第6話(完)

 次の日圭介は有給休暇を取って男を看病した。圭介が男の身体を拭っても拭っても、汗が玉になって肌に張り付いた。男はひねもす呻吟し、早朝になってようやく小さないびきを立てる程度で、それ以後やはり目をぼんやりと開いていた。

 体を動かさず、頭の中でぐるぐると、各々の悩みを循環させていた。圭介と不倫をしたこと。腹の中の子が、最近元気がないこと。しばらく香菜には会えそうもないこと。

 男の腹は、もはや胎動の兆候すら感じさせなかった。まるで自分と感情を同調させているのだ、と感じると可愛かったが、そうではないだろう。この子は、拗ねている。

 香菜に、この子の名前を付けてもらいたい。

 自分で名前を付けるわけにはいかなかった。名前のない人間に名前を付けられる気分は、酷いものだろうと思った。なお、男はわが子を愛していた。

 眠そうに瞼をこする圭介に、まくし立てるように、男は腹の中の子を紹介した。その内容は、圭介を心底うんざりさせた。同じような内容の繰り返しだった。

 俺の腹の子供はとても優しい子なんだ。元気に腹を蹴ってくれるわりに、強く蹴りすぎないから俺の体の負担にならない。とてもかわいいんだ。とにかく、かわいいんだ。俺の腹の子は、とても優しい子なんだ――。圭介は、それを聞き流しつつ、男に不快を覚えさせないように適度な相槌を打つばかりだった。

 名前の話を、圭介は男にしようかと思った。男の名前を呼んでやることが、今男にとって必要なことであることは間違いない。圭介の男を想う気持ちにもそぐう行動だった。恐ろしさが、それに勝っていた。圭介は、童貞であった。子供が産まれるということが、よくわからなかった。百歩譲って男の腹の中に子がいるとしよう。しかし、今の男に何かを産みだすことは、まずもって不可能な気がする。これは精神的な問題だった。男に新しい命を産みだすことができるのか、甚だ不安だったし、目の前の、この男の中に命があるのであれば、それを圭介は自らに帰する理由で否定したかった。すなわち、男のライフステージの変化によって、圭介は取り残される感を覚えそうになるであろうということだった。

「なあ、」

 昼時だった。圭介が用意した店屋物の食事もとらず、再びうつろうつろしていた男に、努めて柔和に話しかけた。

「脚本を、書いてみないか。どれだけ下手でもいいじゃないか、何か完成したものを世に産みだすことが、今のお前には大事なんじゃないかな」

 圭介はそう提案しながら、実際にそうしてほしくはなかった。段階を踏んで、結局男は出産できる、その思いを助長させることになる。しかし圭介がそう言い切ったのは、男の、その歪んだ子への愛情をすら、注ぐ『相手』がいるということに胸を撃たれるからであった。たとえそれが実在しないにしても。そしてそれは、己が小学生時代、目の前の、女ではない女を愛していたことに似通っているようだった。すなわち、圭介の摩訶不思議な、共感が、男に脚本を書かせることをすすめたのだった。

「……俺にはできないよ」

「無理なら、また前のように日記を書くところから始めるといい。俺もお前が大学時代につけた日記を香菜さんに読ませてもらった。本当に、よかった」

「そうだったのか」

 男は顔の皺ひとつ動かさず言った。

「……正直に言えば、俺は書ける。日記だけじゃない、脚本だって、書けるんだ。けれど、今はそのときじゃない……それだけだと思ってる」

「その時は、悪いけど来ない」

 圭介は、断定した。怒りで蟀谷の血管がずきずきと痛んでいた。ここで恐らく、圭介は男の人生最大の悪者になるのだという思いがして、話すのを躊躇った。

「いいか。お前の腹の中に、子供はいないんだ。お前が、ただ妄想してるだけなんだ」

 次の瞬間、男は肉食獣の如き重いうなり声を上げ、俊敏な動きで圭介の髪をつかんだ。

「バカなことを言うな! 何を、バカなことを……」

 一瞬体中の血液が沸騰するのを覚えたが、男は平静を取り戻し、ごく自然にため息をついた。冷静な、子を守ろうとする母親の如き意志で、圭介を思い切り蹴り飛ばした。調度品に腰をしたたかにぶつけた圭介は、床にうずくまって動けなくなった。足りない。さらなる制裁が必要だ。男は台所から、包丁を持ち出して圭介の喉に刺した。かっ、と空気を吐き出す音だけが聞こえ、後は動かなくなった。男は日記が書きたいと思った。


「もしもし、香菜か?」

「うん、どうしたのよ」

「今から、圭介の家に来てほしい、住所は――」

「ちょっと待ってよ」

 香菜はまくし立てる男を制した。

「今私がどこにいると思ってる?」

「田舎の妹さんの家だろう? ここまで五時間あれば着くじゃないか」

「そういう話じゃなくて、今から――なんて無理だし、だいたいなんで圭介さんの家に」

「泊まったんだ。不倫した」

「お友達と遊んだだけでしょ? そんなの不倫といわない」

「俺にとっては不倫だ。本当に悪いことをしたと思う」

「……私を、どうするつもり」

「どうもしない。ただのわがまま。警察に出頭する前に、香菜の顔が見たくなって」

「警察……」

 香菜の声色に、それほど驚いた様子はなかった。面倒な説明をせずに済むことを喜んでいいものか、それとも夫が何か悪事を働くことを予期していたかのような素振りを悲しめばいいのか、分からなかった。

