3.5 Tira mi su!
朝、ぱたぱたという水滴の音で目を覚ました。外を見ると天気は雨で、空には厚い雲がかかっている。絶え間なく落ちてくる水滴を見て、テレプシコーラに会いたいな、と思った。ぼくの可愛い神さまの目に、この天気がどう映っているのかを知りたくなったのだ。
傘を持って外に出る。途中でケーキを買って、それが濡れないように気をつけて歩いたのでいつもより少し時間がかかってしまった。かんかんかん、と外付けの螺旋階段を昇っていく。いつもより滑りやすい足元がなんだか、心もとなく思えた。
「テレプシコーラ?」
三階のかど部屋の前に着いて、少しほっとしたような気持ちになる。変な形のドアノッカーを叩いてそう声をかければ中からは、
「ああ、アウトサイダーかい? 鍵は開いているよ」
と、返ってきた。ドアを開いて、テレプシコーラの巣の中へ。彼女はいつもの指定席、鳥籠みたいな宙吊りソファの中にいた。ぼくを見て、ちょっと呆れたように笑う。
「いらっしゃい、アウトサイダー……君、傘を持っているのにどうして濡れているのだい? 体を壊してしまうよ」
「え?」
見ると、確かに肩口が濡れていた。ケーキの箱に気をとられていたのかもしれない。テレプシコーラはソファからするりと降りて、壁際に佇むチョコレートブラウンのクローゼットに向かった。その中から、雲のようなふかふかのタオルと、品のいい茶色のシャツをするする、引っ張り出す。
「はい、アウトサイダー。濡れたところをしっかり拭って、ついでにこれに替えるといい。ボクはお茶を入れてくるよ」
「ありがとう、テレプシコーラ」
ケーキの入った白い箱を渡して、入れ違いに受け取ったタオルの向こう、テレプシコーラのきらきら光る細い髪が揺れるのが見えた。それがなんだか眩しくて、ぼくは少しだけ目を細める。とりあえず、と肩を拭けば、ふわりと香ばしい匂いがした。なんの香りだろう? と鼻先に近づけてみたり。
「ん、アウトサイダー、君、やっぱり似合うねぇ! さすが、ボクの見立てに狂いはないといったところかな」
ちょうどぼくがシャツを替え終わったたところに戻ってきたテレプシコーラが、満足そうに頷く。不意に褒められて思わず、えへへ、とはにかんでしまった。
「サイズもぴったりだった。さっぱりしたし、助かったよ、テレプシコーラ。ありがとう」
「どういたしまして」
言いながらテレプシコーラは、テーブルに綺麗なガラスのティーカップを置いた。金色の縁取りのあるそのカップと、ぼくの持ってきたケーキの乗せられた花模様のお皿はどうやらセットらしい。
「ねぇテレプシコーラ。もしかしてそれ、ヴェネツィアングラス?」
ぼくがそう言うと、
「その通りだよ、アウトサイダー! 君がティラミスを持ってきてくれたからね。せっかくだしと思って出してみたのだよ」
テレプシコーラは大きく頷いてみせた。気づいてもらえるというのはいいねぇ、と本当に嬉しそうに彼女が言うので、ぼくもつられて嬉しくなる。テレプシコーラの笑顔は、ぼくの気持ちを上に上に、引っ張り上げてくれるのだ。
「あはは! それじゃこのケーキとボクは似た者同士だね、アウトサイダー?」
テレプシコーラは、花びらのようなガラスのスプーンでケーキを一口掬った。白いクリームを割って覗くスプーンは、雲の隙間から射し込む日の光みたいだった。
「ティラミスと? そうかなぁ。確かに白くて柔らかくて素敵なところは似ているけれど、きみはこんなに苦くはないよ」
言って、ぼくも一口食べる。あまりなじみのない、コーヒーの香りがふわりと広がった。美味しいけど、苦い。
「そうではないよ、アウトサイダー。ティラミスというのはイタリア語でね、ヴェネト州発祥のデザートなのだ。元々はチーズやクッキー、それから——君がさっきいかにも苦手そうにした——コーヒーなんかは入っていなくてね。かの地の人たちが毎日元気に働けるように食べていた、シンプルなクリームだったらしいのだ」
「に、苦手じゃないよ。いつも紅茶だから、まだ慣れていないだけ」
ぼくは慌ててそう言い訳をする。手を振った拍子に少し粉が舞ったみたいで、なんだか鼻がむずむずした。
「くしゅん!」
「ふふ」
「まだ慣れていないだけ! ……ね、それより、続きを聞きたいよ、テレプシコーラ」
「うん、ふふふ。そのクリームをこんなに素敵なドルチェにしたのは、とあるリストランテの奥さんだったそうだよ。彼女が色々な材料を加えたレシピを考えて、それに、この名前を付けたのだ。tira mi su——私を引っ張り上げて、元気にして! とね」
言いながら彼女は、スプーンで上を指す。いつの間にか雨はやんでいたようだ。ぴんと伸ばした腕が、窓から差し込む柔らかい七色の光に照らされていた。テレプシコーラはそのまま、ぽつりと呟いた。
「彼女はもしかしたら、ボクらとおんなじ世界が見えていたのかもしれないね。言葉の与える魔法をきっと、知っていたのだろう……」
雨上がりの光は眩しくて、テレプシコーラの表情がよく見えなかった。空に向かって手を差し伸べているような姿勢に、すこしだけ不安になる。テレプシコーラが言葉通りに、『引っ張りあげられて』天に帰ってしまったら、どうしよう? そういえば彼女に初めて会ったのも、こんな雨上がりの時で……
「アウトサイダー」
「え?」
はっと顔を上げると、目の前にテレプシコーラの手が見えた。その上に手を重ねると、テレプシコーラはくすりと微笑んだ。
「なんだか初めて会った日を思い出すね。あの時もボクはこうして君を——」
テレプシコーラは立ち上がって、ぼくの手を引いた。導かれるままに立ち上がる。ぼくの方が背が高いから、いつもとは逆に、テレプシコーラがぼくを見上げる形になる。
「引っ張り上げた、のだったね?」
ぼくの顔を下から覗き込むようにしてテレプシコーラは、いたずらっぽい笑みを浮かべた。分かったかい? と問いかけるような、視線。
「そうだね、テレプシコーラ。確かにきみとティラミスは似ているよ——いつだってぼくを引っ張り上げて、元気にしてくれるのだもの!」
「そう! そして君もね。アウトサイダー」
「ぼく?」
もちろん、と彼女は頷いた。
「きみが三階のかど部屋の扉を叩くとね、アウトサイダー。ボクはふわふわ浮き上がるみたいに嬉しくなるのだよ? きみもまたボクのtira mi suなのだ。ね」
テレプシコーラがにこりと笑う。
「だからアウトサイダー、今でなくてもいいから、コーヒーを素直に美味しいと言える時がくるといいねぇ」
「……。もう! テレプシコーラ!」
言いながらぼくは座り直して、再びスプーンを手にとった。今度はこの苦さだって、美味しいと思える気がして。
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