8.襲撃
「——狼の集団?」
ぽつりとそう聞き返すと、久方ぶりに会った酒場のマスターは太い腕を組んで、強く頷いた。
「ああ。正確には、狼のガキどもだけどな」
「それって、前に店の売り上げを盗んだっていう子狼達のことか?」
カウンターに頬杖をついたままマスターを見上げれば、彼は首肯した。
連携して売り上げの金庫を盗んでいった子狼の集団。前にルーエルに連れられてここに来た時に聞いたけど、ずいぶん前のことのように思えた。
いつもなら自分の寝ぐらにこもってノクトの世話をしているところだけど、今日に限っては酒場に来ていた。なんでも目の前にいる彼、この店の主が僕に話があるらしいとルーエルが伝言を持ってきたんだよね。
彼は冗談を言うタイプではないし、この辺の界隈では穏健派に近いと聞く。つまり話の通じる相手ということだ。だから呼び出しに応じて、こうして店に来てあげたんだけど……。
「でもその集団はルーエルにもらった情報で居場所を突き止めて、きみが懲らしめに行ったんじゃなかったっけ?」
見上げて首を傾げたら、目の前にコトンとグラスを置かれた。中身はオレンジ色の液体だ。匂いを嗅ぐと柑橘系の香り。オレンジジュースだった。
「もちろんだ。だがな、ああいう輩は一回や二回痛い目に遭ったところで懲りねえんだよ」
「へえ、そりゃ大変だね。今度は盗まれないように創意工夫が必要になってくるんじゃない? 頑張れマスター」
グラスを口につけて、オレンジジュースを飲む。すると見計らったように、皿に載ったスコーンが出てきた。
「……あのさ」
「ん? なんだ、坊主」
恨みがましく睨みつけても、マスターは表情ひとつ変えなかった。まるで僕の反応をあらかじめ予想していたみたいに。
「たしかに僕は大人じゃないけど、いくらなんでも子供扱いしすぎだと思わないかい? 何だよ、オレンジジュースとスコーンの取り合わせって。バカにしてるだろ」
立ち上がって腰に手を当てて、僕は断固抗議した。それでも彼は豪快に笑うだけだ。悪びれもしない。
「ははは! そう思うな、ノア。ウチで未成年のガキに出せるものといえば、このくらいのものしかねえんだよ」
「むしろ果物のジュースとスコーンをスラムで出せることが、僕にはすごいと思うけどね」
「まあな。最近戦争もパッタリ途絶えちまったから、王都の流通が落ち着き始めたらしいぜ。まあ、それは置いといてだ」
言葉を切ってから、急にマスターは真顔になった。
どうやら真面目な話のようだ。
空気を読んで、僕は再び席に座る。
「気を付けろ、ノア」
眉間にしわを寄せて、彼が告げたのはたった一言だった。
マスターの顔から目を逸らさずに、僕は尋ねる。
「どういうこと?」
「……ずいぶん前の話だが、お前
「うん、拾ったけど」
それがどうしたというのだろう。
「放って置けばくたばるはずだった
「何だよそれ!」
ガタ、と音を立てて僕は勢いよく立ち上がる。
「死にかけの人を助けたのが気に入らないって、意味が分からない。じゃあ、あのまま見殺しにしろっていうのか!?」
「落ち着け、ノア」
「これが落ち着いていられるか。あのまま放って置いてたら死ぬところだったんだ。それに彼にそういう仕打ちをしたのは僕達
「いいから落ち着け!!」
雷のようなマスターの怒号で、思わず身体が竦んだ。途端に燃え上がっていた心が落ち着きと取り戻し始める。
「……ごめん」
席に座り直すのは何度目だろうか。大人しく席に着くと、マスターは二杯目のオレンジジュースをグラスに注いでくれた。
「まあなんだ、お前のそういうところは俺も嫌いじゃねぇさ。だけどな、この街では力がすべてなんだよ。弱い者は強い者に従うしかねぇんだ。そして
