第2話
男は列車での痴漢被害以降、自分が女であるという考えを固く信じていた。自分が男であるという可能性についても自覚をしているうえで、その両方の可能性を比較衡量したうえでやはり女だろうという確信だった。男は自分の中の男であるような要素を強く嫌った。低い声、ごわごわした体毛、男性器。しかしそれらを除去する必要性を感じなかった。それらを除かねば、と意識をした途端に、それらの存在が脳裏を蝕んでいくことに気付いていたからだった。それらについて考えないことが、もとよりあることを放棄すると同等であった。そうして脳内に、自分が女性であるという想像をこねくり回した。男はどんどん自分が女らしくなっていくことに喜びを覚えた。
小学生以来の男友達である圭介(けいすけ)が、一日遅れで男のマンションに弔いにやってきた。男は近頃この友人がすっかり好みになっており、頻繁に遊びに誘っていた。
「息子さんの件、残念だったな」
男は何も言わずに彼を居間まで招き入れる。すでに正午を回っていたが香菜は部屋にこもりきりだった。男が自分で、もてなしのお茶と菓子を用意した。
内心、彼の口から弔いの言葉が出てほしくないと期待していた。けれどまあ、それはちょっとした社交辞令さ。
「まあ、俺がこいつを産むからなにも変わりないさ」
と、男はその丸く張り大きく膨らんだ腹をさすった。圭介が、
「お前ホントに太ったよな。見違えるほどだ」
と合わせるが、同時に、
「ホントにお前が産むのかもしれないな、昔から女っぽかったし」
男はその言葉を聞いて、身もだえするような快感が背を走るのを覚える。そうして自分でも知らない間に、男の圭介を見つめる視線は湿ったものになっていくのだった。
「俺は女だ、っていったらどうする」
「信じてやろうかな?」
圭介は冗談めかし、また昔を懐かしむような眼をしながらそう答えた。
男と圭介は小学校のころ、特段の仲良しで有名だった。家の方向が近いからいつも一緒に下校し、休日を二人で出かけることに費やした。男のその中性的な身なりから、彼らが休日会っていることは、性の目ざめを迎える年ごろのクラスメイトたちに格好の話題となった。今にすれば、そのころの何ともむずがゆい――そう、実際交際していたわけではない、ただの友人として触れ合っていたつもりだったが――経験は、果たして恋であったのだとすら思えるようになっていた。
では、これは復縁の話し合いだろうか?
「止めてくれ、俺には香菜がいるから」
「なに本気にしてんだよ。冗談に決まってるだろ」
圭介は、ハハハ、と軽快に笑ってのけた。そののち、急に慎むように口元を手で隠し、
「すまないな、こんな場で冗談を」
「かまわない。それより、会いに来てくれて嬉しいよ」
男は柔和な笑みをもって圭介に応えた。なおばつがわるそうにする圭介は、
「そういえば、そういえば香菜さんの話で思い出した」
と、話題を変えようという意志をあからさまにさせて言った。
「お前、脚本は完成したのか」
男の脳裏に常に思い描いていた物語はあった。
「ああ、だいぶ構想は練れてきたから、そろそろ着手しようかと思ってる」
「またいつもの口だけにならないといいがな。嫁さんとの大事な約束じゃないか」
「それだけに、完成度の高いものを作り上げなきゃいけないと思っていてな」
圭介はふうん、と鼻を鳴らす。そろそろ時間だ、今日も仕事なんだと言って、圭介は暇を告げた。男はその、いささかの期待もしていない調子に、努めて怒りを覚えようとした。
自身で変化に気付いたのはそのときだった男は、これまで脚本に手を付けないことに対する圭介の態度に本気で腹を立てていたはずだった。なぜいま、彼のことを憎めないのだろうか。
