18.決裂

 少し押しただけでぎいぎいと鳴る木製のドアを開けて中に入ると、一人の女性が僕達を歓迎してくれた。


「いらっしゃい。時間ぴったりね」


 テーブルとカウンターは、すべて空席だった。店内にはカウンター内にいるマスターらしき大柄な男と、僕達の方へゆったりと歩み寄ってきた女性だけしかいないようだった。


 真紅のドレスをまとった彼女は、とても美しかった。

 白く透き通るような肌、長い睫に縁どられた茜色の大きな目、腰にまでとどく豊かなバラ色の髪、豊かな胸とやわらかい果実のような唇――そのひとつひとつを見ただけで近親者である僕でもドキリとするんだから、夢魔ナイトメアの部族の人は性別関係なく心臓に悪い。いや、でも僕と彼女は血の繋がりはないんだけどね。


 そう、彼女がヴェルの母親だ。名前はローズ。僕よりも背が高くておまけにスタイルのいい、いわゆる絶世の美女という言葉が似合うタイプのひとだ。


「変わらず元気そうで安心したぜ、母さん」

「元気に決まってるじゃない。ノアとこうして会うのは本当に久しぶりね。元気にしていたの?」

「え、あ……うん。まあ、元気かな」


 家出していたことは、彼女には内緒だ。ヴェルもわざわざ彼女に心配かけることは言わないだろう。たぶん。


「今回はごめんね。せっかく静かに暮らしていたのに、巻き込んでしまって」

「いいのよ。あなたたち子供にばかり危険なことはさせられないもの。むしろあたしを頼ってくれてうれしいくらい。……あら、その子は?」


 見慣れない子供の姿に気付いたらしい。コツコツとヒールを鳴らしながら近づいていく。屈み込んで、自分よりも背の低いルーエルの顔をローズは覗き込んだ。


「こいつはルーエルって言ってな、ノアがスラムから連れて来たんだ。ちっこいけど、結構頭がキレてしたたかなところがあるんだぜ」

「もう、本人を目の前にしてちっこいって言わないの。あなたはいつまでたっても口の悪さが直らないわねえ」


 軽くヴェルを睨みつけてから、彼女はすぐにルーエルに視線を戻した。


「あたしはローズというのよ。ルーエル、よろしくね」


 そっと小さな手を握り、彼女はにこっと微笑んだ。花が咲いたような、まさに極上の微笑み。首を少し傾けた際に、緩やかなバラ色の髪が肩から滑り落ちた。


「あっ、はい! よ、よろしくお願いしますっ」


 ルーエルはやっぱり緊張していた。彼女は悪い人じゃないんだけど、やっぱり夢魔ナイトメアだけあって迫力のある美人だからなあ。僕も城で彼女に接触した時、何度逃げ出したか。もう数えてない。

 けれど、小動物のように震えるルーエルをローズは気に入ったようだった。茜色の目を潤ませて、ほうと溜め息をついた。


「ああ、もうかわいい! ヴェルにもかわいい時期はあったけれど、これほどではなかったわ。あなた、将来いい男になるわよ。あたしが保証してあげる」

「え?」


 なぜかわいいからいい男に発展するのか。僕から見ても分かりやすいくらいにそんな疑問が頭をよぎっているらしく、ルーエルはぽかんと口を開けていた。


「ふふっ。そうね、もう二百年くらいしたらあたしが相手をしてあげてもよくてよ。一途な人なら誰でも大歓迎だし」

「あ、でも。そのっ、おれは……」

「コラ、ローズ! 子供相手にやめんか!」


 雲行きが怪しくなってきたところで、カウンターから怒鳴り声が飛んできた。ヴェルによると、いつものマスターの雷らしい。彼女はよくこうして、気に入った相手を本気なのか冗談なのか分からない言葉で翻弄するんだよねぇ。まあ、本気じゃないんだけどさ。もちろん。


 僕に言わせれば、ヴェルは間違いなく母親似だ。

 背の高さも、そして誰にでも口説き始めるところまでそっくりだ。彼女もコレがなければ、とても近づきやすくて親切で、面倒見のいい女性なんだけど……。


「冗談に決まってるじゃない、マスター。いくらあたしでも子供に手を出したりしないわよ。……まあ、いいわ。そろそろ打ち合わせしておきましょうか、ノア」

「うん、そうしてもらえると助かるかな」


 苦笑気味にそう答えると、ローズは立ち上がってテーブル席を手で示した。


「立ったままなのも落ち着かないから、一度座って話し合いましょう」


 僕達はその提案に従うことにした。

 ルーエルは僕の隣に、ヴェルは僕の向かいに座った。もちろんローズは息子であるヴェルの隣だ。


「あたしたちは入口に近いテーブル席に座りましょう。彼らにはあなたに危害を加えるつもりはなくても、話の流れ次第ではどうなるかは分からないもの」

「うん、分かった。でもローズ、きみはどうするの?」

「もちろんあなたたちの近くにいるわ。あの人はもういないけど、あたしはヴェルの母親だもの。無関係ってわけにはいかないしね。多少魔法は使えるけど、いざという時にはあなたたちに守ってもらうわ」

