもしたが、昨晩からどうも薄気味悪く感じてしまう。

祥子が父親と意味は分からずとも男女の経験をしていたと思うと、まともに見れなくなった。

「あぁ、そうするよ……」

わたしは言いながら、もう祥子の家に泊まるのはこれが最後になるだろうと思った。


祥子が立ち上がった後ろには、少し盛り上がった土にむかでを炙った菜箸が墓石代わりに突き立ててあった。

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祥子とむかで 三津凛 @mitsurin12

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