香菜は寝室で、ベッドに体を横たえ、しかし目を開いていた。視線が定まらず、ぼんやりと口を開き、時々何かつぶやくようにぱくぱくと動かしている。そして断続的に、骨壺のあるほうを見ては抜け殻の笑みを浮かべるのだった。男は彼女に一瞥をやる。その姿を見て、彼女を熱心に看病していた頃を思い出す。
学生時代、香菜がまだ精気にあふれていた頃、男はサークルの活動日誌をつけることを習慣づけていた。その日誌の文章に、香菜は興味を覚えていた。映画製作の計画が頓挫したのち、病に臥せりながら男の日誌をめくることがあった。男の存在や肉体とその日誌をめくることに、ほんの少しの人生の楽しみを見出していたようだった。
今や香菜にとって生きる希望は骨壺であり、自らが苦しみを覚えて子を産みだした、ほんの一握りの証だった。男は男が子を孕ませたことを認めたくはなかったので、香菜に対し覚えるのは寂寥感だった。彼女はもはや、男を頼りに生きているのではない。自ら歩んだ道それ自身を振り返ることで、それを踏みしめた達成感を思い返し、この先も道が続くだろうと噛みしめているのだ。
そのことが、男の中で引っかかって、溶けたガムのように脳にこびりついて離れない。昔はそういった健気な香菜も、確かに愛していたように思う。
病気が快復したすぐのころ、香菜は言った。手に何度も読み返してぼろぼろになった日誌を持っていた。
「あなたの文章、とりとめもなくて、でもあったかくて。私の目から見えていた、怠惰なサークル活動も、あなたみたいな見方をできていたら。こんなに、日常って、ほっこりしたのね。あのときの自分が持っていたもの、沢山あった。楽しもうと思えば、その環境を楽しめた。……大学生活は無駄じゃなかったんだなって、思った」
香菜は日誌を開いて男に見せる。とくに汚れているページが開かれた。
『○月○日。夏休みのインターンで上手くいかずイライラ、キリキリ痛む重い胃を抱えて大学へ。まだ夏休みなのだけれども。なんとなく、来てみた。来てよかった。
家から最寄り駅まで行く間に、高い塀で囲まれた家がある。時折七輪などで肉を焼いている音と匂いが広がり風情があった。秋など魚のにおいをあたりに漂わせるもので、塀の上が近所の野良猫たちの集会所になる。
今日、黒猫が塀の上を歩いていた。俺がそこを通るのに気づき、こちらに寄ってきた。そこで俺が猫の額をつついた。猫は何一つ抵抗しなかった。ふわふわ、もふもふ。
癒された。
ちょっとしたことで喜び、映画の何気ないワンシーンで涙を流す。俺はそんな人間のようだ。朝早くのピリピリしたサラリーマン、勉強が上手くいかない学生、みんなそうなればいいのに。楽だよ?』
男がそのページを読み終えたあたりで、ページに涙をこぼした。このとき確かに、男は結婚を決意したのだった。
香菜は言った。
「私、もう一度サークルの子たちに会いたい。許してくれるか、分からないけど、でも、いちどだけでいいから会いたいな」
男は大学卒業後も継続して、香菜の代の元会長と連絡を取り合っていたので、早速彼にメールを送った。すると元会長は、一日ほどおいて、ぜひ仲間を集めて会おうという返事をよこした。
やる気に満ち溢れていた香菜の姿勢に、元会長をはじめ会員たちは嫉妬を覚えていたという。実際に就職をして時間の取れない環境に身をおいたのち、怠惰な大学生活を後悔し、その気持ちが少しずつ香菜に対する羨望に変わった。元会長から送られたメールは印象深い文章で絞められていた。
『私たちから、香菜ちゃんは学ばされました。今でも学んでいます。ぜひ、香菜ちゃんにみんなで感謝の気持ちを伝えさせてください。
追伸
香菜ちゃんの提案、覚えています。予定の合うメンバーで映画制作、ぜひしたいです』
そうして男は香菜を連れ、待ち合わせの大学近くの居酒屋へと赴いた。十数人のメンバーが集まり、そこで香菜が沢山の謝罪の言葉を受け、むずがゆそうな、しかし確かに自分の人生に自信を持ったような顔をしていた。
