第3話
休み明けの職場で、男は女上司に申し出た。
「すいません、出産休暇を頂きたいのですが」
上司は眼鏡越しに優しい目を向けて、
「育児休暇をとるのね。お子さん、生まれたのね、おめでとう、祝福する。奥さん思いなのね、私が申請しておきますから、なにも後ろめたく思うことはないのよ」
「いえ、出産休暇を」
勝手知ったる顔で、上司は所定の手続き用紙を男に手渡した。男は誤解を解きたくて仕方がなかったが、書類等に疎く、とりあえず書類を記入すれば休暇が取れる、と深く考えなかった。部署の仲間もほとんどが女性であったため、温かい言葉をかけられながらその日の勤務を終えた。八週間後から、長期休暇が始まることになる。男はそれまでの期間、当たり前のように腹に子を抱えながら業務に携わるつもりだった。
二週間が経過する。
男の腹は想像を捕まえて取り込んでいるにすぎないわけでは決してなかった。それは確かに大きくなっていくし、男にとってそれは当然だった。
体中の肉が落ちていっている香菜は、再び精神科へと通い始めた。強い薬を飲み始めたらしく、副作用に苦しんでいた。毎晩ずっと胃痛を訴えうめき声をあげていた。しかし作用が薄いので、通院ごとに薬を変えて、香菜に相性が合うものを探っていく段階だった。
その週の休日、義理の父が一人で男の住居を訪れた。三日に一度ほど、衰弱した香菜の様子を心配して男の帰宅後に家を訪れていた。
「香菜をうちに連れて帰ろうと思う」
リビングのソファに深く腰掛けた義父は開口一番そう言った。
「君に香菜が守れないというのではない、決して君を信用していないわけではないんだ。ただし、今回の香菜の病状は、前よりもひどいように感じる」
男は、この日が来ることを覚悟してはいた。義父にその様子の機微について、何が分かる、とまではいかないが、少し反感を覚える。香菜にとって人生一番の辛苦の時を共に過ごしたという矜持があった。香菜は以前ほど、苦しんではいないように見えた。
「お義父さん、僕が面倒を見られると思います、しっかり休暇も取りましたから」
「育児休暇……でも取ったのかい」
義父はうなずいて、しかし口元は固く結んだままだった。
「僕には、香菜を支えられるだけの自信があります……ご存知でしょう」
以前香菜の病状が快復した際、義父は男に多大な感謝をしていた。長く、彼は沈思した。
「それも勘案したうえでだ。君には申し訳ないが、休暇が出るまで私の家で香菜は預からせてもらいたい」
そこで男は義父の視線が、ただ一点に向いていることに気づく。丸く張った男の腹を、ただじっと見ている。ほう、お義父さんは自分の中で、すでにひとりでに脈打っている生命の存在に気付いているのか、と男は考える。
なに、ひと月半ほど、香菜と別れるだけだ。共に出生を祝うことはたやすい。
「分かりました……お父さんも、香菜がこんな事態になってさぞ落ち着かないでしょう。香菜を、お願いします」
男は寝室へ香菜を呼びに行った。このときの、骨と皮だけになった、体じゅう蒼白の香菜が、まるで初めて鳥かごから出されたかのようにきょろきょろとあたりを見回しながら不安げに階段を下りてくるさまが、男の目にどれだけいとおしく映ったことか。俺が俺から愛していた、かつての香菜が確かにいた。急に彼女を犯したい衝動が生まれた。この手から離れていく、わが妻が、限りなくいとおしく感じた。けれど、盲人が全幅の信頼を寄せる補助者の手を取るように、義父の手に触れたとき、男の興奮は一瞬にして冷めた。
自分は、自分の色に染まった香菜を愛することができる、ただそれだけなのだと悟った。
車で二人を義父母宅まで送るという提案を、義父は断った。徒歩で二十分ほどの所であるが、還暦を迎えている彼にはややつらい距離である。義父は娘の手を取って、玄関を出た。二人があちらへ歩いていく様が、やたらうるさい太陽の中へと消えた。
『なにものか』を懐妊した香菜に、犯され続けてきた日々を思い返す。彼は直接、香菜に性的強要を迫られたことはなかった。性交を迫ったのは常に男で、それも妊娠発覚後はもちろんしなかった。しかしそのころから間違いなく男は香菜に犯されていた。毎晩の帰りを待っていた香菜の情欲――ただ見つめるだけの、その蕩けたようなまなざし――には、確かに野獣のような荒々しい、無言の、しかし明瞭な性への意識があった! 男は肌に痛いほど、その視線を感じていた! ……
その夜淫靡な夢を見た。若い女の尻を、むやみに追い回す夢だった。午前二時に目覚めた男は夢の間に自分の下着に精液を放ったことに気付いた。まるで香菜に精を吐かれ、それが下着と肌との間で、生ぬるく纏わりついているかのようだった。すぐさま胎動を感じた。男は隣にまさか香菜が眠っているのでは、と半狂乱で掛布団を取っ払う、誰もいない。それでも男の動悸はなかなかおさまらなかった。
恢復した香菜のことを男は祝福した。懐妊したことを喜んだ覚えもある。しかし、その記憶というものは、頭をひねって思い出しながら出ないと確かめられないほど薄いものであった。
妊娠してのちの香菜の性欲は明らかに増進していた。仕事終わり、強い疲労を覚えながらのまどろみのなかで、呻くような喘ぎ声を何度も聞いた。男はその淫靡な声を耳にしながら、やはり自らの情欲が掻き立てられるということはなく、ただ隣には猿のように快楽のみを求めて女性器を手でさぐっている香菜がいるばかりであり、男は、果たしてここにいていいのか、場違いではないかと自己問答するのが常であった。