ちゃんと彼の言葉には耳を傾けながら、僕は冷め始めているスコーンにフォークを突き刺した。一口かじってから、それをオレンジジュースで流し込む。
「……知ってる。彼らは目に魔力を持っていて、相手を金縛りにして動けなくする能力を持っている。それに魅了の力だって持ってるんだ。その点を考え合わせても、彼ら
まあ、それも万全な状態だったならばの話なんだけど。
「そうだ。だから、あいつらは弱っている
「それは分かったけど、どうして子狼達が僕に目を付けるんだよ?」
不服だった。特に相手が子狼っていうのが、気に入らない。
「
「はあっ、馬鹿馬鹿しい。そんなの僕がまとめて叩きのめしてやるよ」
残りのスコーンを食べて飲み込んでから席を立った。財布から金を出して、テーブルに置く。
話は一通り聞いた。これ以上、酒場に長居する必要もない。
「ノア」
きびすを返した僕を、マスターが呼び止めた。振り返ると、彼はしかめっ面のまま言った。
「集団の狼を甘く見るな。一人一人はガキでも、束で襲われたらお前でも歯が立たないかもしれんぞ」
酒場から出たら、太陽は傾き始めていた。
空の色はまだ変わり始めていないから、遅い午後の時間ってところか。
とりあえず、子狼集団のことは気をつけなければ。帰ったらルーエルに話して、罠を多めに設置できないか相談してみよう。
ようやく薬湯を飲めるようになったとはいえ、ノクトはまだまだ世話が必要で身動きは取れない状態だ。僕が身を呈してでも守ってあげないと。拾った以上、彼の面倒は最後まで見るつもりだ。
寝ぐらに帰ったらするべきことをあれこれ考えながら、僕は歩き始めた。いつものように脇目も振らず、ただ前を向いて。
「ノア、見つけたぜ」
薄暗いスラムのメインストリート。唐突に聞こえた声には聞き覚えがあった。
まさか。
そんなこと、あるはずがない。あいつがこんなところに来れるわけが……。
僕はゆっくりと振り返る。そして目に飛び込んできたものに驚愕した。
嘘だろ。でなければ、何かの冗談なのか。
僕と向かい合わせるように立っていたのは金髪碧眼の男だった。背が高く、体格のいい
「……ゼレス」
呼応するように、ゼレスはにやりと笑った。つった切れ長の目はまっすぐに僕を射抜いている。
ぞく、と背筋が凍った。
あれは狼が獲物を狙う時の目だ。碧い目に宿る光は鈍く危険を孕んでいる。
久方ぶりの再会だった。なのにどうして彼は、こんなにも僕に対して穏やかでない
態度を取るのだろう。
——いや。全く不可解というわけじゃない。
だから、僕は。
「まさか本当にスラムにいたとはな。さて……」
すぐさま背を向けて、逃げ出した。
「こらっ、ノア待てぇええええ!」
待てと言われて待つ馬鹿がどこにいるというんだ。あれは間違いなく、僕を連れ戻しにきたという顔じゃないか。
全速力だ。
もっと動け、僕の足!
ぐずぐずしてたら背が高いゼレスに追いつかれてしまう。ただでさえ、足のコンパスが違うんだから。
ちら、と僕は後方に視線を向ける。
「げ……!」
予想以上にゼレスは距離を詰めてきていた。さすが現役で王都の中を動き回っている将軍は違うな。
ああ、本当にヤバい。
どうしても身長差で僕の方が不利な分、ただ逃げるだけではだめだ。追いつかれてしまう。
「くそ、捕まってたまるか!」
走り寄って、道の端に置かれているゴミ箱をつかむ。
そしてそれを、ゼレスに向けてぶん投げた。
「何しやがる! 危ねえだろうが!」
ちっ、見事に避けやがったか。
だけど速度は落ちている。この隙に一気に引き離してやる!