それが、今の男にとっては面白くない出来事だったように感じられた。
学生時代の香菜にそれほど欲を覚えなかったのはなぜだろうか、それが今分かったような気がした。
不意に押し寄せる感情があった。学生時代の香菜の若い笑みを思い返していた。男は香菜に悟られないようにしながら、久しぶりに書き物をしようと思い至った。
居酒屋の席で映画の製作予定はとんとん拍子で進み、そういえば日誌をつけていた、というそれだけの理由で、男は脚本担当を任されたのだった。男の文章に対して会員たちが抱く感想は同じようなもので、依頼されたのは、コメディ風味の脚本だった。
男や香菜と、サークルの会員は、それ以来会っていない。……まずは男に脚本を書いてもらおうという話になったからだった。すべてはそこから決めよう、と。男にしても、それぐらいはすぐに完成するだろう、という見積もりをしていた。
想像を膨らませるにつれ、男は自分の作品が紛れもない傑作で、もしかすると世界に比肩するもののない出来になるという確信めいたものが生まれてきた。それを、今この場で発表してしまうのはもったいないという気になったのだった。まだまだ構想を練ることができる。まだまだ、頭の中の超大作を磨き上げることができる。
それ以来とうとう、構想をひと文句も文字に起こすことをしていなかった。
タンスの奥にしまい込んだ、サークルの活動日誌を取り出してぱらぱらとめくった。字面から、温かい空気がふき出してくるかのように感じた。その後男は、新しいメモ帳とペンを手に取って寝室の机に向かう。まずは、日記でもつけていこうと思った。
書き終えたのち、男を急に疲労が襲った。男は香菜の隣で眠りについた。
『□月□日。香菜は寝床で子を亡くしたことを嘆いている。来る日も来る日も、息子の亡骸を見てはそれを、生きる糧にしている。
嫁が死産した時俺は子の胎動を感じた。それまでは、俺は自分の独りよがりかもしれないと不安だったが、確かに腹の中で子が動いたのが分かった。新しい命が証明された。
あと半年足らずで、子が産まれるのだ。元気な子の姿を、香菜に見せてやりたい。
ほらまた子が腹を蹴った。
おや、いま、感情がいつも以上に渦巻いている。とりとめもなく、俺はそれを記してみよう。俺は満たされていながら、あまりに性に飢えている。俺にとって、香菜は生涯の伴侶だが、性愛の対象ではもはやなくなったのかもしれない。かといって不倫をしたいわけではない。俺は女だ――誰かにめちゃくちゃに犯されたい。この奇妙な感情、不自由も性被害もない豊かな環境で育ったものの驕りのような思いが、時折顔をのぞかせる。
それをも、我が子が腹のうちにいるという高揚感が押し消している。なるほど子供は偉大だ、けれどなぜ、香菜があの何者かの骨に命を託しているのかが分からない。無性に腹が立つ。俺は香菜に、俺に宿った新しい命に少しは気を配ってほしかった。よしんば香菜が――人間でないにせよ――腹を痛めて産んだ子のことをいたわるという感情があるにしても、俺が未知の腹の痛みを思いやるということをした事実を重大視してほしいところだ。
このような感情を秘めていることは香菜を傷つけるだろう。しかし、俺は俺の感情を保つことが楽だと思う。むしろ、こういう心持ちでなくなってしまったら、俺は自我を保てないだろう。
さて、脚本を書かなければいけないな。その肩慣らしにはなったはずだ』
男はまどろみのなかで、無性に性欲を昂らせた。その時覚えた感情には、勃起を伴っていた。香菜の張った乳房をもむと、悲しく垂れるように乳がにじみ出た。
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