「それは任せてくれて構わないよ」


 話し合うべき案をあらかじめ考えてくれていたのか、ローズの采配で打ち合わせは順調にいった。話し終わった頃に壁にかかった時計を見れば、約束の時間まであと数分余裕があるようだった。

 もうじき会談の時間だ。

 こうして目前に迫った今も、うまく説得できるか自信はない。


「ねえ、ローズ。ちゃんと話せば、みんなは分かってくれると思う?」


 今もまだ不安は尽きない。あと少しで貴族のみんなが来るというのに。

 なんとなく、大人の目線から見た意見が聞きたくて出た言葉だった。

 答えを待っていると、彼女はふんわりと笑った。


「そうね。あなたが語る言葉なら彼らは聞くんじゃないかしら。新王や将軍の言葉には耳を貸さないとしてもね。彼らはあなたのことは幼い時から知ってるし、あたしもあなたの頼みだから聞いてあげたのよ」

「僕だから……?」


 聞き返すと、ローズは強く頷いた。まっすぐな茜色の両目には強い確信に満ちた光が宿っていた。


「好きなようにやってみなさい。あなたはヴェルのこともイリスのことも助けてくれた。だから、今度はあたしがあなたを全力で助けてあげるわ」


 心が、熱く震えた。

 彼女の言葉が嬉しかった。赤の他人としてではなく友人以上の、もっと身近な存在として彼女は手を貸してくれているんだ。


「うん、ありがとう。僕がんばるよ」


 思わず頬が緩んで、笑った。つられたようにローズも顔を綻ばせた。






 打ち合わせ通り、僕達は扉に近いテーブル席に座った。

 店内はノーザンの貴族達でいっぱいになっていた。アレクみたいな大臣の職に就いている者から、騎士をまとめる団長や領地を治める者に至るまで。誰も会談の場所に対して不満をもらさずに、僕を見つめていた。


「率直に申し上げますと、我々はノア王子がノーザンの国王にふさわしいと思うのです」


 貴族達の筆頭を務めるアレクが代表して、そう言った。

 ほかのひとの顔を見ると、みんなは同意を示しているようだった。


「どうして、そう思うんだい?」


 感情を表に出さないようにしなければ。冷静に、そして穏やかな表情を忘れずに。

 緊迫した空気を破って、火に油を注いだら一巻の終わりだ。


「ノア様は前国王の血を引いた正当な王位継承者ではありませんか」

「だけど、父上は僕に王位を継がせるつもりはなかった。そのことはきみたちもよく知っているじゃないか」


 これは事実だ。悔しいし、認めるには心が痛むし、この点に関しては言いたいことがやまほどある。けれど、感情論は後回しだ。

 僕の今すべきことは幼い頃からの夢を叶えるチャンスに乗っかることではなく、ノーザンの平和を保つこと。


「カミルが国王になってから、ノーザンはずっと良くなった。他種族のひとの命を狩っていた者を国から追い出したし、被害に遭っていた翼族ザナリール獣人族ナーウェアの村の復興にも着手していて順調だ。だからこそ、国全体の経済も以前より良くなった。王都は活気が出てきて、笑うひとが多くなった」


 ノーザン王国はイージス帝国とは違って、国民は魔族ジェマだけではない。東の森には妖精族セイエスが住んでいるし、北の山には翼族ザナリールの村がある。それに獣人族ナーウェアが住む村だって、地方にたくさんあるんだ。

 種族が違っても、その一人一人は僕にとって大切なノーザンの国民だ。


「僕はカミルのやり方に何の不満もないよ。きみたちは違うの?」

「あの男は王家の血を引いていません」


 眉間に皺を寄せてアレクが言った。その表情はいまだ険しいままだ。


「そもそも、彼は出自さえ不明なのです。精霊使いエレメンタルマスターとしての実力はとてつもなく高く、そのせいか前国王陛下も彼には信頼を置いていました」

「だが、裏切られた! そればかりか、あんなどこの馬の骨とも分からぬあの番犬を城に入れたのですぞ!」

「所詮我々と同じ魔族ジェマといえど、吸血鬼ヴァンパイアの部族の者だ。奴らは他種族を狩って喰らうという、おぞましい方法で子孫を作るのです。信用なんかできるわけがありません!」


 みんなの高ぶっていた感情が少しずつあふれ出てきている。流れがまずい方向へ進んでいる気がした。

 カミルの名前を出したのが、良くなかったのかもしれない。


「そんなことはないよ。みんな、新王がしてきたことをよく思い出してみて。彼はすべてノーザンにとって良いと思える手段を取ってくれているし、僕やヴェルのこともわざわざ探し出して保護してくれたんだ。そしてイリスやラーシュには、今も必要な治療を施してくれている。彼は十分信頼を置ける人物だよ」


