第4話
「よしよし、元気だなあ」
男は香菜と会えないことで寂寥を覚えつつも、腹の中の子供とのふたりの生活を楽しんだ。もはや男の心は、子を産むことに関しては盤石だった。
妻のことを考えながら仕事をしているうち、自然と学生時代に思い至る。あの、プラトニックな恋はなんだったのだろう。どうして、プラトニックだったのだろう、そう考え、男はさらに自分の中に女性の部分を見つけた。自分は、もともと女だった。そういうことだ。
また、香菜のいない――守るべきもののいない休日も、寂しくはあるが、気楽であった。
出産休暇が次の週に迫った日のことだった。ふと昔の名残を探したくなって――というのも、やはり昔の香菜が頭によぎっていたからだった――男は学生時代よく通っていた喫茶店へと入った。
木造りの風情あるドアを開けると、よく見知った顔が受け答えした。
「いらっしゃいませ……あ、お前か」
にこりと笑うと愛嬌があるのだが。などと男は考える。
映画研究会の元会長――鈴木久美(すずきくみ)は、男に対してのみとげのある対応をとる。それが一種の友情表現であることも、男はよく知っている。
「お前とは何だ、俺にだって、名前はある」
「お前の名前なんて、忘れた」
「酷いな。……いつもの」
はいよ、と注文を取り、久美はカウンターのマスターに威勢のいい声で『ブレンド一杯』と言った。平日の昼間で、自分のほかに客はいなかった。
「名前って面白いよな、普段呼ばれ慣れてないと、確かに自分の名前なんだけど、そうじゃない気がしてしまうというか。その時気づくんだな、俺と、俺の名前との間に、溝ができてしまったって」
「あーそうですかい」
けだるそうにカウンターに寄り掛かって、久美。
「仕事はどうした」
「君に会いに来たんだよ」
「香菜ちゃんが悲しむぞ」
久美がひとつも笑わずに言う様子に、男は肩をすくめる。そうして、一瞬自分がなぜここにきたのか、思い出せなくなる。
「なんか、懐かしくなったんだよな。メールに書いた通り、香菜とは別居してるが、来週帰ってくるんだ。香菜と結婚するまで、もちろん独り身だったが、そうしたら、ここに来たくなった。昔の思い出に浸りたくなったというか……」
「まあ確かに、それだけ身なりも性格も変わったら、昔の自分が興味深くもなるわな」
初めて久美が笑みを見せたその時、男の脳裏にある考えがひらめいた。それにとらわれて、思考をそらすことができない。昔の自分と、今ここにいる自分が確かにいる。そのどちらも、似通う点はあれど独立した存在である気がする。嫌な感覚だった。必死で頭から、その考えを振り払った。
「そんなことはないさ」
「そ。ブレンドコーヒーでございます」
ぶすっとした顔に戻って久美がコーヒーを出す。ブラックのまま一口飲む。
「仮にそうだったとして、会長はどっちの俺も俺だと思うかい」
「お前何言ってんの。……そんなの、決まってるじゃん。昔のお前が、お前だと思ってるよ」
「どうして」
「お前その腹抱えてどうやって女にもてんだよ」
「もうもてる必要はないんだが……」
その会話の飛躍、そして失言をしてほのかに朱のさした久美の頬から、男は身構えた。背筋に冷たいものが走った。犯されるのではないか。
「私、あのときのお前が好きだった。出会った時から、ずっと恋してた。でも、お前と香菜ちゃんの間の絆に気付いた。私、結構泣いたんだよ?」
久美の瞳に一瞬、まだ社会に出たことのないようなあどけない光がよみがえった。男は熱いコーヒーをさらに一口飲む。口の中で、歯ががちがちと音を立てているのが分かる。
「あのころのお前に戻ったら、お前のことを名前で呼んでやるよ」
「もうその話はよそう、昔の話じゃないか」
「そう? まあいいけど」
すこし残念そうに、久美。男はほっと一息ついた。コーヒーをカップの残り半分まで飲む。
久美にかつて想いを寄せられていたと知り、男はほとんど恐怖に近い不快感を抱いた。先ほどの久美の表情、あれはたしかに女の顔だった。犯される、そう本能が男に警鐘を鳴らしたのだった。
「本題に入ろう……脚本の話なんだが」
「そうだった。やっと重い腰あげたか。待ちわびたぞ」
男は脚本の案を話し始めた。しかし、思ったように言葉が出てこない。この一週間、ずっと練りに練った案を、この場で久美に話すのがひどくためらわれた。久美も、男の日誌の愛読者で、毎回楽しみにしていた。それを思い出し、男の話を聞くことで、久美が当時を思い出すかもしれないからだった。ああ、そうしたら、俺は名前で呼ばれるのだろうか! 俺の、俺は久美に名前で呼ばれる! それは非常に、羞恥をあおる行為で嫌だった。