「このまま逃げられると思ってんのか。この俺を舐めんじゃねえぞ、不良息子が」
突然、ゼレスの声のトーンが落ちた。
嫌な予感がして思わず足を止める。振り返って見るとそこには体格のいい
「うわ、
ヤバい。ゼレスは本気だ。あいつ、本気で僕を捕まえる気だ。
獣の足はヒトより遥かに早い。
このままじゃ確実に追いつかれる。嫌だけど、しのごの言ってられない。捕まるよりはマシだ。
覚悟を決めて、僕も
「面白い。どっちが上か、思い知らせてやる」
碧い目がギラリ、と光る。
僕は無我夢中で駆け出した。
同じ狼の姿になったとはいえ、ゼレスは僕よりもふた回りほど大きな狼だ。こちらが不利なことには変わらない。
だからこのままただ逃げるよりも、狭い裏路地に入ってあいつを撒くしかない。この街の土地勘は僕の方があるし、向こうも複雑な道に入って追ってくるのは至難の技だ。
「よし……!」
一番手近にあった路地に入り込む。
まっすぐ進んで、さらに右へ曲がればさらに道の選択肢が広がる。とりあえずそこに行き着くまでに全速力で駆けて、距離を詰められなければいけるはずだ。
——と、スピードを緩めずに後ろを振り返ってみれば、ゼレスの姿はなかった。
「甘いな」
余裕のある声と同時に現れたのは、僕の正面からだった。何もないはずの空間から、突如として金色の狼が現れる。
「くそっ、【
もう裏路地は無理だ。戻らなければ。
そう思考が働くだけで、これ以上急には止まれなかった。なにせ狭い路地だ。ターンもままならない。
そんな僕をあざ笑うかのようにゼレスは跳躍し、そして強い力で体当たりしてきた。
なすすべもなく吹っ飛ばされ、視界がぐるりと回る。
「離せ!」
地面に叩きつけられたと同時に前足で体重をかけられ、動きを封じられた。
相変わらず馬鹿力だな。屈服するのも癪だから、思いっきり睨んでやる。
「いい加減観念しろ、ノア」
「何しに来た、ゼレス。政務を放り出してこんなところに来るだなんて、ノーザンはよほど暇なんだね」
分かりやすいような嫌味を言ってやったのに。こいつときたら、あろうことか僕を真上から覗き込んで、口を開けて陽気に笑った。
「おー、言ってろ言ってろ。政務はラーシュやミカルに頼んできたし、俺が不在となれば研究三昧な大将も腰を上げるさ。つーか、俺がお前を連れ戻しに行くのは大将からも了承済みなんだぞ」
分かりにくいと思うから予め捕捉しておくと、ゼレスの言う大将とはカミルのことだ。なぜかこいつは城に上がった時から、カミルのことをそう呼ぶ。
——って、そうじゃなくて。
「なんでカミルが、今更」
手紙のやり取りは毎日していた。必要なお金は送ってきても、今までどの手紙にも直接帰ってこいなんて書いて来なかったのに。
「まぁ大将もヴェルにあそこまで頼み込まれたら腰を上げるさ。直接報告したのは俺だけどさ」
「どうしてそこでヴェルの名前が出てくるんだよ」
噛み付くように反論すると、金色の狼は楽しげに笑って言った。
「頼まれたんだよ。お前を連れ戻してくれってな」
言葉が出なかった。頭の中で、どうしてという疑問がぐるぐる回る。
「ヴェルだけじゃねえ。イリスや他のみんなだってお前がいなくて寂しがってるんだぞ。まったく、心配ばっかりかけやがって」
「…………どうして」
「は?」
ぽつりと呟いた言葉はゼレスには届かなかった。真上にいる彼の碧眼をまっすぐに見て、僕ははっきりとした声で疑問を投げかける。
「どうしてさ。イリスはヴェルが見てれば大丈夫だし、ラーシュやミカルも城にさえいれば安全だ。今のノーザンに僕は必要ないだろ」
きょとんとした顔で金色の狼は僕を見下ろした。そしてすぐに深いため息をついた後、なぜか軽く睨まれる。
「ったく、必要とか必要ないとか関係ねえだろ。家族だから心配するに決まってるだろ。それだけお前は妹や弟達に想われてるってことだ。そんでもって、俺も大将もお前のことを心底心配してんだぜ?」
一瞬、先日のノクトの言葉が頭の中でよみがえってきた。
——おまえを大切に想っているひとがいることを、ちゃんと覚えていてくれ。
だけど、すぐにゼレスの発言によって僕の思考は現実に引き戻された。
「本当にバカだよなあ、お前は」
そんな簡単なことも分かんねぇとは、と続けられて、正直ムッとした。台無しだ。むしろ腹が立つ。僕に対してバカバカ言うとは何事だ。
このままでは黙っておれず言い返そうと口を開いた矢先、ゼレスの方が先に畳み掛けるように言った。
「だから一緒に帰るぞ。異論は認めねえ」
いや、認めろよ。強引にもほどがあるだろ。
なんでカミルもこんなヤツ、僕のところに行かせるかな。
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