7.スラムを選んだ理由

「もしかしてノアは、自分の国に帰れないのか?」


 晴れた日の午後。食事の時に、ノクトは唐突にそう切り出した。


 何の前触れもなく言われたせいで返すタイミングを失い、僕は固まる。

 しまった。これじゃあ、肯定したみたいになるじゃないか。


「……別に、帰れないわけじゃないんだよ」


 まっすぐ見つめてくるアイスブルーの瞳を見返して、僕は笑みを浮かべた。

 うーん、ますますまずい。誤魔化して笑っているみたいで、余計に誤解されそうだ。


 ノクトを拾って面倒を見るようになってから、二週間が経った。以前に送られてきたカミルのマニュアル通りに、今日から薬湯を飲ませていたところだったんだけど……。


「それならおまえは帰るべきだろう」


 当初掠れ気味だった声は、しっかりとよく通る低音に治ってきていた。青ざめていた顔色もだいぶ血色がよくなったし、こうして身体を起こして食事をしたり落ち着いて会話できるようになった。


 だから、なのかな。


 以前、僕はノクトに口約束した。スラムに滞在しなくてはいけない理由をいつか話す、と。

 だけど二週間経っても切り出そうとしないから、ノクトの方から切り出すことにしたのかもしれない。あるいは、ゆっくり会話できるまで回復したから、というのもあるだろうけど。


「ノア、おまえは帰る家があるのだろう? こんなスラムよりも、快適な生活が送れる場所が」

「どうして、そう思うんだい?」


 ベッドの近くの椅子に座っていた僕は、一度薬湯の入った器を傍らの簡易テーブルに置いた。

 ちなみに、ルーエルは一足先に昼食を終えて仕事に行っている。今、この部屋には僕とノクトの二人だけだ。


「おまえは読み書きができるし、魔法だって使える。一般常識以上の知識を持っている。ちゃんとした教育を受けてきた証拠だ。スラムでそのような子どもは……まずいない。それなりの身分のある家で、大事に育てられてきたのだろう?」


 まあ、大事にされてきたという点に関しては、反論したいところだけど。概ね間違いではない。


「だから、帰れって? 誰かの世話なしに生きていけない、弱ったきみを放っておいて」


 ため息をひとつ吐く。


 分かってる。僕のためを思って、彼は言ってくれている。

 でも。


「きみを見捨てて、僕だけ安全な場所に帰れって言うのか? ノクト、僕はそんな薄情なヤツに見えるのかな」


 優しいタイプではないと、自分でも自覚はしてるけど。大体こんな言い方をするなんて、卑怯もいいところだし。


「いや、そうではないんだ。赤の他人に過ぎない俺を助けてくれて、おまえにもルーエルにも感謝している。だが、おまえが俺のために砕いてくれている時間や労力を思うと……」

「難しく考えすぎだよ、ノクト。僕はやりたくてやってるんだから」

「しかし……」

「それに、僕の時間や労力を費やしてきみが元気になるのなら、全然無駄なんかじゃないさ」


 消えそうだった命の灯火を拾い上げたのは、後先考えずの行動だったけれど。きっと、僕はこの先も後悔なんてしないだろう。ただ、今度からはちゃんと考えてから行動しよう、と反省した。


 だから僕の中では終わっている話なのだけど、助けられた本人としては納得もできないのも確かで。

 笑顔を向けても、ノクトの表情は晴れなかった。


 ここはやっぱり、本当のことを白状するか。そう腹をくくり、僕は彼に向き直る。


「ノクト、実を言うと僕は家出中の身なんだ」


 アイスブルーの目が丸くなる。薄い唇が、ゆっくりと動く。


「……家出?」

「そ。絶賛家出中」

「いや、家出は褒められるべきことではないだろう。……しかし、おまえの事情を俺は知らないから責めることもできないが」


 言いたいことは分かる。だけど事情を突っ込んで聞かないところを見ると、彼も悪いひとではないのかも。


 ——と、思ったけどやっぱり口に出せずにはいられなかったみたいだ。ノクトは渋面で言葉を吐き出す。


「家出するにしても、スラムでなくても良かっただろう」

「まあ、ね。普通はスラムに住もうだなんて思わないだろうさ。でもどうせ家出をするなら、帝国のスラムじゃなければいけなかったんだ」

「なぜだ?」


 不思議そうに首を傾げるノクトに、僕は口元を緩めて答える。


「鼻のいい追っ手オオカミからの追跡を逃れるためさ」


 そう、スラムは隠れるために都合のいい場所だ。食べ物は手に入りにくいし新鮮な食材はケタ違いに高くて買い物はしにくいけど、安全さえ確保するコツを身に付ければ案外住み心地も悪くない。