結局その場を、適当な案をでっちあげることでしのいだ。また今度、メンバーを集めるよ、と元会長が言うが、その今度がいつ来るかは分からなかった。コーヒーを飲み干し、「まあ、また来いよ」と手を振った久美をほとんど視界に入れず外に出て、鉛のような疲れがどっと体にのしかかった。腹の子も、先ほどまでは動いていたが今は、心なしか息をひそめているようだった。
家に帰っても、まだ夕方にもなっていない。ひと寝入りするかとベッドに入り、ちょうどよくまどろみかけていたところで、スマートフォンが鳴った。
この一週間、男のもとに、職場から何度も電話の連絡が来ていた。以前いちど、その電話に出たことがある。育児休暇を取っているが、息子さんの保険加入申請がないのはどういうことだ、という話だった。男はそれを無視し続けていた。まだ生まれもしない息子――娘である可能性もある――の保険申請の話とは、向こうの手違いだとしか考えられなかった。
今回もそうした電話だと思った。寝ぼけ眼で画面の発信元をチェックして、男は飛び起きてスマートフォンを手に取る。
義父の実家からの電話だった。
男は大いに胸を高鳴らせて電話を取る。話し口は義父だった。
「もしもし、……」
「僕です、なんでしょうか」
何かを言いよどんでいる様子だった。
「なんでしょうか」
「落ち着いて聞いてほしい。香菜が、自殺未遂をした」
男は頭を鈍器で思い切り殴られたように感じた。義父の声色から、彼自身も落ち着いてはいないのだろうことが分かった。
「風呂場で、包丁で手首を切って……静脈まで傷が入っていて、もう少し切り込んでいたら命が危なかったと医者が言っていた。病院に二、三日入院することになって、私は今帰ってきたところだ」
以前電話した時の香菜の口ぶりから、症状は穏やかになっているものと感じていた。しかし、香菜の病気について調べようと昔本で読んだ、うつ病は、回復期の自殺率が高いという話を思い出した。すると、なぜか自分が冷静になっていることに気付いた。
「そもそも包丁で手首を切ることで自殺が達成できる率は低いです。医者の言葉は、脅し文句でしょう。また未遂を起こさないための。香菜は、その行為で、何らかの主張をしたかったのではないでしょうか。例えば今の環境がつらい、とか」
男は、本人は意識しないがかなり冷たい声を発していた。電話の向こうで、大きくため息をつく音が聞こえた。
「前も言ったが、君を信頼していないわけではないよ」
言葉の隅々から、義父が怒りを抑えていることが分かった。男はしかし、己が失言したのではないと胸を張って言えた。
「香菜は田舎の、私の妹の家に預けようと思う。都会の空気が、気分を落ち込める原因になっているのだと思うし、それを相談したら、気分転換をさせるのは効果的と医者も言っていたから」
その言葉を聞いて男の頭に少し血がのぼった。
「僕から、距離を置こうっていうんですか。どうしてですか。もう、香菜は俺の嫁なのに」
「しばらく、こちらで預からせてもらう。退院したら、すぐ田舎に香菜を連れていくよ。これはもう決めたことだ。香菜にも同意を取ってあるし――君になんと言われようと、そうする。――香菜の話によると、君自身も参っているらしいね。何やら自分の腹に子供がいるだなんて、不思議な妄想があるとか。君も一度実家に帰って羽を休めたほうがいいんじゃないか」
「……香菜に会わせてください」
「……」
男は、義父の長い沈黙から、信頼を全く失ったことを悟ったが、しかしその原因に皆目見当がつかなかった。
「……分かりました、それで」
投げやりになって、男は電話を自分から切った。
重く暗いタールのような気分に陥り、形どって手に取れそうな絶望が男を蝕んだので眠れなくなった。そこで、やはり自分は香菜を好きでいるのだと思い至る。どちらが男女というのは関係なく、自分は香菜を愛おしんでいるのだ。
けれど。香菜のほうがその想いに応えてくれなかった。田舎に出るということに、香菜は反対しなかったというではないか! 男はそのことが、悔しくて、踏みつけられた雑草のように惨めな思いがした。
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