第5話

 出産休暇が始まった。男の腹はさらに大きく張り、子供が強く内側から蹴るのだが、それによって生じる喜びが薄かった。香菜のことを考えていた。悲しいかといえば、そうでもなかった。全ての心情変化の原因に対して、感情が上手く湧き出てこない。自分の心がどろどろと汚れた膜に濾されて浮かび上がるような、不思議な心地だった。

 気楽であったはずのひとりの生活に、薄い灰色のベールがかかったようになった。先週、暗鬱と仕事をこなしていると、職場では同僚から「もう育児始まってるよね、その疲れだね、しんどいね」などと声をかけられた。なにいってるんだ、腹に子供がいるんだから育児が始まってるわけないじゃないか、と返す気力もなかった。

 男の心から、ごっそりと『妻』というピースが抜け落ちて、普段はそれが当たり前でありいちいち考えることはしなかったが、香菜は心の支えだった。なくてはならないものとして。

 少しずつ、何も考えられなくなるのでは、と恐ろしかった。心の病に罹患するのでは。

 ひとまずは、気の置けない友人に話をしよう、と考えた。男はメールで圭介の休みを尋ねた。早速だが二日後、会えるとのことだった。

 二日後の夜に待ち合わせの居酒屋に、そわそわしながら行った。当初、本当に妻がいなくなった悲しみを話すだけにとどめるつもりだった。

 圭介は話を親身になって聞いた。男の悩みを、すべて優しく受け止めた。涙すら、共に流した。恋愛相談――男の頭にそう、言葉が浮かんだ瞬間、自分が惨めな存在だと感じた。結婚し身ごもらされた状態で、見捨てられた女。男は、悲しみに耽溺し、自らの苦労をやや誇張気味に語っていた。それを深くうなずき、真摯に受け止める圭介を見て、心の深奥で小学生時代を思い出した。二人で楽しく遊んだ週末――あれは、まさしく恋だった。男の、恋だった。

 居酒屋で自棄になって飲んで、明日も仕事だから、と断り、圭介はその場をあとにしようとした。帰りたくなかった。圭介と、今夜は一緒にいたかった。

「圭介……」

 自分でも予想しないほど色っぽい声が出た。圭介は茶化して、

「そんな目を潤ませても、明日が仕事であることは変わらない。休みだったらもうちょっと飲めたんだがな」

「そうじゃない、そうじゃないんだ。圭介、俺たち小学生のころみたいに戻りたい」

「どうしたんだよ」

「圭介。俺は女だ。俺を、今夜は帰さないでほしい……お願い」

 男の目の潤みに、圭介はいかに男が本気であるかを悟った。彼は男を自宅へ誘った。

「なあ圭介、覚えてるかお前。小六で初めてオナニーしたとき、オカズは俺だっただろ? 俺の手の感触を思いだしながらしたんだろ、そうだろ? 俺はあの時の感触、まだ覚えてるぞ。忘れたとは言わせない。圭介の熱いチンポがびくびく、俺の手の中で脈打っていたのを覚えている! 俺は、お前の未熟なチンポをしごいた初めの人間だったはずだ!」

 圭介は男の気色ばんだ様子に、新鮮な驚きを覚えているだけ、といったような感じで、

「いや、何も覚えていないんだが」

 男は半ば獣のようになって、圭介の肩をもって無理やり――とはいえ強い抵抗をされなかったので、若干の同意はあったと思われた――寝室のベッドに押し倒した。ああ――圭介が、勃起していることが、ズボン越しにもわかった!!

「忘れるわけないよな? だってお前こここんなにして……あの時、俺の名前、何度も呼んでたよな。しごいてやるから。あの時みたいに、俺の名前を呼んでくれ。なあ圭介」

「……お前は変わったよ。確かに俺はお前にチンポをしごかれた、その感触を頼りにオナニーをした。けれどあの時のお前は、ここをこんなに固くなんてしてなかったはずだ」

 圭介が何を言っているのか、男にはしばらく理解ができなかった。圭介は男の脂肪だらけの腕をたやすく振り払い、どうあっても抵抗できないほどの力で男を逆にベッドに押さえつけた。片腕で男が身動きできないようにしながら、もう片方の手で器用に男のズボンを脱がす。男は思考がまとまらなかった。体を締め付ける衣類が少しずつほどけるのを肌で感じていた。俺が乱暴されるほうでも、いいかも――などと考え、そこでそれに対する強い反発が、心のどこかから噴き出してくる。様々なことが頭を交錯していた。駄目だ、俺はやはり、香菜に襲われるのでなければ――。