「……狼?」

「そう。僕のことを探して、連れ戻しに来るであろう刺客だよ」


 椅子の上で足を組んで言い切ると、ノクトの表情が曇る。


「それは刺客ではなく、ノアの家族かその関係者の誰かが心配して探しに来るのではないのか」


 アイスブルーの目が責めるように僕を見つめていた。

 それについては、僕は何も言わなかった。あえて知らないふりをしたかった。

 沈黙が部屋を満たす。

 しばらくしてから、ノクトのため息が聞こえてきた。


「……まあ、いい。それでなぜ追っ手から逃れるために、スラムは都合がいいんだ?」

「うん、それにはちゃんと理由があるよ。スラムならどこでもいいわけじゃなくて、イージス帝国のスラムが良かったのさ」

「帝国のスラムが? 国によってスラムは特色が違うのか?」


 スラムはどこにでもあるというわけじゃない。でも僕はノーザンと帝国と、どちらのスラムも住んだことがあるから知っている。まあ今は両国のスラムを比較しても仕方ない。本題は別なのだから。


「ノクト、きみは帝国から出たことはないの?」

「……ああ、そうだな。この大陸からは出たことがない」

「そっか。なら分からないかもしれないね。ノーザン王国では、イージス帝国の評判はひどいものなんだよ」


 海を隔てていても、噂は城にまで届いていた。前国王の父はいつも帝国を意識してたっけ。


「広大な国土を治めている夢魔の王は冷酷無比で、最近特に力をつけてきていると聞く。現に他国を侵略し続けているし、ついこの間も人間族フェルヴァーの国が落とされたそうだよ。それに国王は国民にも食人習慣を押し付けているという話じゃないか。だから、ノーザンでは帝国のことを危険極まりない国だとみんな恐れているんだよ」

「それなのに、おまえはよく帝国に来る気になれたな」

「だからだよ」


 口端をつり上げて、僕は腕を組む。


 勢いまかせの家出ではあったけど、行き先は僕なりに考えた。

 誰も追ってこれない場所か、追うことをためらう場所。どこでもいいから、一人になれる場所が良かった。


「国外の、しかも危険な国だと評されている帝国のスラムに逃げ込んでしまえば、さすがに誰も追ってこないだろう?」


 危険極まりない国と言っても、それは魔族ジェマ以外の種族のひとにとって危険ということだ。僕は魔族ジェマだし、食べられる危険もない。せいぜいスラムで盗みや強盗に気をつければいいだけだ。スラムに身を置くのは初めてではなかったから、怖くはなかった。


 ノクトは呆れただろうか。それとも、まだ帰った方がいいと言うのだろうか。

 反応を確かめたくて彼を見ると、視線を落として黙り込んでいた。考え込んでいるようにも見える。


 そして不意に顔を上げて、僕を見る。


「本当に?」


 ぽつりと口にした一言だった。え、と聞き返すと真顔でノクトはさらに問いを重ねた。


「本当にそうだろうか?」


 すぐに言い返すことができたはずだった。なのに、僕はできなかった。

 見つめてくるアイスブルーの目は、真剣でまっすぐで、とてもじゃないけど逸らせない。


 僕の方もだんだん彼の言いたいことがつかめてくる。手を握りしめると、てのひらは汗をかいていた。


「おまえを本当に心配しているのなら、どのような場所にいようと探しに来るのではないのか?」

「ははっ」


 乾いた笑みがこぼれた。喉の奥からなんとか振り絞った声だった。


「僕みたいな一匹狼を、誰がわざわざ探しに来るっていうのさ。こんな治安が悪い場所に、危険を犯してまで」


 そうだ、探しに来るわけがない。


 弟や妹たちは守らなければいけないくらい弱いけど、カミルは城に迎え入れてくれた時点であの子達の面倒を見ると約束してくれた。だから帝国に来させるような真似はしないはずだ。

 彼本人だって、手紙は寄越すけど今度は迎えには来ない。


 そうだ。誰も来るはずがない。


「ノア、家族というのはかけがえのないものだ。どんな形であれ、想い合う気持ちは自分で思っているよりも強くて、尊いものだ。そして大抵その宝の価値は、失ってから初めて気づくことが多い」


 アイスブルーの瞳が揺れている。目も睫毛も濡れていないのに、なぜだか僕はノクトが泣き出しそうに見えた。


「失ってからでは遅い。遅いんだ、ノア。おまえは俺の命の恩人だ。おまえにどんな事情があるかは分からないし、すぐに帰れとは言わない。だが、後悔して欲しくもない。おまえを大切に想っているひとがいることを、ちゃんと覚えていてくれ」


 彼の手足はまだ動かないし、ただ語気を強めて言われただけだ。

 けれど、強い輝きを放つノクトの目が迫り上がってくるように感じて、僕は気がつくと頷いていた。


「……うん、分かった」


 少なくとも、妹や弟達はかけがえのない家族だ。お互いにそう思っているのは確かなくらい、ノーザンの城でもスラムでも苦楽を共にしてきた。それでもあの子達は帝国のスラムには来ない。いや、来れるはずがないんだ。

 心の中で、僕はそう自分に言い聞かせ続けていた。

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