香菜が不倫をしていないか気になって仕方がなかった。もうすぐ子を産む人間とわざわざ不倫する男性もいまい、そう分かっていたが不安は強くのしかかった。
そうして、男は香菜に孕ませられた。新しい生命の発生につながる決定的な出来事があったわけでは、もちろんない。
その夜男は仕事のミスを責められ、不安から眠れなかった。消灯したのち、男は目を開いたまま横になっていた、香菜はルーチンワークとなった自慰をはじめる、喘ぎ声が、男の耳を突く。膣への指の出し入れに合わせて腰をくねらせる様を、窓からの明かりを頼りに男は凝視していた。やがて彼女は達し、ぶるぶると体を揺さぶったあと、トイレへと足を運んでいった。その跡、ベッドに付着した香菜の体液を、男はそばのスタンドライトをつけて確認した。――それは、男の目に、白く濁った粘性のものとして映った! 男は、おそるおそるその紙魚を、萎びた男性気に擦り付けていた。今になって男が振り返るに、この時をおいて他に、自分の妊娠を初めて意識した日はないという確信があった。
香菜は鼻息荒く、また生命の息吹も強くあった。妊婦となった彼女は生きる元気に満ち溢れていた。しかし腹を抱えては満足に動けない。そこで活力のほとばしりを、自らの性器をいじることで解消したのだった。隆盛極めんばかりの香菜に、男は自らの求めていた彼女との乖離を感じてはいた。求める彼女では、もうなかった。
「そういえばあなたの息子さん、保険加入はいいの? 手続きは出生から一か月以内だから、気を付けなさいよ。会社に言って申請してもらっておくこと」
男は女上司の言葉を上の空できいていた。
「お気遣いありがとうございます、手続きしておきます」
などと適当に流して、男はその昼休み開始後の意識をすべて香菜に持っていった。義父の家に行ってから、一週間ほどたっている。あの優しいがどこか弱々しい笑顔が、すっとした鼻梁、薄いがぷるぷるした唇――が、たまらなくいとおしく思えはじめている。今頃もずっとベッドの上で寝込んでいるのだろう。仕事が手につかない。
深夜十時ごろ、男のもとに電話がかかった。香菜からだった。
「もしもし、私だけど……」
「香菜か!? 平気かい」
「うん、今の時間はまだ平気かな。お昼間ずっと眠ってて、目が冴えちゃって。こんな時間にごめんね?」
「そんなことは気にしなくていいんだよ……電話をくれてうれしいよ。なんというか……ずっと落ち込んでいたから」
その言葉を発した時点で、男は自らを偽っていることを意識した。俺は、香菜が落ち込んでいたと、心底からは思っていない、むしろ逆だった。香菜は、生きる上での喜怒哀楽を、興味と主体性をもって味わっているのだと思った。
「心配してくれて、ありがと。私も早く、あなたの所に戻りたい、お父さん、心配とか言っておいて、ほとんど私のことをほったらかしだから。あなたに、やさしくしてもらいたいな……」
言ってしまった後に、その言葉のこそばゆさに気付いたのか、
「もうそんな歳じゃないよね、はは……」
男は、弱々しく、かつて寝込んでいたころのように笑った香菜に、強いいじらしさを感じた。
「……不思議なものだな、一回こうして離れてしまうと、香菜のことがたまらなくほしくなってしまうよ」
「そんな大げさな……なんて。私もそうだよ。早く元の生活に戻りたいね……そして、早く子供を授かれるといいな」
「……きっと、香菜が喜ぶようにする。俺の腹の中の子供、元気に育つといいな」
香菜は、そこで黙った。かなり長い沈黙だった。
「あなたの症状も、早くよくなることを祈ってる。私のことで、そんなにショックを受けてくれて嬉しい、なんていうと失礼かもしれないけど……あなたが、早く昔のあなたに戻れますように。なんて、私も自分の余裕がないんだけどね」
やや照れくさそうに笑う声が聞こえた。男は香菜の症状の、今までにない特異な妄想に心配を募らせてはいた。
「最近よくそう言うけども、香菜、よく聞いてくれ。香菜は全体的な病状はしっかりしていると思う。はっきり受け答えができるし、三食きちんと食べられている。ただ、奇怪な思い違いだけがすごく気にかかっているんだ……なあ香菜」
「やめて」
香菜は慌てた様子でそう小さく言った。まるでその後の言葉を聞きたくないかのようだったが、その後唾をのむ音が男の耳に入った。
「いいよ」
「香菜、俺の腹に、子供は生きてるんだ。腹から出てきた何かを、もう人間だと思うのはやめないか」
「……私、それだけは言ってほしくなかったな」
「待て、話は終わってない。香菜、お前の産んだ何者かだ、あれは、死だよ。香菜は死を産んだんだ。そういうことだろう。なるほど、香菜の言う通り、あれが人間だったとしよう。でもそんなことは関係なく、香菜が産んだのは死そのもの、紛れもないじゃないか。でも今、俺の体の中で確かに、こいつは生きているんだ。ほら、今もまた、子供が腹を蹴って存在を主張した! 俺の栄養がこいつに吸い取られるのが分かって、それが何とも言えず幸せなんだ。俺は今幸せだよ。香菜、この子を大切に育ててやろうな。約束だ」
「あなたは、もう……何でもない。ゆっくり休んで。今日はありがと」
電話を香菜が切った。男は久々に香菜と話ができた幸せを噛みしめ、浮ついた気分のまま就寝した。
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