「現実を見てみな」

 それ以降、男の記憶は半ば薄れていた。熱病の夢にうなされるようだった。はじめて、これを認めたくないのだ、と思った。自らの性器がはちきれんばかりに勃起し、カウパー氏腺液にまみれててらてらと光っているのを。圭介の、ほんの数回の手の上下で、男は射精した。


 射精をしてしまった後の男の性器を、圭介は丁寧にティッシュで拭った。腫物を触るような献身的なその動作が、男の羞恥心と、計り知れないほどの罪悪感を煽った。ここで男は香菜に対して後ろめたい思いを抱いたのではない。ただ、己自身の性別と、現況との乖離が、とても受け入れがたく、縄を首元で少しずつ縛られるように男の胸は詰まり、性器に回っていた血液が、今度は顔に集中した。――男は自らの体液の循環を、必ず自分のものと意識せざるを得ない! 男は血の不潔を嘆き、腹の子を気の毒がった。腹の子に、悪しき男の養分を流し込んでいると考えると、今すぐにでも首を括りたい気分になった。

 圭介はその後もことさらに男の扇情を煽るようにふるまい、それが男に背徳を与えるものと分かり切っていたからこそ、その意欲を亢進させた。圭介にとってはもはや男は従来の男ではないという認識を、男は肌で感じ取る。

「脚本の進み具合はどうだ」

「そんなもの、どうだっていい……」

 圭介の淹れたコーヒーに口をつけることもせず、男は言う。

「せっかく長い休みをもらってるんだろ? また、日記でもつけてみたらいいんじゃないか」

「……」

 男はそれ以降もおせっかいに話しかけてくる圭介の言葉を聞き流し、ぼんやりと部屋の四隅などを眺めた。自分で自分が許せない。どうして、どうして俺は香菜ではなく、圭介を選んだのだろう。その感情は不倫に対するちんけな背徳感などでは決してなかった。慙愧の念に堪えず、しかし家を出て自宅まで帰り着くだけの気力は、どれだけ振り絞ってもなかった。

 ただ、圭介が自分を解放して眠りにつくのを待っていた。圭介がしきりとあくびをしているのは不幸中の幸いだった。

「明日は仕事だろう。寝たらどうだ」

 絞り出すように言うと、圭介は何も言わずにベッドに向かい横になった。その緩慢な所作にすら、男は苛まれているように感じた。早くひとりになりたい――いや、二人だ、この腹の子と、二人きりになって反省したい。

 圭介が寝息を立て始めてようやく、男はやや冷静になって呼吸を深くした。

 自分はただ誰かにかまってもらいたかっただけなのだろうか。確かにそうに違いなかった。性欲はたまっていた。己の欲の赴くままにふるまいたい気持ちは、もしかすると香菜と結婚した当初からたまっていたのかもしれない。けれど、己の『女性』としての欲を満たすことに、同性愛者向けの風俗店はそぐわなかった。誰ともつかぬ相手と交渉するほうが神経に毒であるように思われるし、第一そういった行為をする相手は、間違いなく男を『男性』として認識し腰を振るのだろう。それは許しがたいことだった。名前のない男と、名前を知られない交わりをするのは、断じて嫌だった。

 変わらない。それも今も変わらない。男の脳がその結論をはじき出すのに、そう時間はかからなかった。思えば圭介は一度も俺の名前を呼んでくれなかった。香菜だって、久美だって俺の名前を呼んでくれなかった。なぜだ、俺の生活から、俺の名前だけがどこかへ消えてしまったかのようだ――思考がめぐる――最後に俺の名前を呼んだのは、職場の同僚の女性だった! 小太りの、鼻の下のほくろがまるで鼻くそのように見える、あの女だった! 名前もろくに思い出せない、あの女!

 男は縋るような思いで、財布から運転免許証を取り出した。その四つの漢字の並びは、自分を自分たらしめているのか疑問だった。こんな名前は――俺の名前ではない。本当の俺の名前を、誰か、早く名付けてください――

 腹の子が、ぼこ、と動くのを感じた。男はあまりの衝撃に、めまいがして、その場に倒れた。

 名前がなかった。この子には、名前がない。

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