 両手を広げて身振りをしながらみんなに語りかける。ありったけの気持ちを込めたつもりだった。

 けど、何かを察したのかローズが突然席を立った。続けてヴェルも立ち上がる。


「あなたは騙されているのです、ノア様! あの二人はあなたを利用しようとしてそばに置いているのですよ!」

「その通りだ! あんな低俗な者の近くにノア様をいさせるわけにはいかない。我々がお守りしなければ!」


 貴族達までもが立ち上がる。彼らの目は真剣だった。感情にまかせた言葉が次々と耳に入っていく中、ぐいっと腕を引っ張られた。

 かすかに香る花の匂い。ローズだった。


「タイムリミットよ、ノア。長居は危険だわ。逃げなさい」

「いや、でも……」


 ためらったら、彼女は手に力を込めた。迷っている暇はないらしい。


「分かった」

「あたしが時間を稼いであげる。あなたはヴェルとルーエルの三人で、【瞬間移動テレポート】で城へ戻りなさい」

「……なに言ってるんだよ、ローズ」


 一緒に逃げるという選択肢は、彼女の中にはないのか。いや、彼女は最初からこうするつもりだったんだ。

 ローズは元庶民で、酒場の歌うたいだ。剣は扱えない。僕より少し魔法が使えるくらいの実力だ。なによりも、女性である彼女を置いて行けるわけがない。


「子供は余計なことを考えないの。あたしは大人だから大丈夫よ。ほら早く!」


 背中を強く押された。いつのまに店の外にまわったのか、酒場のマスターがドアを開けた。さらに力を込められて、外へと追いやられる。


「ローズ!!」

「大丈夫。これでもあなたたちよりは要領がいいから、死にはしないわよ。ヴェル、あなたはノアを無事に城へ連れていくのよ。できるわね?」


 一歩も動こうとしない彼女の背後には、追い迫っている男達が見えた。


 だめだ。そんなの絶対だめだ!

 誰も傷つけないために会談をセッティングしたというのに。こんなの無意味だ。間違ってる。僕はローズを犠牲にして助かっても、全然嬉しくない。


「おいヴェル、まさか本当にローズを置いて逃げる気じゃないだろうな」


 ヴェルは何も答えなかった。黙ったまま僕の腕をつかんだ。


 それがおまえの答えなのか、ヴェル。

 ローズはおまえの母親なのに、なんで言うこと聞こうとしているんだ。意味が分からない! 僕達だけ逃げるだなんて、絶対に嫌だ。


 僕は抵抗を決意した。ヴェルの腕を振り切ってでも、僕は彼女を守る。そう決めた。


 その時。

 あろうことか、ヴェルは突然僕を店の外にぶん投げた。


「うわあっ!」


 予想外のことだったから、受け身を取り損ねて背中を強く打ったみたいだ。痛すぎて、声が出せない。

 けど、その後のことはしっかりと耳に届いていた。


「ちょっとヴェル、何し……きゃあ!」

「うるせえ! ここで母親を見捨てたら男じゃねえだろ! オレは母さんの息子だ。なら、母さんを守れるのはオレだけだろうが。ルーエル!」

「オッケー! まっかせて!」


 続けて、聞こえてきたのはぼふんというなにかが破裂する音。きっとルーエル特製の爆弾だろう。痛みをこらえて起き上がって見ると、もくもくと煙が上がっていた。

 そしてその煙をバックに立つのは、自分の母親を抱きかかえたヴェルの姿だった。


「ノア、いつまで呆けてんだ。今のうちにさっさと逃げるぞ!」

「分かってる」


 ふらりと立ち上がる。あちこち痛かったけど、ヴェルに文句は言えない。それに彼が僕のことより、母親を優先させたのが嬉しかったんだ。


 ルーエルの手を取って、僕は魔法語ルーンを唱えた。ヴェルはあのままローズと一緒に逃げるだろう。問題はないはずだ。

 視界が歪む。魔法は無事に発動し、瞬く間に白亜の城の前に僕とルーエルは立っていた。


 こうして僕達は酒場から逃げ出した。会談は失敗に終わり、貴族のみんなとは事実上決裂という最悪の結果になった。これ以上彼らに近づくと、僕は今度こそ捕まってしまい、クーデターの旗印にされるだろう。


 胸を塞ぐのは、鉛のような絶望だ。


 ノーザンの貴族達とカミルはもう分かり合えないのだろうか。そして僕は、その争いに巻き込まれていうのだろうか。再び愛する故郷が血で染まることになるなんて、僕には耐えがたいことだ。

 イリスだって、ようやく自由を得て毎日楽しく過ごせるようになったのに。


 だからといって危うげなこの状況を打開できる策なんて思いつかない。

 僕はこれから、どうすればいいのだろう。

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