「分かった、会いに行きます」

「ありがとう」

 電話が切れた。男はようやく、衣服に沁みついた圭介の血が気になりだした。男は着ているものを脱ぎ捨てて、圭介のタンスから服を拝借した。そのあと湯船に湯をなみなみと張り、30分かけてゆっくり漬かった。そうして、常に持ち歩いていたメモ帳を開く。風呂上がりの汗でふやける紙の上に、薄い線を引く。我を忘れて、ひたすらに文字を書いていく。


 ☆月○日


 疲れた。もう何もしたくない。俺はただ文字を書くだけの機械だ。疲れたんだ。

 俺はこの子を、香菜の前で出産しなければならないのだ。水分たっぷりの赤々とした体を香菜の眼前に。それだけが、俺の生きがいだ。俺の中の、この子を見せることができたら、俺は死んでもいい。もう疲れた。

 そういえば、圭介を殺した。彼の血は赤い。俺の血は――彼と同じように明るくはない。そうあってほしくない。なぜなら俺の中の良い部分が、これまで過剰なまでに摂取した栄養が、ほとんど腹の子に回っているからだ。俺はそのおこぼれをもらって生命をこれまで維持してきた。

 この子を産んでのちの俺は用済みということだ。圭介を殺したことで、俺は罪に問われるだろう。けれど刑務所で生きながらえようという気はない。香菜には嘘をついた。これは俺の、学生時代の残渣のような優しさなのかもしれない。

 俺は今、残りかすの人生を昇華させるために日記を書いている。もう疲れたんだ。

 死ぬ前に一度、香菜とセックスがしたい。そうすれば俺の人生が脚本であったとき、少しは様になるのではないか。

 俺にはその脚本を、自らの性格を滲ませた脚本を、もはや書く気がない。俺の人生は、俺自身の行動によって語られ、脚本以上の言葉でもって表されることは必定だから、脚本を包括している。

 そんな――そんなことはない。そんなことは、俺は絶対に脚本を書くのだ。疲れた。疲れた。


インターホンのチャイムが鳴る音で男は目が覚めた。男は腹の伸びた服装で、香菜を招き入れた。部屋に立ち込める血の匂いに香菜は吐き気がしたが、男の面前、こらえた。少しの辛抱だ。

「香菜――俺は今から死のうと思う」

「……はい」

 男はやけに、香菜が素直で疑いを持った。しかし、もはや『香菜』がどう考えていようが関係はなかった。目の前の、肉付きが細く、切れ長の目をした、薄唇で、笑うと靨ができる、泣きぼくろが扇情的な、鼻立ちの良い、なで肩の、腕が短めの、小さな手の、控えめな胸の、肋骨の浮き出た背の、健康的とは言えないくびれの、落ち着いた腰を持った、スレンダーな足をした女が、その脳で男を男と知覚し、ややおびえながら、しかし夫に会えた嬉しさ、その人物が罪を犯した悲しさを、知覚していることだけで十分だった。

 男は台所から包丁を持ってきた日記を書いた後、圭介を刺した刃物を念入りに洗っていた。今からの潔白な行いに、穢れは必要ない。

「俺はこれで、圭介を殺した」

「はい」

「しかしそれはもう関係ない。圭介はもう、圭介ではないんだ」

「……」

「俺はこれで、腹の赤子を取り出す。そのあと俺は死ぬ。元気な子だと思う。名前を、付けてやってくれないか」

 香菜はなお、黙っていた。男はつづけた。

「一つだけ、確認したいことがある。俺は、ちゃんと女だったのだろうか」

 一分ほど思案して、ようやく香菜は言った。

「あなたは、私が病気だったときだけ男の人だったのよ。それだけのことよ」

 その言葉を聞いて、男は香菜の体にしがみついた。すべての納得がいった。

「産んで」

 はらはらと感涙しながら、男は腹に刃物を差し込んでいく。過程の痛覚などどうでもよかった。普段使わないところにものを入れる感覚が、どうも不思議だっただけだ。男は子を、腹からくりぬいた。眠るように、男は体を横たえた。子を大事に、両手に抱え上げていた。

「こ……」

 もう、男は何も言わなかった。

 なんの感情も得はしないただの肉片に、香菜はただの造形物に対するそれのような眼差しを送っていた。

 そうして、自身の中の幸せに落ちていったことを、単なる堕落であると、自死を決めるまでついぞ気づかなかった目の前の死体。私の産んだ子を、あのように扱った男。黄泉の国に持っていって、そこでも子供の自慢をするのだろうかと考えた。

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想像妊娠する男と、死の誕生 綾上すみ @ayagamisumi

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